脳内彼氏と小悪魔男子

森崎緩

脳内彼氏と小悪魔男子

 脳内彼氏と付き合い始めて三年が過ぎた。


 彼の名前はショウ。職業はフリーター。

 だけど単にふらふら遊んでる人ではなくて、どうしても叶えたい子供の頃からの夢があって、それをひたむきに追い駆けている男の人という設定だ。

〈だから支えて欲しいんだ、小牧こまき。いつか夢を叶えたら結婚しよう〉

 ショウが約束してくれたので、今は私が働いて彼を養っている。

 彼は食費がかからないので私が支払うのは家賃くらいのものだし、支えていくのは難しくない。何より愛があるから大丈夫――という、設定だ。あくまでも。

〈愛がある? 僕もだよ、好きだよ小牧〉

「恥ずかしいからあまり言わなくていいよ」

 彼の言葉は全て私の想像の産物だ。だから言わせておいて恥ずかしがるのも何なんだけど、その手の台詞には免疫がないので極力言わせないようにしている。そんな言葉なんてなくたって恋はできるのだ。多分。

 ショウも聞き分けのいい人で、私の頼みはできることなら何でも聞いてくれる。

〈わかった。言わないけど、いつもそう思ってるよ〉

 ほらこの通り、私にとっては理想の彼氏だ。

 身長は百七十五センチ、歳は私の一つ下。顔は普通だけど、私にとってはとてつもなく好みだってことにしてある。イケメン設定にすると他の人に『会いたい、写真見たい』なんて言われる恐れがあると思ったからだった。

 誰に何と言われようと、決して紹介できないのが脳内彼氏の辛いところだ。


 この世に生を受けて二十八年、脳内以外で彼氏を持ったことはない。

 学生時代から今に至るまで色恋沙汰とは無縁の日々を送ってきた。彼氏が欲しいと思わなかったわけではないものの、作る為の努力はほとんどしてこなかった。

 ここが人に言うと笑われるポイントのようで、私は自然と好きになった人に告白をして、そこからお付き合いをするような恋がしたかった。友達に紹介してもらうとか合コンへ行くといった恋の始まりは少し気恥ずかしくて受け入れがたかった。恋をする為に出会いを求める、というやり方にはどうしても乗り気になれなくて、そこまでするくらいなら彼氏なんて要らないと思っていたのだ。

 ところが、就職して社会に出るとのんびり構えていられなくなった。

新稲にいなさんって彼氏いないの? え、いたことない? 嘘でしょ?」

 就職してすぐに出会った職場の先輩は、そう言って私を笑った。

 素直に『恋人いない歴イコール年齢』だと打ち明けてしまったのがいけなかったのかもしれない。私が危機感を抱いた時には既に遅く、その話は職場中に広まっていた。 

「彼氏いないのって寂しくない? 私なら一ヶ月でも耐えらんない」

 別の先輩には大袈裟なくらい驚かれたし、

「確かにいなさそう。新稲さん、真面目すぎてつまんないし」

 歯に衣着せぬタイプの同期にはそう言われた。

 かと思うと、

「何ならいい人紹介したげる。新稲さんより少し年上なんだけど……」

 世話焼きの上司には十も年上の独身男性を紹介されそうになった。

 女性が多い華やかな職場というのもあるのかもしれない。世の中の皆が皆、彼氏持ちというわけでもないはずなのに、どういうわけか私ばかりが珍しがられて弄られた。飲み会の度に彼氏はできたの、いないなら紹介しようかと持ちかけられればさすがにうんざりしてくる。かと言って九時五時なんて夢のまた夢みたいな職場にいて、私の望むような出会いと恋があるわけでもない。


 だから嘘をつくことにした。

 そう、最初はほんの軽い気持ちでついた嘘だった。

「彼氏ができたんです。もう一緒に住み始めてまして」

 飲み会の席で私が打ち明けると、職場の皆からは一斉に質問攻めにされた。

 そこで私も急ごしらえの恋人を披露する羽目になった。名前はショウ。一つ年下。夢を追うフリーターで日々勉強に勤しんでいる。出会いのきっかけは――。

「雨の日に、一緒の軒下で雨宿りしてて、そこで意気投合したんです」

 自分としては小説でよくあるシチュエーションを語ったつもりだったのに、

「へえ、何かドラマみたいな出会いじゃない?」

「そんなロマンチックなこと、本当にあるんだねえ」

「そこで意気投合するって、新稲さんのキャラっぽくないね」

 話す度に疑惑の目を向けられてよく冷や汗をかいた。

 自覚はあったけど、私には架空の恋愛話を思いつくにも限界があったらしい。

「夢を追うって聞こえはいいけど、フリーターでしょ? 大丈夫?」

 中には本気で心配してくれる人までいて慌てた。フリーターというのも『私にお金を使ってくれない、将来的に結婚できない』理由を踏まえて選んだだけで、現実味なんて一切考慮していなかったからだ。

 だけどここまで来て嘘とは言えず、何が何でもつき通すことにした。

「いいんです、私は彼を支えていきたいって思ってるんです。そりゃ安定した職業ではないですけど、私は彼に夢を追って欲しくて心から応援しているんです」

 そうして嘘を貫くうち、ショウの設定も固まってきた。

 彼は夢に対してストイックな人だけど、私にはひたすら優しく、欲しい言葉をくれる人だった。仕事で疲れて帰る私をいつでも微笑んで迎えてくれる、それだけで私は幸せになれる。多くを求めず一途に想う、それこそが正しい愛の形だと私は思う。


 脳内彼氏というのも、最初のうちは嘘の延長のつもりだった。

 どうも私のイメージする恋愛、及び男性像は経験豊富な人達からすると現実味がなく、妄想めいているらしい。そういう指摘を受ける度、私はショウの設定の微調整を迫られた。

 もっと彼を本当の人間らしく描く必要がある。彼についていつ、どんな設定を尋ねられてもいいように、まるで作家のように彼を空想し、創造する必要がある。経験不足は言い訳にならない。封建社会のエミリー・ブロンテにできたことが、現代を生きる私にできなくてどうするというのか。

 私はショウを、実在の人物のように想像することにした。

「ただいま、ショウ」

 仕事を終えて一人の部屋へ帰った時、私は彼が出迎えてくれたような想像をする。

〈お帰り、小牧。今日も遅かったね〉

 ドアの鍵を開けて部屋に入ると、彼は玄関まで出て来て明かりを点けてくれる。

 実は感知式ライトなので誰がということもないのだけど、あくまでも想像上はそういうことにしておく。

「ごめんね、遅くなって」

 私は靴を脱ぎながら振り返り、ショウに声をかける。

「もうご飯食べちゃったでしょ?」

〈うん、ごめん。お腹空いてて待ち切れなくて〉

「別にいいよ。私も軽くつまもうかな」

〈小牧は何作るの? 僕はツナと水菜のパスタにしたよ〉

「じゃあ私も同じのにする」

 同じのにするも何も、冷蔵庫にある食材から手早く一品作るとしたらそのくらいしかない。私は着替えを済ませると、キッチンに立って食事の支度をする。鍋に湯を沸かしてパスタを茹で、その間に水菜を刻み、ツナ缶の油を切っておく。

