第7話 迷子と犬

 良い笑顔で返された。首を振っておく。そんな怖いことはしないでほしいし、そもそも馬牙風マァ・ヤーフォンに恨みも無い。


「いえ、遠慮しておきます。それで先ほどのお返事を頂きたいのですが」

「返事って!? 返事って何!? このガリガリ鬼に亮亮が用事あるの!?」


「五月蠅いですよ。夏晴亮シァ・チンリァン、今度試験を実施させて頂きます。それに合格したら入学を許可します」

「有難う御座います!」


「試験!? まさか術師の学び舎? あれは男ばかりだし辛いところよ? しかも卒業したら宮女か術師を選択しなければならない。毒見師なんて怪しい職にも就いたばかりだし、それ以外は私と宮女だけしていた方が安全よ?」


「それは星星が決めることではありません。夏晴亮とて一人の人間、彼女には彼女の人生があります」


「正論で苛々する!」

「仲良いですね」

「どこが!?」


 とりあえず、意外と馬牙風もおしゃべりなことが分かった。真顔は少々怖いけれども、悪い人間ではなさそうだ。去っていく彼へ暴言で見送る馬星星マァ・シンシンを温かく見守った。


「大丈夫です。毒見師は必要な時だけ第一皇子の元に参ればいいだけなので、何も負担はありません。だから、学び舎の試験を受けることを許してください」

「うう……ッ清い瞳でお願いされたら許すしかないじゃない!」


 苦しいくらいに抱きしめられた。


「うえぇん。私の妹が変わってしまう……私の手元にいてほしい……」

「私、馬先輩の妹ですか?」

「うん。そのつもりだわ」

「嬉しいです」


 親も兄妹も知らない。いないものと思って生きてきた。肉親の思い出の無い腕に温もりが広がる。夏晴亮も恐る恐る抱きしめ返す。


「ということは、馬宰相が私の従兄に……?」

「それは止めましょ。私が亮亮の姉代わり。ね?」

「はい」


 その日の仕事はいつも以上に気合が入った。入り過ぎてまた迷子になった。


「困った」


 仕事は終わったので問題無い。しかし、夕食までに間に合わないと、毒見師の仕事に支障をきたす。きっと夏晴亮が毒見をしなければ、任深持は腹を空かせて怒りに震えることになる。


「このままでは今度こそ解雇に!」


 誰かいないか、辺りを窺う。すると、庭の方で白い何かが動いた。宮女だろうか。夏晴亮が庭に下りて追いかけると、それは一匹の犬だった。


「わんちゃんだったのね。おどかしてごめんなさい。迷い犬かしら」


 塀で囲まれている後宮に迷い込むとは考えにくいので、誰かに飼われている犬だろう。この犬に付いていけば、誰かの部屋まで案内してもらえるかもしれない。


「わんちゃん。お散歩一緒してもいい?」

「ワン」

「お利巧さんね」


 夏晴亮の言葉が分かったのか、犬が少し前をトコトコ歩いていく。その通り進むと、後宮と繋がった離れに辿り着いた。


「ここは……」


 毎日の掃除は後宮内なので、初めて来る場所だ。立ち入り禁止の区域は聞かされていないので、ここも特に問題無いだろう。


「誰かいればいいんだけど」


 そして、是非とも帰り道を教えてもらいたい。出来れば近くまで案内してほしい。切実な願いとともに足を踏み入れる。


「そこの宮女、ここは管轄外ですので、掃除は結構……夏晴亮シァ・チンリァン?」

「馬宰相!」


 見知った顔に出会うことが出来、夏晴亮が眉を下げる。これで部屋に戻ることが出来る。それとは反対に、宰相は珍しく真顔を崩し、眉を上げて驚いていた。


「貴方が何故ここに」


 もしかして、知らなかっただけで宮女が入ってはいけなかったのかもしれない。夏晴亮が脊髄反射で腰を九十度に折る。


「申し訳ありません。お恥ずかしながら迷子になってしまい、途中で見つけた犬の後を追っていたらこちらに辿り着きまして」

「この犬の?」

「はい」

「そうですか」


 馬牙風マァ・ヤーフォンが犬に手招きすると、大人しく彼の元へ歩いておすわりをした。実に教育されている賢い犬だ。


「犬の名前を聞いてもよいですか?」

ユーです」

「雨ですか」


 雨の日にでも生まれたのか、珍しい名前だと思った。宰相が右手を挙げる。


「後宮の入り口はあちらを真っすぐ行ったところです。ついでに、私も行きましょう」

「有難う御座います」


 宰相の後ろをついていく。今は雨もいないため、少し気まずい。何か会話をした方がいいのかと思っても、彼と共通の話題が見つからず、結局夏晴亮の部屋まで無言で帰ることとなった。


亮亮リァンリァン。遅かったじゃな……なんか横に変な影が付いているわよ。近くにいたら貴方まで暗くなっちゃう」

「ただいま戻りました。馬宰相がここまで送ってくださったんです」

「そうなの。私の可愛い後輩を送ってくださり恐縮です。それではお元気でさよなら」


 棒読みで読み上げた馬星星マァ・シンシンが部屋の扉を閉めようとしたら、馬宰相に足で止められた。


「まだ何か用事でも?」

「そうですね。夏晴亮に少々業務連絡を」

「私に? なんでしょう」


 馬星星の後ろにいた夏晴亮がひょこりと顔を出す。


「ええ、学び舎の件ですが、貴方は入学試験を受けないことになりました」

「え、入学試験無しですか!?」

「はい。先ほど、急遽」

「じゃあ、入れないということですね」


 夏晴亮は落ち込んだ。試験に落ちたならまだしも、受けることすら許されないなんて。馬宰相が夏晴亮の前で手を振って否定した。


「入れないというか、入らなくていいということです」


 馬宰相の一言に夏晴亮が顔を上げる。


「どういうことですか?」


「貴方は技術面ですでに卒業生と同程度なので、入る必要は無いということです。座学の面では素人なので学ばなければなりませんが、それは実践で都度私がお教えします」


 夏晴亮が瞳をぱちぱちさせる。まさかの大逆転だ。横で聞いていた馬星星が手を叩いて喜んだ。


「すごい、亮亮! 天才かしら!」

「あ、有難う御座います」


 馬星星にぎゅうぎゅうに抱きしめられながら礼を言う。何がどうなって技術を認められたのか分からないが、この身が役に立つというのなら有難い話だ。

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