第3話 匂いがする

 夕食後、正章は寝る準備をするため階段を上った。途中、その足が止まる。


「ううん……やっぱり、何か臭いがする」


 しかしそれは一瞬で、どこから匂うのか、それとも家全体が匂うのかすら分からない。


──まあ、すぐ慣れるでしょ。引っ越してきたばっかりで敏感になってるのかも。


 正章は顔を振ってまた上り出した。十月からは新しい学校に通わなくてはならない。こんな些細なことを気にしている場合ではないのだ。


 二階に着き、薄暗い廊下に明かりが差していることに気が付く。予想通り、真ん中のドアが開いていて、中から明かりが漏れている。


「いつも開けっ放し」


 二つ年下の妹に文句を言いつつ、ドアを閉める。その一瞬、中から風が吹いた。


「……窓も開けっぱなしなのか? ダメダメだな」


 そのすぐ後を軽快な足音が続く。美結が二階に着いたのは、正章が自室に入った後だった。


「ふふ~、明日のお出かけ楽しみ」


 夕食直後なのに、すでに美結の足取りは軽く、明日に行っている。


 ごろんと大きくベッドに寝転がる。しばらく右に左に動いてみたが、やがてもぞりと起き出し、毛布を持って下に下りていった。


「ママ」

「あら」


 風呂から上がり食器を洗っていた由里子は、美結の姿を見て目を丸くさせた。少し屈んで言う。


「寝られないの?」

「うん。ママと寝る」

「ママはもう少し家のお仕事が残ってるから、先にママのベッドに行ってて」


 それでも美結はキッチンから出ていかず、結局リビングのソファに座って母を待つことになった。


「四年生になって、一人で寝られるようになったのにねぇ。新しいお家だからちょっと怖かった?」

「慣れないだけ。慣れたら平気だよ」

「そっか」


 両足をぶらぶら揺らして答える。リモコンを手にしてテレビをつけても、由里子は何も言わなかった。


 三十分近く待っていると、ようやくスリッパの音が美結の傍までやってきた。美結がテレビを消す。


「おまたせ。寝ようか」

「うん」


 手を繋いで寝室に向かう。四年生になったと言っても、まだ九歳の子ども。たまにはこういうこともあるだろう。


 ドアを開けると、生温い空気が漂った。二つあるベッドのうち、手前に二人が寝転がる。


「パパは?」

「まだお仕事するって」

「へぇ、大変」

「そう、大変なの」


 毛布を被っていた美結が突然起き上がった。


「うーちゃん忘れてた!」


 うーちゃんとは、美結の親友であるうさぎのぬいぐるみだ。美結は慌てた様子でベッドから飛び下りた。


「危ないから飛び下りないで」

「ごめんなさい。でも、うーちゃんが泣いちゃうから」


 そう言って、ばたばたと廊下に出ていった。

 階段を上り、半開きのドアを通り抜け、自分のベッドに置きっぱなしのうーちゃんを抱き上げた。


「ごめんね、うーちゃん。一緒に寝よ」


 三歳の頃買ってもらったぬいぐるみは今でも一番の親友で、他のぬいぐるみたちに挨拶をしながら、美結は来た道を戻った。閉められた部屋の中、並べられたぬいぐるみの一つが床にころんと転がった。


「ただいま」


 今度はゆっくり上って由里子の隣に収まる。美結はうーちゃんを枕元に置いて目を閉じた。


 五分、十分、寝室の時計が静かに進む。十五分経って、由里子はベッドから音を立てないよう下りた。ドアを閉め、リビングに戻る。


「二十二時か」


 冷蔵庫からお茶を取り出し、コップに注ぐ。それをテーブルに置き、テレビの横にある本棚から文庫本を一冊選んでソファに座った。


 しおりを挟んであるページを開き、読み始める。あと一時間、由里子にとっての自由時間だ。専業主婦の趣味ともなると金をかけるものは出来ず、最近は専ら読書に勤しんでいる。これなら大して金もいらず、好きな時間、好きな場所で出来る。


 今読んでいるのは時代小説で、幕末の出来事に少しのファンタジーを交えて話が進んでいく。


「ふふ」


 ことん。


 思わず声が漏れた時、それに呼応するかのような音が耳に届いた。とても小さな音で、聞き逃してしまいそうな音だった。


──美結が起きたのかな。


 本をテーブルに置き、立ち上がる。廊下に出てみるが、寝室のドアは閉まったままだ。見回してみても、音の出そうなものは見つからなかった。


「気のせいね」


 今日は荷物を沢山移動させたから、まだ段ボールから出していない何かが音を立てたのかもしれない。由里子はそれ以上探すことはせずリビングに戻った。

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