 茹で上がったパスタに水菜とツナを盛りつけた後、お皿とフォークを持ってリビングへ向かう。ローテーブルの前には既にショウが座っていて、私は彼と向かい合って遅い夕食を取る。

「いただきます」

〈へえ、小牧のパスタも美味しそうだね。食べたかったな〉

「今度のお休みには私がご飯を作るから、楽しみにしてて」

〈嬉しいけど、無理はしなくていいよ。仕事で疲れてるだろ〉

 ショウはいつだって優しくて、私の望む言葉をくれる。脳内彼氏なんだから当たり前だ。何もかも私の思う通りになる。

 だけど『嘘から出たまこと』なのか、嘘もつき続ければ本当のように思えてくる。脳内彼氏との付き合いも三年を過ぎ、私の生活はどんどんショウに侵食されていた。部屋にいる時は常に彼のことを考え、彼の前でみっともない格好はしないように心がけた。休日は彼とどう過ごすかを考え、実際に二人旅のつもりで旅行へ出かけたりもした。

 仕事で辛いことや悩みがあった時は彼に話を聞いてもらった。

 ショウがくれるのは、いつも私の欲しい言葉だ。

〈最近、仕事はどう? 上手くいってる?〉

「もう六年目だからね、ぼちぼちかな」

〈例の新人君の指導はどう?〉

「浅倉くんね。結構覚えのいい子で助かるよ」

〈小牧も頑張ってるんだろうね、偉いよ〉

「ありがとう、ショウ」

 言われたい言葉を言わせている後ろめたさはあるものの、ショウとの会話が私の心の清涼剤になっているのも事実だった。

 リアルではこんなふうに誉めてくれる人、あんまりいないから。


 ショウに語ってみせた通り、私は社会人六年目を迎えていた。

 入社直後は何度となく辞めちゃおうと思ったものだけど、ここまで続けてこられたのも私自身の頑張り、そしてショウのお蔭だ。今では職場内でも一定の地位を獲得しており、彼氏のことで上司や同僚から弄られる機会はぐっと少なくなっていた。

 そして現在の私は、新人の浅倉くんの教育係となっている。


「新稲さん、少しいいですか?」

 その浅倉くんが、気遣わしげに切り出してきた。

 彼は大学出たての二十三歳、目鼻立ちがすっきりしている今風の青年だった。身だしなみに気を遣っているのだろう、いつもこぎれいにしていた。何人かの女子社員が彼のことを気にして、新人係の私を羨ましがっているらしいと聞いていた。

 そんな彼にも、最近では悩みがあるらしい。

「どうかしたんですか、浅倉くん」

 私が聞き返すと、彼は申し訳なさそうに両手を合わせた。

 それを合図と見て私は浅倉くんを廊下へ連れ出し、人目のないところで改めて尋ねる。

「もしかして、今日の飲み会のこと?」

「はい」

 浅倉くんは憂鬱そうに頷いた。

「今日もお願いできませんか。俺、また皆に弄られそうなんで……」

 女性の多い我が職場に突然やってきた新人の彼は、当然ながら同僚達の視線と関心を一手に集める存在となった。素直で愛想がよくて将来有望、見た目も悪くないと来たら皆が放っておくはずもない。恋愛的な意味で関心を持たれているのかどうかはわからないけど、皆が何かと言うと彼を構いたがるのは教育係の私もよく知っている。

 だけど浅倉くん本人にとってはたまったものではないらしい。

「皆さん悪い人じゃないのはわかるんです。でもお酒入ると弄りがきつくて」

「そうですね、私も遠回しに言ってはいるんですけど」

 女性ばかりの飲み会だから上品かつエレガントな歓談の場になる、というのは大いなる誤解である。

 かつて新入社員だった頃の私も、そんな飲み会で大層弄られた。恋人いない歴を馬鹿正直に打ち明けたのもよくなかったのだろうけど、いろいろ言われてへこまされることも多かった。そうして神経を磨り減らした結果、私は脳内彼氏を持つ選択をした。そのお蔭か、あるいは純粋に勤続年数が増えたからか、お酒の席でからかわれることはめっきり少なくなっていた。

 もしかしたらターゲットが移っただけのことかもしれないけど。

「俺も女性が相手だときつく言えないんですよね。まして皆さん、先輩ですし」

 力なく笑う浅倉くんを、私は放っておけなかった。

「じゃあ今回も、私の傍に座ってください。何かあったらフォロー入れます」

 彼からSOSを貰って以降、私は飲み会となると浅倉くんの傍に座るようにしていた。酔いの回った先輩がたが無茶を言うようなら割って入って、浅倉くんを助けてあげる為だ。元から『真面目すぎてつまらない』と言われる私にとってこの役目はぴったりだった。私が口を開いて真面目な話題を振ると、皆は上手い具合に白けてくれる。

「ありがとうございます、新稲さん」

 浅倉くんはぺこっと頭を下げた後、恐る恐る言い添えてきた。

「それともう一つ、できれば新稲さんにお願いしたいことがあるんですけど」

「何でしょう?」

「俺、二次会に出ないつもりなんです。でも一人で抜けると気まずいので、その」

 一緒に切り上げて欲しいということだろうか。

 確かに新人さんは『先に帰ります』なんて言えないものだろう。私はいつも『部屋で彼氏が待っている』ことを理由に二次会は辞退していたから、その役目も適任と言えた。

「なら私がタクシーの相乗りを呼びかけますから、一緒に抜けるのはどうですか?」

 私の提案に浅倉くんはぱっと表情を輝かせた。

「助かります!」

 顔立ちは紛れもなく大人の男性なのに、笑うとどこかあどけないのが浅倉くんだった。皆が放っておけないのもわかるな、私は心中密かに唸った。

「いつも新稲さんには助けていただいて、感謝してます」

 彼がそう続けたので、私はすぐにかぶりを振った。

「新人さんをフォローするのが教育係の務めです、いつでも頼ってください」

 すると浅倉くんは笑ったまま、いたずらっ子みたいに聞き返してきた。

「いいんですか? 俺、新稲さんには甘えちゃいますよ」

「甘えられるのは新人さんのうちだけですから、今のうちにどうぞ」

「やったあ。今の言葉、忘れないでくださいね」

 屈託のない口調で念を押す浅倉くんに、私は軽く頷いた。

「忘れたりしませんよ」


 その日の飲み会はいつも通りだった。

 浅倉くんは酔っ払った皆に弄られて、笑顔を絶やさないながらも対応には苦慮しているようだった。

 私は空気の読めなさを発揮してそこに割って入り、できる限りのフォローはしたつもりだ。同僚達はその度に白けた顔をしていたけど、浅倉くんだけはほっとした様子で、目だけでお礼を言ってくれた。


