エンゼルを探せ

森崎緩

エンゼルを探せ

松原まつばらくん、帰りにコンビニ付き合ってくれる?」

 海野うんの先輩の言葉に、俺は図書室の窓を閉めながら応じた。

「いいですよ」

「やった。いつもありがとね」

 先輩は微笑むと、制服のスカートを翻して受付カウンターの中へ飛び込んだ。貸出管理用のパソコンを閉じようと操作を始めている。

 俺はその姿をちらりと盗み見ながら、図書室の全ての窓を閉めた。

 古い校舎の三階にある図書室は風通しこそいいものの、窓を閉めるとあっという間にサウナへと変貌を遂げる。教室にさえない冷房が図書室にあるはずもなく、そのせいか夏休み中の利用者はほとんどいない。


 我が校の図書室は夏休みの間、土日を除いてほぼ毎日貸出業務を行っている。

 図書委員は学校全体で総勢十二名、貸出日には常に二名の委員を置くことになっていて、前期の図書委員になってしまうと夏休み中は週に一度くらいのペースで問答無用の登校日がやってくることになるわけだ。もちろん図書委員にだって忙しい奴もいる。部活だ夏期講習だ田舎のばあちゃん家だと当番日に出られない連中がいて、その場合は手が空いてる暇な奴のところにお鉢が回ってくる。

 そして夏休みに予定のない暇な図書委員というのが俺であり、海野先輩である。

 俺と海野先輩は夏休みに入ってから、どんどん回ってくるお鉢のせいで頻繁に顔を合わせるようになった。当番の帰り、一緒にコンビニに立ち寄るくらいには仲良くもなった。

 もっとも、一緒にコンビニに寄るようになった理由は他にもある。


「パソコン落としたよ、鍵返して帰ろ」

 カウンターにいる海野先輩が声をかけてきたので、俺は逃げるように図書室を出た。

 先輩も後から追いかけてきて、『閉室中』と札がぶら下がった図書室の戸に鍵をかける。

 廊下もまた熱気がこもってじっとり暑く、司書室に立ち寄って鍵を返した後、生徒玄関まで歩いていくだけで汗が噴き出てきた。

「今日も暑いですね」

 玄関で上履きを脱ぎながら俺がぼやくと、靴箱を数列隔てた向こうから海野先輩が返事をする。

「暑いね。こういう日は当たりそうな気がしない?」

 海野先輩の声は歌うように弾んでいる。先輩はいつも明るい人だけど、貸出当番を終えて帰る時が一番はつらつとしている。

 明るさともはつらつさとも無縁の俺は、それでも海野先輩といるとつられて笑ってしまうことが多い。

 今も、少し笑いながら聞き返した。

「当たりそうって、その根拠は何なんです?」

「だってこんな暑い日、誰もチョコなんて買わないでしょ。残り物には福があるんだよ」

 その言葉の直後、ローファーの硬い足音がたたっと駆け出し、近づいてきた。

 靴箱の陰から海野先輩がこちらを覗く。外側に大きく跳ねた髪がふわっと揺れた後、先輩は屈託のない笑顔を見せた。

「さ、行こっ。松原くん!」

 俺達がコンビニへ行くのには理由がある。

 海野先輩は、もう何年も前からエンゼルを探しているそうだ。


 寄り道先のコンビニは学校から歩いて五分くらいのところにある。

 海野先輩の買い物はいつも同じだ。チョコボールのキャラメル味を一箱と、ペットボトルの麦茶を一本。

「さあ開けちゃうよー。松原くんも見ててね」

 買い物を終えると、先輩はコンビニの前で早速チョコボールを開封する。

「銀のエンゼル来い! 金でもいい! お願い!」

 願いを込めながら箱を見つめる先輩の瞳は子供みたいにきらきら輝いている。だけど透明なセロファンの上半分を剥がし、くちばしを模した箱の蓋を開けたところでその表情がしゅんと萎れた。

