結末

「――マジでムカつく! あの野郎!」


 自宅の玄関をくぐるなり、ヒカルは靴を放り投げて自室へと向かう。 廊下を進んでいる途中、襖が開いて、そこからヒカルの母親が姿を現した。


「お……お帰りなさい。御飯は……」


「……………………」


 母親の言葉を無視し、ヒカルは自室に籠もる。かれこれもう一年近く、まともな会話をしていない。


 ヒカルは真っ暗な部屋の中、カバンを叩きつけるとベッドに寝転んだ。


「どいつも、こいつも! ムカつく! ムカつく! ムカつく! ムカつく!」


 小学校低学年の頃、ヒカルの父親は突然いなくなった。置き手紙には一言「疲れた」と書き残して。


 父の事を心底愛していた母にとって、その失踪は大きな影響を及ぼした。毎晩酒に溺れ、涙を流す。口癖のように、ヒカルに向かって「あなたは私を裏切らないで」と聞いてきた。


 ヒカルは幼いながら思った。「私がこの人の支えにならなければ」と。甲斐あってか、少しずつ母は改善されていく。それがヒカルは嬉しかった。


 中学三年になった頃、母親に彼氏が出来た。金を持っているだけで、品性の欠片もない男。母を弄んでいる事もすぐに分かった。なので何度もヒカルは男と別れる事を勧めた。


「あの人がいないとダメなの……捨てられたくないの……」


 ヒカルは悟った。この人は、相手が私でなくてもいいのだと。男に寄りかからなければ生きていけない愚かな……寂しい女。それが自分の母。


 いつも人の顔色を窺って、どんな仕打ちをされても媚びを売り続ける自分の母……その血が、私の中に入っているのだと思うと堪らなく嫌だった。


 その日を境に、ヒカルは変わった。弱い人間が蹂躙され、淘汰される世界なら……私は強い人間になる。母親のようには、ならない。そう誓ったのだ。


 ある日、クラスで母親そっくりの女を見つけた。


 山城理沙。


 いつも人の顔色を窺い、オドオドとしている女。無性にハラが立った。


 リサの母親が学校にまで迎えに来た事もあった。上品な母親……きっと愛されているのだろう。


 ――許せなかった。


 弱い人間のくせに。


 イジメられる立場のくせに。


 生意気だ。許せない。


 次の日から、ヒカルのイジメはエスカレートしていく。


 こっくりさんにしても、そうだ。呪われるべきは私じゃない、リサなのだ。


 あんな奴は死んでしまえばいい。いっそ、せいせいする。私の目の前から消えて無くなれ。


 私は呪われない……それは、何故か? 強い人間だから。奴等とは違うから。


「何が呪いだ! くだらな――痛ッ⁉」


 真っ暗な天井を眺めながらそんな事を考えていると、突然背中に火傷のような痛みが走った。


「なに? どっかでぶつけた?」


 ヒカルは上着を脱ぎ、部屋に置かれた全身鏡で自分の背中を確認してみる。


「な……なによ、これッ⁉」


 そこには無数の痣があった。幾筋もの赤紫の線が背中に引かれ、まるで生き物のように蠢く。


「な……何よ、コレェエエッッ⁉」


 バリバリと背中を掻き毟る。触れば更に痛みは増したが、構わず掻き続けた。


「ザケんなッ! 消えろッ! 消えろ消えろ消えろ消えろ!」


 次の瞬間、ヒカルの背中が突然重くなる。まるで、何かに覆いかぶされたような感覚……。


「――――ッ⁉ ぐっ……うぅううう……!」


 重さと痛みで立っていられない。呼吸も荒くなり、全身から冷たい汗が噴き出る。


『――バ……――ツ――』


耳元で不気味な女の声が聞こえた。それを幻聴だと言い聞かせ、苦痛に耐える。


『――エバ――……――ヘ――……――イデ――』


 しかし声は大きくなっていく。聞こえないように耳を塞いでも無駄だった。直接脳に語りかけられているようだ。




『―――人ヲ 呪エバ 穴 フタツ―――



 ―――地獄ヘ  地獄へ  オイデ―――』




 ヒカルの背中の一部が、突然弾け飛ぶ。


「う……ああぁぁあああッッ⁉」


一度では終わらない。二度、三度、四度――背中の肉片を床にまき散らせていく。


「あぁあぁッ! 痛い! 痛い痛い痛い‼ ゆっ、許してぇええええッ‼」


 涙を流し、命乞いをするヒカル。視界が白けていく中、彼女は窓の外に立つ人影を見た。


 真黒なシルエットに赤い瞳。その手には、威圧感を放つ細長い『何か』を携えている。


「あ……あく、ま……」


 直感的に、そう思った。目の前にいる存在が、こっくりさんとは到底思えない。むしろ、それよりも禍々しい。



『――愚かしき人間よ


此れ以上、陋習な様を曝け出すべきではない。


逝くがいい、黄壌の地へ


その御霊、我が引き取ろう』



美しい男の顔をしていた。意識が刈り取られてしまいそうな香りがした。その瞳は虫のように無機質で――冷たい。



『……さらばだ』




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 ――翌朝八時。いつまでも起きてこないヒカルを心配した母親が、恐る恐る部屋を開けると――娘は床に寝そべり、息絶えていた。


 苦悶の表情をしていたが、外傷はまるでなく死因は分からず終い。事件とも繋がらないという事で、本件は迷宮入りとなる。


「急死というのは、そんなモノですよ」


 警察の言葉に母親は当然、納得出来なかった。愛する娘の養育費、そして学費を捻出する為に奔放した日々。決して綺麗なお金とは言えなかったが、それでも娘の為ならばと歯を食いしばってきた日々。それらが全て、気泡に消えた。


 ――それから三日後、母親は前触れなく引っ越してしまう。近所の人間に何も告げる事なく、夜逃げ同然に。


 学校側も配慮し「池田さんはご家庭の都合で転校されました」とだけ報告。


 警察も何度か母親の行方を捜索したが、現在に至るまで発見はされていない。




 『分身娑婆』編  完

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