 そして二次会の話がぽつぽつ出始めたところで、私は声を張り上げた。

「私はここで抜けますけど、タクシー相乗りする人いませんか?」

 すかさず浅倉くんが挙手をする。

「あ、俺、今日は帰ります」

 たちまち皆からは残念そうな声が次々と上がった。

「浅倉くん帰っちゃうの? もう一軒行こうよ」

「若いんだからまだ行けるでしょ? 残ってもいいじゃない」

 予想通り、そんなふうに引き止められていた。

 だけど浅倉くんはぺこぺこ頭を下げながら支払いを済ませ、私に続いてお店を出た。

 居酒屋を出た後、私達は念の為にタクシーを拾える辺りまで少し歩いた。そして店が見えなくなった距離まで来ると、浅倉くんが大きく息をついた。

「上手くいきましたね、新稲さん」

「そうですね、お疲れ様です」

 私が労うと、スーツ姿の彼は窮屈そうに首を竦めた。

「新稲さんもお疲れ様です。いろいろと気を配っていただいて、助かりました」

「いえいえ。明日はお休みですし、帰ってゆっくり休んでくださいね」

 そう答えて、じゃあまたと暇を告げようとしたところで、

「新稲さん、もう帰るんですか?」

 浅倉くんが私に尋ねた。

 その問いの意味がぴんと来なかった。

「え? はい、帰りますよ」

 帰る為にお店を出てきたのだから、そうするに決まっている。

「もしかして彼氏さんがお迎えに来るんですか?」

 次の問いには内心どきりとした。

 なぜなら、そんなことは天地が引っ繰り返ってもあり得ないからだ。ショウは車を運転できない。私も車は持ってない。

「いえ、タクシーで帰りますけど……彼、免許ないから」

 とっさに答えてしまってから『車ないから』の方がよかったかと思った。

 私の動揺をよそに、浅倉くんはあどけなく笑った。

「だったら、ちょっと寄り道しません? 今日助けていただいたお礼がしたくて」

「お礼なんて、別に気を遣わなくても……」

「そんなわけにいきませんよ。いいお店を知ってるんですが、よかったらどうですか?」

 彼はそう言った後、声を落として囁くように続けた。

「そのくらいなら、彼氏さんも怒ったりしませんよね?」

 もちろんショウが怒るはずはない。彼はやきもちを焼いたりはしない人だ。だって脳内彼氏だ、私がそう望めば実行可能な事柄については望んだ通りにしてくれる。

 だからそういう意味の問題はない。だけど。

「それは大丈夫ですけど……」

「よかった! じゃあ行きましょうか」

 笑顔の浅倉くんに促され、私は釈然としない思いで応じた。

「じゃあ、少しだけなら」

 内心では、何か変だなと思っていた。

 浅倉くんは職場の飲み会が苦手らしいのに、私と過ごすのはいいんだろうか。


 足取りも軽い浅倉くんに連れられて、私はカフェバーなるお店を訪れていた。

 雑居ビルの四階に入っている全席ソファの静かなお店だ。店内は金曜の夜らしく混み合っていて、にもかかわらずどこかまったりとした空気が漂っていた。


「ここ、デザート類も美味しいんですよ」

 一人掛けのソファにお互い腰を下ろしたところで、浅倉くんがメニューを差し出してくれた。

「特にアイスクレープが絶品で。お酒飲んだ後のアイスっていいですよね」

 どうやら浅倉くんは甘いものが好きらしい。

 せっかくお薦めしてもらったので、私は素直に絶品らしいアイスクレープを頼んだ。浅倉くんも同じ品を注文し、店員さんが立ち去った後でにっこり微笑む。

「急にお誘いしてすみません。この店、男一人じゃ入りにくくて」

 浅倉くんが弁解するように続ける。

「今夜、新稲さんに付き合ってもらえて嬉しかったです」

 なるほど、一人では来にくいお店だから私を誘ったということだろうか。

 私は周囲を見回す。この店の客層はほとんどが若い男女のようで、恐らくはその大半がカップルなのだろう。私達のように仕事帰りと思しきスーツ姿もぽつぽつ見受けられたものの、素敵に着飾った人の姿の方が多かった。人生を心ゆくまで謳歌している人々の為の店だと思う。

 こういうところにはショウとのデートでも来ない。彼とはお一人様でも気楽なチェーン店か、そうでなければお客さんの少ない静かなお店に入ることが多かった。

「今更ですが、迷惑じゃありませんでした?」

 浅倉くんに尋ねられ、私は手を振りながら応じた。

「迷惑なんてことは。浅倉くんこそ、早く帰らなくてよかったんですか?」

「それ、どういう意味です?」

「てっきり早く帰りたいから、私に相談したのかなと思って……」

「違いますよ、飲み会だけ早く抜けたかったんです」

 さらりと答える浅倉くんに、私は釈然としない思いを拭い切れていなかった。

 このお店に来たいが為に私を誘った、それを疑う根拠はないけれど――でもそれだけではないような気がしてならない。

「もしかして、緊張してるんですか?」

「えっ」

 言い当てられて私は慌てふためき、

「あ、あの、こういうとこってあんまり来ないから」

 とっさの答えに浅倉くんは怪訝そうにする。

「そうなんですか。彼氏さんとは、いつもどういうお店に?」

「えっと、うどん屋さんとか、ラーメン屋さんとかですけど……」

 すると浅倉くんは一瞬目を瞠ってから、くすっと笑った。

「意外ですね。でも、肩の力が抜けていいなって思います」

 その言葉に私はこっそり胸を撫で下ろした。どうやら不自然には思われなかったようだ。

 思えば浅倉くんと、仕事を離れて二人でいるのは初めてだった。いや、もっと言えば異性と二人でこじゃれた感じの店に来て、差し向かいで食事をすることすら初めてだった。緊張するのも仕方ない。

「俺もうどん好きなんです。いい店知ってたら、今度連れてってください」

 浅倉くんは緊張している様子もなく、ねだるように言ってきた。

 お店を教えてくださいじゃなくて、『連れてってください』なんだ。私なら新人時代に、先輩にそんなお願いはできなかったけどな。それが不快ではなく、ただただすごいな、人懐っこいんだなと思わせるあたりは彼の人柄のなせる技だろう。