「あれ……また外れ」

「残念でしたね」

 俺も自分で買った麦茶を飲みながら、先輩と一緒に箱のくちばしを確かめる。そこにエンゼルの姿はない。

 チョコボールの箱には時々、エンゼルが描かれている。

 この話を知らない人間なんてそうそういないだろう。金のエンゼルは一枚で、銀のエンゼルは五枚集めるとそれぞれおもちゃの缶詰が貰える。小さな頃にエンゼルを求めてチョコボールを買った奴は結構いるはずだし、かくいう俺もその一人だった。

 だけど海野先輩は高校生になった今でもエンゼルを探している。

「おかしいな、今日はいける気がしてたのに」

 先輩は唇を尖らせてぼやき、横目で俺を見る。

「松原くんが一緒なのにご利益もなかったし」

「すみません、効果がなくて」

 俺は頭を下げたけど、そもそもご利益なんてあるはずないと思っている。


 海野先輩は前に一度、俺が居合わせた時に銀のエンゼルを引き当てたことがある。

 あれは夏休みに入る少し前のことで、放課後、図書室での当番の帰りにたまたまコンビニに寄ったら、チョコボールを今まさに開封するタイミングの海野先輩と遭遇した。その時引き当てたのが海野先輩にとって四枚目の銀のエンゼルだったというからもう大騒ぎだった。以来、先輩は図書室の貸出当番の度に俺をコンビニへ誘い、こうしてチョコボールの開封に付き合わせる。


 俺からすればそもそも前回がまぐれだったんじゃないかと思う。

 だけど先輩は断固として言い張った。

「だって松原くんと出会うまで私、もう三年近くエンゼルを見つけられてなかったんだよ! こうして見つけられたのだって絶対松原くんのお蔭だと思う!」

 先輩曰く、この手の幸運を掴み取る為には信じる心が大切らしい。

 宝くじを当てた人達の体験談にもあるように、ちょっとしたひらめきや胸騒ぎを予兆として信じた人だけが幸運とめぐりあうことができるのだそうだ。そんな海野先輩は初めて銀のエンゼルを見つけてから、かれこれ十年もエンゼル目当てで買い続けているという。

 十年かけてようやく四枚目。

 先輩の勘が当てになるのかならないのか、いまいちよくわからない。


 大体、子供の頃ならともかく高校生にもなってエンゼルを探す意味だってわからない。

 おもちゃの缶詰なんて貰ってどうするんだろう。そう言うと海野先輩は不思議そうにする。

「何で高校生がおもちゃの缶詰貰っちゃ駄目なの?」

「駄目じゃないですけど、おもちゃなんか要らないでしょう。高校生にもなって」

「わかんないよ。高校生が遊べるおもちゃが入ってるかもしれないじゃない」

「ありますかね、そんなの。あんまり期待しすぎない方がいいと思いますよ」

 俺が疑問を口にする度、海野先輩はその理屈が理解できないという顔をする。

「でも、松原くんだって見たことないでしょ? おもちゃの缶詰の中身」

「そりゃあ、ないですよ」

 あるはずがない。俺も過去に一度だけ銀のエンゼルを引き当てたことがあったけど、五枚集める根気が続かなかった。

「だったらやっぱり、わかんないじゃない。すっごくいいものがいっぱい詰まってるかもしれないし、その中には私達が遊んで楽しいおもちゃだってあるかもしれないよ」

 そう主張する時の先輩の顔は、こっちが言葉もなくなるくらい真剣だ。

「それに、気にならない? エンゼルは確実に存在してるのに、缶詰の中身を知ってるって人はいないんだよ。存在することはわかってるのに、誰もどんなものか知らない、見たこともないなんてロマンだよ」