 答えに迷っていればクレープの皿を持った店員さんが近づいてきて、正直なところほっとした。


 お薦めされただけあって、アイスクレープは美味しかった。さっぱりめのバニラアイスはひんやり冷たく、お酒の回っていた身体に心地よかった

「すごく美味しいです」

 私が感想を述べると、浅倉くんはたちまち口元をほころばせる。

「でしょう? 新稲さんにも気に入ってもらえてよかった!」

 そして自らもアイスクレープを美味しそうに食べる。その屈託のない様子に、私までつられて微笑んでしまう。

「浅倉くんは甘いものが好きなんですね」

「大好きです。休みの日はよく一人でお店開拓してるんですよ」

 そこで浅倉くんは少年みたいにはにかんだ。

「男なのにってよく言われます。でも甘いもの好きに男も女もないと思いません?」

「そうですね、どっちだっていいですよね」

 確かに男の人は甘いものを食べないというイメージがあった。だけどそれは異性をよく知らない人間の偏見なのかもしれない。現にこうして甘いもの好きな男の子だっている。私は男の人のこと、よく知らないから。

「さすが新稲さん、わかってもらえて嬉しいです」

 浅倉くんは満足そうにした後で、思いついたように言った。

「あ、もしかして。新稲さんの彼氏さんも甘党なんですか?」

「え……そ、そうですね」

 唐突な問いかけに、迂闊にも答えを濁してしまった。

 ショウは甘いものが好きだ。だって私が好きだから、何でも一緒に食べられるようにと全く同じ好みにしていた。

 だけど設定として甘党だとは思っていなかったから――ショウを想像する時、『優しい人』『夢を追う人』という単語はすぐ浮かんでくるけど、『甘党』という言葉は思い浮かべたことがなかった。だからとっさに即答できなかった。

「どうかしました?」

 私の微妙な反応を見て、浅倉くんが目を瞬かせる。

 これ以上追及されてはぼろが出そうだ。急いで表情を取り繕い、答えた。

「浅倉くん、私の彼氏のことをよく聞くなあって思ったんです」

「あっ、すみません。失礼でしたね」

「そんなことはないですけど、純粋に不思議で。面白い話でもないですし」

 職場の皆の興味が他に移ってしまった今、ショウについて誰かから尋ねられる機会は減っていた。

 私も昔は何を聞かれてもいいように備えて、身構えていたものだ。逆に誰からも聞かれなければわざわざ墓穴を掘りに行くこともないだろうと、近頃の私はショウのことを自発的に話さないようにしてきた。

 お蔭で油断していたのかもしれない。

 まさか、浅倉くんまでもがショウについて知りたがるとは。

「そりゃ興味ありますよ。他でもない新稲さんの彼氏なんですから」

 浅倉くんはそんなふうに答えた。

「他でもないって、どういう意味?」

「新稲さんは仕事でもそれ以外でもとても頼れる先輩です。真面目でいつも気を抜かなくて、でも優しくて……そんな新稲さんをどんな男性が射止めたのか、すごく興味ありますよ」

 頼れる先輩と言ってもらえて、実はすごく嬉しかった。

 だけど同時に、ずっと引っ張ってきた釈然としない気分がいよいよむくむくと膨らみ出した。

 思う。

 浅倉くんは今夜、どうして私を誘ったのだろう。

「ちょっと、羨ましいのもあるのかな……」

 浅倉くんはその時、どこか意味ありげな笑い方をした。

「俺も新稲さんとは一度、仕事を離れて話したいって思ってたんですよ」


 それは、どうして?

 私はそう問いかけるのをためらった。

 急速に膨らんできたある考えが、背筋をぞくりと震わせたからだ。


 浅倉くんがショウのことをこんなにも尋ねてくるのはどうしてか。私と彼の関係を探るみたいにあれこれ気にしているのは、そして私と、仕事以外の話もしてみたいと思っていた理由は――。

 彼のことを怪しんでるからかもしれない。


「そしたら彼氏持ちだっていうから、何か、気になるじゃないですか」

 内心身構える私に、浅倉くんは目を細めて語る。

 やっぱりそうだ。ショウのことを妙に気にしている。一体なぜだろう。いつ、どこで、浅倉くんはショウの実在を怪しいと思ったんだろう。

「気になりますか? あの、何か変でしょうか」

 私は思わず早口になって聞き返した。

 浅倉くんにはそれが予想外の問いだったようで、きょとんとしていた。

「変? いや、何も変じゃないと思いますよ」

「ならいいんですけど……」

 甘党だと即答できなかったのがまずかったのかもしれない。この辺りは帰宅後、反省会だ。

 今更、職場の人に『脳内彼氏でした』なんてカミングアウトできるはずがない。絶対に引かれるし社会的に死ぬ。かと言って今更ショウとは別れられない。そんなの寂し過ぎて心が死ぬ。

 だから何が何でもこの秘密、守り通さなくては。

「じゃあ浅倉くんは、一体何が気になるんですか?」

 その点だけは明らかにしておきたくて、私は畳みかけた。

 途端に浅倉くんははっとしたようだ。すぐに苦笑を浮かべ、自らの額に手を当てた。

「すみません、俺ちょっと酔ってるみたいで。さっきのは聞き流してください」

「さっきのって、私の彼氏についての話ですよね?」

「ええ、そうです。ここだけの話にしといてください」

「……わかりました」

 私は腑に落ちないまま頷く。

 結局、浅倉くんが何を気にしていたかはわからないままだ。非常にもやっとした。

「ありがとうございます。優しいですよね、新稲さん」

 浅倉くんはほっとしていたけど、言葉通りに聞き流す気にはなれない。


 人懐っこくて屈託なく、皆からも好かれている新人の浅倉くん。

 私も彼に対して悪い印象はなかったけど、今夜の一件で思った。

 彼はもしかしたら勘が鋭い子なのかもしれない。私の言動から何か不自然さを察知し、どういうことかと気にし始めているのかもしれない。それなら今後は彼の動きに気をつけよう。迂闊な発言も慎もう。

 ショウを守れるのは私しかいない。

 そしてショウは私を守れるはずがないから、私が頑張らなくてはいけない。

〈ごめんね、小牧〉

 どこからかショウの声がする。

 状況的にこんなところにいるはずがないので、これは妄想の中の妄想と言うことにしておく。彼ならそう言いそうだな、というイメージだ。全部そうだけど。

〈僕が君を守れたらいいんだけど、できないんだ〉

 気に病むそぶりのショウに対し、私も心の声で答える。

 ――気にしないで。たとえあなたが何もできなくたって、私はちっとも構わない。


 クレープを食べ終えて店を出ると、外は小雨が降り始めていた。

「雨の予報なんてなかったんですけどね」

 浅倉くんがぼやくのを聞いて、そういえば天気予報では言ってなかったなと私も思う。大した雨ではないけれど、あいにく傘の手持ちがない。

 それで私達は当初の予定通り、タクシーに相乗りすることにした。

 私と浅倉くんの帰る方向はほぼ同じで、距離的には私の部屋の方が若干近い。だからかタクシーを拾えた後、乗り込むなり浅倉くんは言った。

「先に新稲さんの部屋へ行ってもらいましょう」

「そんな。浅倉くんが先でいいですよ、雨降ってますし」

 後輩より先にタクシーを降りるのはさすがに抵抗がある。私はその提案をやんわり断ろうとした。

 それに、ショウと暮らす部屋を知られたくなかったのもある。別に外から何が見えるというわけでもないけど――むしろ何も見えるはずないんだけど、浅倉くんの勘の鋭さを知った後では警戒心が募った。

「新稲さん、俺だって男なんですよ」

 浅倉くんはそういう言い方で反論してきた。

「女の人を誘っておいて、一足先に帰るなんてできません。ちゃんとお送りしますから」

 予想もしていなかった言葉に私は戸惑う。

 そういうもの、なのだろうか。男の人はたとえ相手が先輩であっても、女性を優先して送らなければならないのだろうか。

 何分そういった経験がないのでぴんと来ないけど、それがマナーだというなら従う方がよさそうだ。こういった経験がないとばれるのもまずい。

「それではお言葉に甘えます」

 私が折れると、浅倉くんは微笑んで運転手さんに車を出してもらった。


 タクシーの窓は雨に濡れ、フロントガラスのワイパーがゆっくり動いて水を払う。

 私と浅倉くんは後部座席に並んで座り、車内ではあまり話をしなかった。私は用心していたからだけど、浅倉くんの方はどうだろう。ちらりと横目で窺えば、どこか物思いに耽るような面持ちをしていて、それは普段と違って大人びて見えた。

 そしてタクシーが私のアパートの前まで辿り着いた時だ。二階の西寄りにある私の部屋のバルコニーに、何かが揺れているのを窓越しに見つけた。

 洗濯物のタオルだ。

「しまった……!」

 今朝の天気予報では雨が降るなんて一言も言っていなかった。だから私はタオル類だけ外に干して、帰ってきたら取り込むつもりで出勤したのだ。軒はあるけど雨が吹き込んでいる可能性もあるし、あれではもう洗い直ししかない。

「じゃ、じゃあ浅倉くん。私ここで降りますから……」

 タクシーが停まるが否や、私は慌てながら財布を取り出した。

 だけど浅倉くんはかぶりを振り、

「今夜は俺に払わせてください」

「そんなわけにはいきません。入社一年目の子にそこまでさせるなんて」

「いいんです。帰るついでの寄り道みたいなものですから」

 まるで言い聞かせるように優しく言うと、私に降りるよう仕種で示した。

 タクシーの運転手さんが振り返り、戸惑い気味にこちらを見ている。このまま押し問答しても仕方ないしと、私はやむを得ず車を降りた。

 すると浅倉くんは開いたドアのすぐ傍まで寄ってきて、私を笑顔で見上げてくる。

「ありがとうございました、新稲さん。今夜、すごく楽しかったです」

「お礼を言うのはこちらです。私が先輩なのに、いろいろ奢ってもらって」

「言ったでしょう、俺だって男なんです」

 念を押すように言った後、後部座席のドアが閉まった。

 私はタクシーが行くまで見送るつもりだったけど、浅倉くんが『行ってください』と手を振ってきたので、お言葉に甘えてアパートの中へ駆け込んだ。

 玄関の鍵を開け、勝手に点いた玄関の照明を頼りにバルコニーへ向かう。そしてしっとり濡れた洗濯物を回収しながら、走り去るタクシーの赤いテールライトを見送った。


 雨で湿ったタオルをまとめて洗濯機に放り込んだ後、私はぼやいた。

「こういう時、脳内彼氏じゃなかったらって思うな……」

 何もできなくても構わないと言った、舌の根も乾かぬうちからこうだ。全く身勝手にも程がある。ショウが聞いたら傷つくだろうに。

「ごめん、ショウ。言い過ぎた」

 私はすぐに彼に詫びた。

〈僕の方こそごめんね、小牧。洗濯物を取り込めなくて〉

 想像の中のショウが、私の罪悪感を吹き飛ばすように笑う。

 ショウがなぜ雨の日にすら洗濯物を取り込んでくれないのか、もっともらしい表向きの理由も考えてはある。彼が追い駆けている夢は手が命だから、水仕事をして手が荒れてしまっては一大事なのだ。だから、だけど――理由にしては少々弱いのもわかっているので、考えているうちにふと我に返ってしまう。

 さっきまで人と会っていたから、部屋の中が妙に静かだ。

 浅倉くん。彼は、随分とショウのことを気にしていた。

「……ねえ、ショウ。あなたのこと、怪しんでる人がいるかもしれない」

〈怪しむ? 僕の何が怪しいっていうのかな〉

 脳内彼氏だからこそ、ショウはメタ的な発言はしない。自分が架空の存在だと気づいている脳内彼氏なんて、興醒めしてしまうではないか。

 だから浅倉くんのことはショウには話せない。私がどうにかしなくてはならない。 

〈それより小牧、お酒飲んできたんだろ? ちゃんとお水飲んでから寝るんだよ〉

「はーい」

〈それと化粧も落として寝るように。明日休みだからって手を抜いちゃ駄目だよ〉

 ショウは私が寝る前にすべきことを優しく教えてくれる。

 だから私も疲れた身体を奮い立たせて、すべきことの全部を片づけてしまおうと動き始める。キッチンで水を飲み、メイクを落とし、部屋着に着替えたところでふと、浅倉くんの言葉を思い出す。