 実際、俺の周りであの缶詰を当てたという人間の話は聞いたことがない。都市伝説とまではいかないけど、レアな代物には違いない。

「今ならネットで調べたら、一人くらい感想上げてる人見つかりそうですけどね」

 俺が本音を零せば、先輩は重大なマナー違反でも咎めるみたいに睨んできた。

「そういうのはいざ当たった時の喜びが減っちゃうから駄目なの!」

「いざ当たった時にがっかりしない為にもですよ、先輩」

「夢がないね松原くんは! 可愛げもないし!」

 海野先輩が唸っているが、事実その通りだと自分でも思う。先輩とは違う。

「夢を持ちすぎて裏切られるのも悲しくないですか」

「後ろ向きなのも駄目! もっと希望持っていこうよ、明るく!」

 先輩こそおもちゃの缶詰に夢を持ちすぎているんじゃないだろうか。

 たとえ素晴らしいものが詰まっていようとも、おもちゃはおもちゃだ。こんなにお金を注ぎ込んで、いざ届いたらがっかり、なんてことがないといいけどな。


「松原くんみたいな夢のない子にこそ、いつか見せてあげたいな。信じる心の大切さを!」

 きらきらした目で語る海野先輩と共に、俺はコンビニを離れて真昼の道を辿り始める。

 焼けつきそうな炎天下を、夏らしい蝉時雨を聞きながら歩く。徒歩通学の俺とは違い、海野先輩は電車通学なので、コンビニから一緒に歩けるのはほんの少しの距離しかない。そのほんの少しの距離を惜しむように、俺はなるべく速度を落として歩く。

 海野先輩は歩くのがあまり速くない。チョコボールを食べながら、麦茶を飲みながら歩くからだ。

「はい、松原くんもチョコ食べて」

「あ、いただきます。ありがとうございます」

 先輩はいつも俺にチョコボールを分けてくれる。一仕事終えた後に食べる甘い物は美味しいし、女の子と二人で歩く機会なんてまずない俺は、海野先輩との帰り道が密かな楽しみになっていた。むしろこんな楽しみでもないと夏休みの当番なんてやってられない。