『彼氏持ちだっていうから、何か、気になるじゃないですか』

 浅倉くんは何が気になるっていうんだろう。むしろこっちが気になって仕方がなかった。


 週末は浅倉くんからお礼のメールがあったくらいで、至って平穏に過ぎていった。

 そして迎えた週明け、月曜日。出勤した私を、浅倉くんが愛想よく待ち構えていた。

「新稲さん、金曜はありがとうございました」

 改めてお礼を言われ、私もメールは送っていたけど、ちゃんと感謝を伝えておく。

「こちらこそありがとうございました。でもお金使わせちゃってごめんなさい」

「付き合ってもらえて嬉しかったのは俺の方ですから」

 浅倉くんは笑顔で答えていたけど、やはり私は後輩にお金を使わせたことには後ろめたさがあった。

 男だから、と彼は言っていた。そういうものなのだろうか、まだぴんと来ない。

「気にするくらいなら、今度は新稲さんがご馳走してくださいよ」

 私の罪悪感を笑い飛ばすが如く、浅倉くんはそう言った。

「美味しいうどんのお店、知ってたら是非連れてって欲しいです」

「あ……そういえば言ってましたね、それ」

 あの時回答を避けた案件が再浮上してきて、私はちょっと面食らう。

 散々奢ってもらったのだし、うどんを奢るくらいはして当然だろう。普通なら迷わずその通りにする。

 だけど、浅倉くんが相手では。

「よろしくお願いしますね、新稲さん」

 浅倉くんは私の躊躇を察したみたいに釘を刺してきた。

 そして私の前から立ち去ろうとして、ふと思い出したように口を開く。

「そうだ。金曜日、お洗濯物大丈夫でした?」

「えっ。み、見てたの?」

「タクシーから見えたんです。新稲さんが洗濯物取り込んでるとこ」

 くすくすと笑う浅倉くんが、その後で私に囁く。

「あの日、彼氏さんお留守だったんですね。怒られるかなって思ってたんで、ほっとしました」

 背筋が震えたのは吐息が耳をかすめたから、だけではないはずだった。


 やばいかもしれない。

 浅倉くんはやはり、ショウのことを気にしすぎている。

 それはもちろん、彼の実在を疑ってのことなのだろう――。


 思えば、浅倉くんの私に対する言動はただの人懐っこさを超えていた。

『そのくらいなら、彼氏さんも怒ったりしませんよね?』

 私を誘う時、揺さぶりをかけるような、試すような物言いをしてきた。

『彼氏さんとは、いつもどういうお店に?』

『あ、もしかして。新稲さんの彼氏さんも甘党なんですか?』

 まるで端から、何か目的があって近づいてきているかのようだった。執着的、と言うと大げさかもしれないけど、そう形容したくなるほどぐいぐい距離を縮めてくる。それも全てはショウに対する疑念からではないかと私は思っている。

 問題なのは浅倉くんがどこまで掴んでいるか、そして何の為に知ろうとしているかだ。

 仮に浅倉くんがショウについて、その疑念を確信にまで到達させてしまった場合、彼が次にとる行動は一体何だろう。彼は噂を流したり陰で人を嘲るようなタイプには見えないけど、それもあくまで普通の人が相手ならばの話だ。


 二十八歳の自立した社会人女性が、リアルの男性とは関わらずに脳内彼氏を持ち、彼が実在するかのように振る舞う行為は果たして普通だろうか。もちろん誰にも迷惑はかけていない。誰を傷つけてもいない。子供の頃のお人形遊び、あるいは空想の友達の延長線上にあるものだ。

 だけど、世間から見ればただの奇行かもしれない。

 いや、奇行でしかない。言われなくても自分が一番よくわかっている。

 浅倉くんもそう思い、ショウのことを職場中に言いふらしたりしたら、待っているのは社会的な死あるのみだ。

 たとえ言いふらされなくたって、

『この人、真面目に仕事の話してるけど脳内彼氏持ちなんだよな……』

 などと思われるのもそれはそれできつい。私の心が死んでしまう。できれば気づかないでいて欲しかったというのが正直なところだけど、その点については私の方に隙があったとも言える。

 だからこそ、ここからは私の取る行動も慎重でなくてはならない。


 私が警戒を始めた頃、浅倉くんはどういうわけかショウに触れてこなくなった。

「新稲さん、書類の確認をお願いします」

 勤務中の態度は今まで通りだ。熱心で物覚えがよくて愛想のいい新人くんだった。

「わかりました」

 私も今まで通りを装いつつ、彼に作ってもらっていた書類の文面をチェックする。私が教えたことはほぼ完璧に覚えているようで、このまま行くともうじき教育係も卒業できそうだった。

「ちゃんとできてます。もうすっかり一人前ですね、浅倉くん」

 素直に誉めると、彼は少年みたいにあどけなく笑う。

「本当ですか? 新稲さんに誉めてもらえると嬉しいです!」

 とても嬉しそうに言ってくれるから、私も悪い気はしない。つられて笑い返した。

「この分だと一人で仕事に入っても大丈夫ですね。調整しましょうか」

「はい、お願いします」

 浅倉くんはすぐに頷いた。

 普通の新人さんだと独り立ちを促された際『まだ早いかも』と及び腰になることも多いと聞く。だけど浅倉くんはそんなこともなく、むしろ待っていたと言わんばかりに目を輝かせている。

「俺、早く一人前になりたかったんです」

「そうだったんですか、意欲があっていいことですね」

「新稲さんと一緒に仕事ができなくなるのは、ちょっと寂しいですけどね」

 彼がそう続けたので、私は嬉しい反面いささか複雑な気分だった。

 ショウのことさえ絡まなければ浅倉くんはいい後輩だ。むしろいい後輩だからこそ、彼の目的が見えてこないのが辛い。これがショウをネタに私を強請る気だったというのならまだわかるけど、そういうことをするような人には全く見えないし、その気配もないから困惑せざるを得ない。

「……どうかしたんですか、新稲さん」

 疑念に囚われ押し黙る私に、浅倉くんはきょとんとする。

 私は慌てて書類を持つ手を振った。

「いえ、何でもありません。感慨深いなと思っただけです」

「そうですか」

 浅倉くんはその時、ほんの少し残念そうに苦笑した。

 それから、

「新稲さんにも寂しいって思ってもらえたら、もっと嬉しいんですけど」

 声を落として、内緒話の口調でそう言った。

 職場の中だからか耳打ちこそしてこなかったけど、その言い方には確かに聞き覚えがあって、どきっとした。

 思わず固まる私を見て、浅倉くんは意味ありげに一度笑う。

「以上です。では、失礼します」

 そして一礼すると、あとは何も言わずに自分の席へ戻っていく。

 私の動悸が激しくなったのは、決して気を許すなという直感からの警報だろう。


 浅倉くん確実に私を揺さぶりに来ている。見極めなければならない。

 彼の目的は一体どこにあるのか。


 その後も私は数日の間、浅倉くんの様子を窺っていた。

 彼は怖いくらい何も言ってこなかったけど、時々意味ありげな笑みを向けてくることがあって――職場でふと目が合う時、周りに人がいない時、まるで示し合せようとするみたいに笑いかけてくる。そういう時、決まって動悸が激しくなった。

 警戒心は募る一方で、そろそろしんどくなってきた。


 そんなある日のこと――。

「……しまった、やらかした」

 仕事を終えて退社しようとした私は、会社の通用口で雨に気づいた。そしていつもならバッグに入れている折り畳み傘を、今日に限って忘れてきたことにも気づく。

 外は容赦のない土砂降りだった。傘くらいならコンビニでも買えるけど、そこへ行き着くまでにずぶ濡れになりそうな大雨だ。

 こういう時、ショウが迎えに来てくれたらいいんだけど。

〈ごめん、小牧。僕は傘が持てないから〉

 傘が持てないなんて、箸より重いものが持てない箱入りのお嬢様みたいだ。そんな彼氏に何を期待しても仕方ない。溜息を一つついて気合いを入れて、私は雨の中に駆け出そうとした。

「新稲さん、傘忘れたんですか?」

 そこへ、浅倉くんの声がした。

 振り返ると、ちょうど通用口へ出てきた彼が黒い傘を開くところだった。立ち往生する私に優しく微笑みかけてくる。

「駅まででしたら入ってきません?」

 彼の申し出に私はうろたえた。目下警戒しまくっている対象である浅倉くんと、退勤後まで一緒に過ごすのは避けたかった。気疲れしてしまう。

「悪いですから。どうぞ先に帰ってください」

「でも迎えが来るってわけじゃないんでしょう?」

 私が断ろうとするのを、浅倉くんはやんわりと遮る。

「こんな雨の中、走って帰ったら風邪引きますよ」

 そして私に傘を差しかけてくるから、私は迷いながら頷いた。

「じゃあ……すみませんけど、駅まで入れてください」

「どうぞ」

 彼の傘の下に入る。それから駅を目指して歩き始める。


 並んで歩くと、浅倉くんは随分と背が高かった。

 私と二十センチは違うだろう。それでいて彼の歩くスピードは速すぎず、慌てなくてもついていけるほどで、私に合わせて歩いてくれているのがわかる。

 それでも居心地の悪さを感じてしまうのは、男の人と相合傘という初めてのシチュエーションのせいだろうか。

 あるいは、隣にいるのが浅倉くんだからだろうか。


 雨音が響く駅までの道で、私達はしばらく会話もなかった。

 だけどそのうち気まずくなって、私の方から口を開いた。

「浅倉くんって、身長何センチなんですか?」

 傘を持つ浅倉くんがこちらを向く。

「百七十五です」

「へえ……」

 ショウと同じだ、と言いかけてやめた。

 私はショウの身長を設定しておきながら、実際の百七十五センチがどのくらいの高さかまるで知らなかった。想像の中で彼の身長データが必要になる機会なんてなかったからだ。こうして隣に並んでみると思っていた以上に高い。

 背丈だけじゃない。間近で見る生身の男の人は何もかも想像と違っていた。

 傘を持つ手は大きくて硬そうで、柄を握る甲には青い血管が浮いていた。香水でもつけているのだろうか、ほんのりと嗅ぎ慣れないムスクの匂いがする。そして肩幅は広く、ちょうど私と反対側の右肩が傘からはみ出して、濡れているのが見えた。

「あっ、浅倉くん。肩が……」

 私は慌ててハンカチを取り出したけど、浅倉くんは傘の外にある右肩を一瞥しただけだった。

「平気ですよ、このくらい」

「駄目です。浅倉くんの傘なんですから、もっと濡れないように差してください」

 そう告げると、浅倉くんは道の途中で不意に立ち止まった。

 だから肩を拭かせてくれるのだろうと、私はハンカチを持った手を伸ばそうとして――その手を掴まれた。

 浅倉くんの、傘を持っていない右手に。

「いいんですか、そんなことをして」

 彼はあの囁くような、落とした声でそう言った。

 黒い傘の中にいるからだろうか、その表情はどこか陰って見えた。

「新稲さんはいつもそうです。彼氏持ちだって人が、他の男にそんな隙見せちゃ危ないですよ」

 私の手を掴む浅倉くんの手は、雨のせいか酷く冷たかった。

「俺、新稲さんのこと奪っちゃいますよ」

 傘が作る暗い影の中、浅倉くんの目が私を捉えている。怖くなるくらい真剣な目だった。

「う、奪うって――」

 急な展開に混乱した私は、掴まれた手を解こうとした。

 だけど浅倉くんの冷たく、硬い手は力強く、私を決して離そうとしない。

「離してください、浅倉くんっ」

「嫌です」

「どうしてこんなことを!」

「あなたが自分から捕まりに来たんでしょう」

 浅倉くんは掴んだ手を強く引き寄せ、それに引きずられた私を胸に抱いた。

 耳元で彼の囁く声がする。

「新稲さんが欲しいんです、奪ってもいいですよね?」

 背筋が震えた。

 そういうことか、とようやく気づけた。

 浅倉くんの目的を、彼が私から何を奪おうとしているのかを――。

「あなたは、最初からそのつもりで私を誘ったんですか」

 でもまだ信じがたく、私は面を上げて彼に尋ねた。

 身長百七十五センチの彼は、私を見下ろし不敵に笑う。

「最初は違ったんですよ。ずっと狙ってはいましたけど」

「狙ってた……? そこまでして、奪いたかったんですか?」

「ええ、そうです。新稲さん、あなたの全てが欲しかった」

「そんな……そんなものを奪って、どうする気なんですか」

「もちろん、俺のものにするんです。いけませんか?」

「困ります!」

 私は精一杯の力を込めて、浅倉くんの手を振りほどいた。そして傘の外に逃げようとした。

「手に入れたいなら自分で努力してください! 私から奪ったって、あなたのものにはなりません!」

 だけど浅倉くんは私の手首を掴み直し、にわかに眉を顰めた。

「新稲さんから奪うなんて言ってませんよ。奪いたいのは新稲さんです」

「つまり私の社会的立場やキャリア、人生そのものをってことでしょう!」

「人生はまあそうですけど、社会的立場とかキャリアって……え?」

「困るんです。今日までこつこつ頑張ってきたのに今更辞めたくないんです!」

「辞める? どういうことですか新稲さん」

「でも浅倉くんの気持ちもわかります。実際、私みたいな先輩引きますよね」

「いや、引く要素別にないですし、むしろ――」

「普通引くでしょう! 自分で言うのもなんですけど奇行ですもん!」

 嘆く私に、浅倉くんが目を瞬かせる。

「新稲さん。話、全然読めないんですが」

 この期に及んで何を言うのだろう。私の秘密を暴いておいて、何がわからないって言うんだろう。まさかそれすら私の口から言わせる気なのだろうか。

 私は絶望的な気分になりながら言った。

「私が脳内彼氏を、さも実在するように語ってることに気づいたんでしょう!?」

 浅倉くんは目を見開いた。

「の、脳内彼氏……って、何ですか?」

 自爆したと気づいたのは、数秒後のことだった。


 雨がざあざあと降り続いている。

 にもかかわらず私は道端にしゃがみ込み、俯いたまま顔を覆っていた。

「こんなとこにずっといたら、風邪引いちゃいますよ」

 浅倉くんは私に傘を差しかけてくれている。雨の中ずっと付き合わせて悪いと思うけど、彼は一人で帰ろうとしない。

「私はいいんです。浅倉くんこそもう帰ってください」

「そうはいきませんよ、一緒に帰りましょう」

 彼は優しく誘ってくれたけど、とてもそんな気分にはなれない。

 結局、浅倉くんに対する私の疑念は全て誤解だった。私は自爆してしまった。ショウのこと、彼が実在しないことを自ら暴露してしまった。もう合わせる顔がない。いっそ消えたい。灰になりたい。