 それにしても暑い。チョコボールを飲み込んだ後で俺も買っていた麦茶のキャップを捻ると、不意に海野先輩が言った。

「松原くん、顎に汗が垂れてるよ」

 言われて俺が手をやるより早く、顎に柔らかいタオルの感触があった。

 見ると海野先輩がこちらへ手を伸ばし、俺の顎にハンドタオルを押し当てていた。軽く拭った後、にこっと笑う。

「お節介だった?」

 俺は一瞬呆気に取られ、

「……タオル汚れたんじゃないですか? すみません」

 我に返るとすぐに詫びた。

 でも先輩は全く気にせず、そのタオルをスカートのポケットにしまう。そして造作もなく言う。

「お地蔵様とかさ、きれいにしてあげたらご利益があるって言うじゃない」

「俺、地蔵扱いですか……」

 思わずぼやけば、先輩はくすくすと愉快そうに笑い出した。

「ねえねえ、松原地蔵は何をお供えしたらご利益あるの?」

「供えなくていいですよ、ご利益あるって保証もないですし」

「やっぱいなり寿司? それともヤクルトっぽいちっちゃい飲み物?」

「どうしてもって言うなら、可愛い女の子がいいです」

「え? どゆこと?」

「よく昔話にあるじゃないですか。生贄を捧げて五穀豊穣を願う的な」

 そう続けると、とても冷ややかな目を向けられてしまった。

「やだ、このお地蔵様すっごい俗っぽい。松原くんも男の子なんだね」

 言われるまでもなく最初からそうなんだけど、それを主張したところで何があるわけでもない。

 夢を持ちすぎて裏切られるのも悲しいから、現状で満足しておく主義だ。


 先輩と別れて家へ帰ると、しぼんだ浮き輪を抱えた弟が待っていた。

「兄ちゃん、うちに空気入れあったっけ? 友達とプール行くんだけど」

「あったんじゃないか? 物置に確か」

 部屋で制服を脱ぎながら答えれば、弟はすぐに家の外の物置へと走っていったようだ。閉じた窓越しにも立てつけの悪い物置の戸が開くのが聞こえたけど、すぐに閉まった。

 戻ってきた弟が縋りついてくる。

「兄ちゃん物置怖い! 探して!」

「……わかった」

 外から帰ってきたばかりなのにまた外へ出るのは億劫だった。でも弟が物置を怖がるのももっともなので、適当なTシャツに着替え、首にタオルを巻いてから外へ出た。


 我が家の物置はずっとカオスな状態だった。錆だらけのママチャリ、もう何年もしまわれたままの鯉のぼりや五月人形、日曜大工用の工具なんかがぎっちり詰め込まれている。父さんは仕事が忙しいし、暇になったら俺が片づけようと思っていたけど、何となく気が乗らないままずっと放置してきた。

 軋む物置の戸を開けると、埃と黴と錆の混じり合ったような臭いと蒸し器の中みたいに熱せられた空気が染み出してきた。

 それだけでうんざりしたけど、これもいい機会だ。

 覚悟を決めて詰め込まれたガラクタを運び出す。


 弟も五年生になり、ようやく手がかからなくなった。

 長い夏休みの間も友達と一緒に宿題をしたり、遊びに行ったりと勝手に予定を入れてくれるので、いちいち俺が面倒を見なくてもよくなったのは大きい。食事さえ用意してやれば済む。ただ俺が楽になったからこそ弟には一層不自由な思いをさせたくないというのもあり、ここは是が非でも空気入れを見つけてやろうと物置を漁った。

 相変わらず蝉の大合唱はうるさく、暑さのせいで汗が噴き出てくる。首にかけたタオルで顎を伝う汗を拭うと、海野先輩のタオルの柔らかさを思い出して溜息が出た。


 物置の住人達を外へ運び出すうち、やがて目当ての空気入れを見つけた。

「あったぞー、空気入れ」

 家の中にいる弟に向かって叫んだ後、ふと物置の中に目をやった時だ。工具箱や古びた毛布が山積みになった奥の方、間に挟まれるようにして見覚えのあるものを見つけた。

 宝箱の形をした缶だ。大昔に北海道を家族で旅行して、その時に買ってもらった『白い恋人』の缶だった。

 俺は熱のこもった物置の中に踏み込み、缶を拾い上げた。

 背後で足音がして、

「ありがと兄ちゃん! あとでプール行くね!」

 弟が空気入れを掻っ攫っていった後も、俺は缶を黙って見下ろしていた。


 少しの間だけ、古い記憶が頭の中によみがえっていた。

 これは俺が小さな頃使っていた、宝物入れだ。ゲームに出てくる宝箱の形をしているのが気に入って、親にねだって空き缶を貰った。そこにいろんな気に入ったものを詰め込んでいたのを覚えている。俺がまだ海野先輩みたいに夢も希望も持っていた頃の話だ。

 少し迷ったけど、思い切って蓋を開けてみた。

 中身は記憶のあるものとないものがあり、パンについてくるポケモンのシールやラムネに入っているビー玉は集めていた記憶があるものの、どんぐりで作ったコマや漫画雑誌の切り抜きは入れた覚えがない。なくしたと思っていた病気平癒のお守りがあったのには驚いた。今更見つかったところでどうしようもないけど、感傷的な気分にはなった。


 五年前から、母さんはこの世にいない。

 お守りをこうしてしまい込んでいたからだろうか。ご利益は一切なかった。


 思わず目を伏せた時、俺は宝物入れの中から驚くべきものを見つけた。

 雑誌の切り抜きの中に紛れていた、銀のエンゼルだ。

「残ってたのか……」

 昔、一度だけ引き当てたことがあった。さすがに五枚集める気は起こらなくてすぐに忘れてしまったけど、こんなところにしまっていたのか。ざっと見積もっても五年以上前のものだけど、まだ使えるだろうか。海野先輩にあげたら喜ばれるかもしれない。