「でも不思議ですね。新稲さんのような人がそんな嘘をつくなんて」

 気のせいか、浅倉くんの声は明るかった。

「どうして『彼氏がいる』なんて嘘、ついてたんですか?」

「……初めは、彼氏がいないことを皆に弄られるのが鬱陶しかったから」

 私は顔を覆ったまま答える。

 今の浅倉くんのように、私にも新人の頃があった。そしてその頃、私は彼氏がいないこと、そもそもできたことすらないことを皆から弄られていた。それが煩わしくてたまらなかったというのが最初の動機だった。

「嘘をつくうち、彼氏がいたらどんなだろうって想像するようになって……」

 ショウの設定を固める必要もあった。よりリアルで、誰からも存在を疑われないような脳内彼氏を作ろうと思った。

 実際は、ショウの身長すらイメージできていなかったわけだけど。

「本当にいるって思い込んで生活したら、それが案外楽しくて」

 ショウのいる暮らしは楽しかった。部屋でも、外へ出かけてもいつも一人だったけど、一人でいる寂しさが紛れた。他人から見ればそれだって嘘、ごまかしでしかないのかもしれないけど、私にとっては確かに支えだったのだと思う。

 でもこうして誰かに話すと、これまで目を逸らし続けてきた空しさが急に湧き上がってきた。

「今までの『彼氏』の話、全部想像なんです。ごめんなさい」

 私が詫びると、浅倉くんが微かに笑うのが聞こえた。

「どういう意味で謝ってるんですか?」

「嘘をついてたことと、引いただろうから、そのことも悪いなって……」

「ライバルが想像の産物だって知らされて、確かにショックですけどね」

 浅倉くんの言葉の後、彼が私の前で屈み込んだのが気配でわかった。

 恐る恐る顔を上げる。

 黒い傘の影の下、まず見えたのは浅倉くんの意味ありげな微笑だった。

「ぶっちゃけ、変だなと思うところもいくつかあったんです。飲み会で帰り遅くなるのに一切連絡してないとことか、彼氏と同棲してる割には奥手っぽいなとか。そもそも新稲さん、夢を追うフリーターを養うタイプには見えませんし」

 もしかすると設定段階から無理があったということだろうか。

 それならば自爆しなくても、ショウの不在が明るみになるのは時間の問題だったのかもしれない。

「でもまあ、略奪せずに済むんであればそっちの方が都合いいんで」

 そういえば、浅倉くんは何かを奪うつもりだったと言っていた。

 私の社会的立場やキャリアではなく、人生を――私を奪うと言っていた。

 追い詰められた恐怖で彼の言葉を飲み込みきれていなかったけど、そういえば彼は、どういうつもりだったのだろう。

「略奪って、何のことですか?」

 私が尋ねると、浅倉くんは唇を歪めて苦笑に変えた。

「そこから説明しないと駄目ですか! 俺、散々言いましたよね?」

「えっと、さっきは混乱してたので、あまり頭に入ってこなくて……」

「新稲さんって本当に彼氏いなかったんですね。実感しました」

 辛辣な指摘だったけど、ぐうの音も出なかった。

 でもそんな私に浅倉くんは、そっと手を差し伸べてくれた。

「いいですよ。何度でも説明してあげますから、俺の手を取ってください」


 大きくて、硬くて、手の甲に血管が浮いている男の人の手。

 想像することもできなかったその手を、私は恐る恐る握った。さっきよりも温かかった。縋ることのできるその手を掴めて、嬉しいと思った。

 私にはずっと、こうして掴める手すらなかったのだから。


 繋いだ手を引いて私を立たせた後、浅倉くんは私の耳元で囁く。

「新稲さんの秘密、誰にも言わずにおいてあげます」

 熱い吐息が耳をかすめて、背筋が震えた。

 怖いような、それでいてどこか不快ではない感覚だった。ショウにはこんなこと、されたことがない。

 思えば浅倉くんは、私の妄想を聞いた後でさえ、馬鹿にしたり、笑ったり、あるいは引いたりもしなかった。こんな雨の中、落ち込む私が顔を上げるまで辛抱強く待っていてくれた。

 そして今、私に甘く囁いてくる。

「その代わり、『彼氏』と別れてください」

「え? 別れるって――」

「新しい男ができたからって言って、別れてきてください」

 繋いだ手をぎゅっと握られ、にわかに動悸が激しくなる。

「新稲さん、俺のものになってください」

 その言葉を、私は半ば呆然と聞いていた。

 彼の発言のあれこれにようやく合点がいった。

「あっ、『奪う』ってそういう意味だったんだ……」

「今気づいたんですか! 結構ポンコツですよね新稲さん!」

 それはもう、二十八年彼氏がいなかったくらいですから。


 にしても、脳内彼氏と別れ話なんてできるだろうか。

 ショウはなんて言うだろう。浅倉くんの傘の下、二人で一緒に帰りながら、私はしたことのない別れ話の想像に苦労していた。

 いつもなら私の欲しい言葉をくれるショウも、今日ばかりはそうもいかないだろう。

〈小牧、僕と別れるの?〉

 だけど別れたがらないショウも追いすがるショウも、どちらもあまり想像できない。かと言ってすんなり別れられるようではちょっと切ない。

〈小牧が決めなよ。君の人生なんだから〉

 ショウにそんな台詞を言わせて、私は隣の浅倉くんを見上げる。

 浅倉くんも歩きながら、時々私の方を見る。何か楽しみでも見つけているような笑みが、その顔に浮かんでいる。繋いでいた手は離してしまったけど、この先どうなるか、浅倉くんは一つの確信しか持っていないようだ。

 そして私は、私の人生を決めようとしている。


 生まれて初めてされた告白も、何の因果か雨の日だった。

 人に話せば笑われるかもしれないけど、私はおかしな話じゃないと思うし、何よりロマンチックだ。

 だから、思いきって一歩踏み出してみよう。

「今までありがとう、ショウ」

 脳内彼氏への別れの言葉は、もう決めた。

〈どういたしまして〉

 ショウの返事も決めている。それ以外に欲しい言葉は、もうなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

脳内彼氏と小悪魔男子 森崎緩 @morisakiyuruka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説