 これが先輩の手に渡れば、五枚目の銀のエンゼルになる。

 外へ出したものを物置の中へなるべくきれいに戻した後、俺は銀のエンゼルだけを持って家の中に入った。そして自分の部屋で一人物思いに耽った。

 この銀のエンゼルを渡せば、海野先輩はきっと喜ぶだろう。

 でもそうしたら、貸出当番の度に寄り道をして一緒に帰ることはなくなってしまう。海野先輩はご利益を期待して俺を誘ってくれていたのだ。エンゼルが全て揃えば俺を誘う理由も、帰りにコンビニに寄る理由すらないだろう。

 夢や希望は持たないつもりでいたのに。

 どうして俺は迷い、そして寂しい気持ちになるんだろうか。


 次に海野先輩に会ったのは三日後のことだった。

 図書室の貸出当番は相変わらず利用者がまばらで、訪ねてきたのは三人ほどだった。することもほとんどなく暇だったので、俺はまだ迷いを引きずったまま考え込んでいた。

 お蔭で海野先輩に気遣われる始末だった。

「松原くん、今日はことさら元気ないね。大丈夫?」

「平気です」

 俺は首を振ったけど、先輩はそれを鵜呑みにせず心配そうに俺を見ていた。

「今日も付き合ってもらおうと思ったんだけど、松原くんが具合悪いなら次にしよっかな」

 いつの間にか貸出の時間が終わっていた。

 図書室のドアの札を引っくり返して『閉室中』にし、残った利用者がいないことを確かめた。あとは窓を閉め、受付のパソコンを落とし、そして戸締りをした後で司書室に鍵を返せば当番は終わりだ。


 先輩がコンビニへ行く前に渡してしまわなくてはならない。

 わずかに残っていたらしい夢や希望は捨てて、俺はシャツの胸ポケットから生徒手帳を取り出す。その中に挟んでおいた銀のエンゼルを手に、海野先輩がいる受付カウンターの中に入る。


 先輩はパソコンを操作していたけど、俺が窓も締めずにこちらへやってきたことを不思議に思ったんだろう。顔を上げて尋ねてきた。

「どしたの、松原くん」

「これ、貰ってくれませんか」

 先輩の傍らに立って銀のエンゼルを差し出すと、先輩は目を丸くして俺の手のひらを見てから、同じ表情のまま俺を見上げた。

「銀のエンゼル! 松原くんが当てたの!?」

「子供の頃に当てたやつです。この間、たまたま家で見つけました」

 俺はなるべく内心を悟られないよう、平坦な口調で答えた。

「まだ使えると思うんで、先輩に貰って欲しいんです」

「いいの!?」

 海野先輩は声を上げ、骨董品の鑑定士のような手つきで俺の手から銀のエンゼルを拾い上げた。


 俺は手を引っ込め、海野先輩がエンゼルに見入る様子を眺めていた。

 先輩ははじめ食い入るようにエンゼルをためつすがめつしていたけど、やがてその目が輝き始め、頬には興奮のせいか赤みが差してきた。五枚目の銀のエンゼルを持つ手はぷるぷると震えだし、次に顔を上げた時、弾けるような笑みを見ることができた。


「ありがとう松原くんっ! これで五枚揃ったよ、缶詰貰える! ひゃっほーっ!」

 先輩は歓声を上げ、その場でぴょんぴょん飛び跳ねた。

 その度に先輩の外側に跳ねた髪もふわふわ揺れて、見ているだけで切ない気分になる。

 それから先輩は自分の制服のポケットから二つ折りの財布を取り出し、中から以前手に入れていた四枚の銀のエンゼルを出してみせる。見事に五枚揃ったエンゼルを手のひらの上に乗せ、俺に向かってとろけそうな笑みを浮かべた。

「缶詰届いたら松原くんにも見せたげるね!」

 その気持ちは嬉しいけど、缶詰だってすぐには届かないだろう。図書委員の任期は前期が終わる九月末までだ。それまでに間に合うだろうか。

 俺が黙っていたせいか、そこで海野先輩は目を瞬かせた。

「松原くん、浮かない顔してるね。やっぱ具合悪い?」

「そんなことないです」

「じゃあ、私ががっかりすると思ってる? 高校生が遊べるおもちゃは入ってないって」

 それも思わなくもないけど、そんなことすら今はどうでもよかった。

 海野先輩が缶詰を貰って予想以上の中身に喜ぼうと、あるいは落胆しようと、俺がその結末を見届けることはないのだろう。そして先輩がどちらの結末を迎えようとも、ひとまず銀のエンゼルを揃えるという目的だけは達成されたのだ。当番日の帰りに寄り道をすることもなくなってしまう。

「何が入ってても、先輩にとってはそれがロマンでしょう?」

 俺が尋ねると先輩は深く頷き、逆に聞き返してきた。

「松原くんはそうじゃないの?」

「残念ながら、そうではないですね」

 正直に答える。

 そこで会話を打ち切って窓を閉めに行こうとしたけど、海野先輩はそれを制するようにじっと俺を見ていた。いつも明るい先輩の目は今日もきらきらしていて、もうこんなふうに見つめられることもないだろうと思ったら、もう一言告げたくなった。

「俺にとってのロマンは、先輩と一緒にコンビニへ寄って、そのまま一緒に帰ることなんで」

 一言では収まらなかった。

 もう少し言葉を選ぼうと思ったのに、選びきれなかった。

「それがなくなってしまうのが、寂しいです」

 思いっきり素直に言ってしまった。

 当然、海野先輩はさっき俺が銀のエンゼルを差し出した時以上に目を丸くした。そのまま凍りついたように俺を凝視して、薄く開いた唇からは何の言葉も出てこない。

 さすがに俺も後悔して、急いで先の言葉を否定した。

「何でもないです。困らせてすみません、今のは忘れてください」

「え!? い、いやいや、困ったとかじゃ全然、そういうんじゃないけど……」

 そう言いながらも先輩は明らかに困惑していた。何を言おうか必死に考えているようだったし、今更のように視線を宙に彷徨わせている。

 夢や希望を捨てると決意しておきながら未練がましいことをしてしまって、俺は気まずく思ったし、更に悔やんでいた。


 だけどその時、開けっ放しだった窓から温い風が吹き込んできた。

「あっ」

 風通しのいい図書室を強めの風が吹き抜けると、先輩の手のひらの上にあった五枚のエンゼルもふわっと舞い上がった。

 それは瞬く間に俺達のいる窓際から受付カウンターを飛び越え、図書室に置かれたテーブルの向こう、あるいは本棚の陰に吸い込まれるように消えていった。

「エンゼルが!」

 海野先輩が悲鳴を上げ、エンゼルを追いかけようとした。

 ただ運悪く、狭いカウンター内には俺もいた。どけようとしたけど間に合わず、よろけた俺の足に飛び出そうとした先輩が躓いた。

 同様に、先輩に足払いを食らう格好となった俺も床に倒された。先に倒れた先輩を潰さないよう手をつくのが精一杯で、後のことは何も構っていられなかった。

 仰向けに倒れた先輩は頭をしたたかに打ったようだ。ぎゅっとつむった目に涙が滲んでいた。

「いたたたた……何これ、もう最悪」

「大丈夫ですか、先輩!」

 手首の痛みを堪えつつ、俺は先輩の顔を覗き込んで声をかけた。

 海野先輩は恐る恐る瞼を開き、

「ううん、もう駄目。頭すっごい打ったし……」

 と言いかけたところで俺と目が合い、言葉を止めた。

 床に手をつく俺の影の中、海野先輩の顔がぎょっと引きつる。涙が浮かんだ目で俺をこわごわ見上げて、唇を震わせながら先輩が叫んだ。

「えええええ!? な、なな、どういうことっ!?」

「どうって……先輩はさっき、風に飛ばされたエンゼルを追いかけようとして――」

「ま、待って! 駄目だよこんな、いくらなんでもいきなりすぎるよ!」

「え? 何がですか?」

「だだ、だって私達まだ高校生だし早すぎるしそもそも手も繋いだことないし!」

「……はあ?」

「君も男の子だしこういうのに興味あるのはわかるけどちゃんと段階踏んでからじゃないとっ!」

「ええと……先輩?」

 聞き返しながらふと見下ろせば、俺は先輩を床に組み敷く格好になっていることに気づく。


 俺が床に手をついているせいで、海野先輩は逃げられなくなっていた。

 きらきらと美しく目を潤ませ、恥ずかしさに真っ赤になった顔で俺を見上げている。

 俺はその顔に見とれそうになったけど、先輩の外に跳ねた髪が図書室の床に広がっているのに気づいて、慌てて起き上がった。


「すみません。決して変なことをしようという下心はなくて、さっき先輩が転んだ時に俺も一緒に転んでしまったんです。本当です」

「そ、そうなの?」

 きょとんとする先輩をとりあえず抱き起こし、誤解のないようすぐ手を離した。

 上体を起こした先輩はしばらく俺を見つめていたけど、俺の言葉に嘘がないことを表情から読み取ったのだろう。

 小刻みに震えだしたかと思うと、両手で顔を覆ってうずくまる。

「うわああああああごめんごめん本当ごめん! そうだよね松原くんはそんな人じゃないよねでも何かそういう雰囲気かと思って私どきどきしちゃって! 早まっちゃってごめん!」

「あ、いえ、こちらこそ誤解を与えてすみません」

 俺が謝り返しても、海野先輩はしばらく顔を上げなかった。手で覆いきれない耳まで真っ赤になっていた。

 だけどそのうち、はっと気づいて俯いたままよろよろと立ち上がる。

「……忘れてた。エンゼル、探さないと」

 風に飛ばされた五枚の銀のエンゼルのことを思い出したらしい。覚束ない足取りでテーブルが並ぶ一帯まで歩いていくと、床に這いつくばってエンゼルを探し始めた。


 俺はその背中を見つめながら、落ち着かない気持ちになっていた。

 あんな誤解をされてしまったことは気まずかったものの、別に嫌な気分ではなかった。

 嫌じゃないと言ったらおかしいかもしれない。でも無防備な格好で床に倒れた先輩を見下ろした時、どきっとしたのも事実だ。

 俺の影に覆われた床の上の先輩は、きらきらした目で俺を見ていた。

 あんな目で見てもらえることなんてもうないと思っていたから、このままずっと見ていたいくらい、きれいだと思った。


 夢や希望は捨てようと思ったばかりなのに、捨てきれないのはなぜだろう。

 叶わずに裏切られることの辛さだって知っているのに、気持ちが上手く切り替えられない。


「松原くん……」

 か細い声に名前を呼ばれ、俺は我に返る。

 図書室のテーブルの下に座り、こちらに背を向けた先輩が、ぼそぼそと続けた。

「寂しいって言うならさ、これからも一緒に寄り道しようよ」

 俺が見守る中、先輩は振り向きこそしなかったけど、確かに聞こえる声で言う。

「缶詰だってどうせなら松原くんと一緒に見たいし、エンゼル揃ったのは松原くんのお蔭だからお礼だってしたいし、別に用がなくても、松原くんから誘ってくれたっていいんだよ」

 言うだけ言うと先輩はまた床の上に這いつくばった。


 海野先輩はまだエンゼルを探している。

 一方、俺は自分のエンゼルを見つけてしまった。夢や希望を否定しようとしていた俺に、信じる心を教えてくれた本物のエンゼルだ。

 だから俺も、自分の今の気持ちくらいは信じてみようと思う。


「一緒に探しますよ、先輩」

 俺は先輩に声をかけ、ゆっくりと立ち上がる。

「それ全部見つかったら、五枚揃ったお祝いをしたいので、付き合ってください」

 そう続けると海野先輩は振り返り、恥ずかしそうにしながらも、天使みたいに微笑んだ。

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エンゼルを探せ 森崎緩 @morisakiyuruka

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