第2話
「だって突然蛙化してさぁ……!」
翌朝の教室でわたしが見たのは、ギャル女子の仲間たちに向かって涙目で語っている美紅の姿だった。
「あーあるあるあるある」
「夢見過ぎたな、美紅」
「次行こーぜ次」
「今日放課後遊ぶー?」
ごくありふれた恋の失敗談に聞こえるのだろう。
みんな笑って受け流している。
ただひとり美紅だけが、
「違うし、マジで蛙なのよ……!」
必死であり、若干キレ気味である。
「ってかもうあれは人間じゃないわ」
「そこまで言うか?」
「どんだけやらかしたんだよ」
「なに? いきなり胸触られた?」
「ぎぇええぇないないないないぃぃぃ!」
なにかを想像してしまったのだろうか、悲鳴をあげ、自分の肩を守るようにぎゅっと抱きしめる美紅。その尋常ならざる様子に、周りの子たちもだんだん引き気味になって、
「え〜トラウマじゃん」
「河津、要注意人物確定だな」
苦笑いを浮かべていた。
「蛙化現象」――。
好意を抱いている相手が自分に好意を持っていることが明らかになると、その相手に対し生理的嫌悪感や、真逆の感情を有するようになってしまう現象のこと。
もとは心理学の用語だけれど、それがいつしか「好きな人の許せない行動や嫌な一面を見てひどく幻滅する」というような、本来のものと別の意味で使われ出したのが、ここ数年での流行り。
けどまさか河津くんのような好青年が、数日と持たずして、人間じゃないと言われるほどにまでボロクソに幻滅されてしまうなんて。
なにかよっぽどの原因があったのかと、みんなはそう考えているみたい。
それはまあその通り。なのだけれど。
でも肝心の、よっぽどの原因の内容については、たぶんだれも予想できていないと思う。
河津くんのそのおどろくべき秘密を、わたしは知っていた。
カミングアウトは突然で、でもあれは必然のタイミングだったのかもしれない。文化祭の前日のことだった。
実行委員のメンバー全員での最終確認を終えたあと、わたしと河津くんはもう少し、クラスの当日のパフォーマンスまでの流れをおさらいすることにしていた。
ふたりで一年三組の教室に戻ったところで、扉をしめた河津くんは、あのさ、と声をかけてきた。
そして、なに? と振り返ったわたしに向かって切り出した。
「藍衣菜は、気づいてた?」
「え?」
「俺さ、蛙化しちゃうんだよ」
「カエルカ?」
突然なにを――と思うより先に、息が止まった。
どういう意味だかを説明されるより、彼の変化は早かった。まず顔の表面がぬるんとした粘液に覆われて、それが変形の合図だった。
「そう。知らない? 『蛙化現象』って言葉、あったじゃん? それの影響なのかなんなのか、原因は不明だけど、ここ数年、マジで蛙化する人間が、稀にいるんだ、って」
話しながらも、口がびよーんと横伸びしながら突き出してきて、目がどんどん左右に離れていく。
それと同時に、皮膚の内側から鮮やかな黄緑色がじわりと滲み出てきて、みるみる顔色が緑に染まる。
「ちょっとなら……知ってる」
目を離すことができないまま、わたしは恐る恐るうなずいた。
以前SNSで画像がバズっていたのを見たことがある。
それは頭や手足が完全に蛙の見た目となり、巨大なアマガエルとなってしまった男子大学生を、友人たちが悲鳴をあげながら撮影した動画だった。
よくできた被り物だとかCGだとか、ホンモノだとか、一時期外野の議論が白熱していたけれど、いまはいったん真偽不明に落ち着いて、都市伝説のように扱われている。
でもまさか河津くんが。
「発動条件ははっきりしてないんだけど、どうやら片想いの相手とか、恋人とかと、ふたりきりになると、変わりやすいっぽいんだよな」
そ、そっか。
「それは、不便ね」
なんとかそれらしい言葉を紡ぐ。
「おどろかないんだな。やっぱり、気づいてたか? いままでふたりきりになるのを避けたり、目を逸らしたりして、誤魔化してきたつもりだったんだけど」
仕上げに髪の毛が頭のなかにしゅるしゅると格納されていき、完全に蛙の頭になった河津くんは、ばつが悪そうに頭をかいた。その手もまた蛙そのものだった。粘液に覆われて、長い指の先には吸盤、付け根には水掻きを持っている。
「気づかなかったし、おどろいてる。ということはわたしは、河津くんの気になる人……なの?」
河津くんは目を細め、大きくなった緑の頭でこくりとうなずいた。頭の肥大化により、細長かった首は完全に圧迫されて消えてしまっている。窮屈そうにネクタイをゆるめ、シャツのボタンを外すと、
「うん。こんなかたちで言うことになってごめん。藍衣菜のこと、好きだよ」
困惑の状況下で、彼はわたしに想いを告げた。 声帯も圧迫されたのだろう、『千と千尋の神隠し』でカオナシに食われたあの蛙にそっくりな潰れた声になっていた。
日本全国津々浦々、高校生の告白現場で張り込みをおこなったとしても、これほど特殊なシーンはなかなか拝めないんじゃなかろうか。
「蛙化しちゃうこと、藍衣菜はどう思う。やっぱり、なしか」
蛙の口は固く結ばれて、顔の側面から飛び出る、ぎょろぎょろっとしたまんまるな眼球が真剣にこちらを見つめていた。
こうなるともう、もとの河津くんの顔に似ている部分を見つけるほうが困難だ。かなり正真正銘の蛙という容貌。
彼だって好きで蛙化しているわけではないのだ。不本意だし、不条理だって思っているはず。だからこそ、わたしは誠実に、正直に応えなきゃいけないと思った。
「そんなに気持ち悪いとは思わないわ。不便だとは思うけど」
「じゃあ――」
と河津くんが期待を込めて大きな口を開いたので、急いで遮る。
「でもごめんなさい! 河津くんのこと、恋愛対象としては見れない、かな」
それはなにがあってもゆるがない、固く心に決めていた答えだった。……はずなのだけれど、思いのほか申し訳なさが先立って、声が消え入りそうになった。だって、わたしだって河津くんのこと、いいなって思っていたのだ。こんなふうに、傷つけたくはなかった。
ただ、でもやっぱり――。
河津くんの、蛙特有のその横長の瞳がゆらゆらと揺れていた。
息が詰まりそうな沈黙の果て、
「……だよなぁ、やっぱり」
長く、大きなため息が返ってくる。
違うの。
あのね。
どこまで本音で踏み込めば良いか迷った。わたし自身のことも、彼には打ち明けてもいいのかもしれない。そのほうがきっとフェアだ。でも長くて少し複雑な話になる。
なんとか端的にまとめようとして、適切な切り出し文句を探していると、河津くんはもう一度、今度は吹っ切れたように、息をついた。
「いやあ、ごめんな。困らせるようなこと言って。俺のことは気にしないで、もしよかったら、明日からも普通に友だちとして接してほしい」
そう言ってわたしに向けた表情は、いつもと変わらない爽やかな笑顔だった。――まあまだ蛙だったのだけれど。
「もちろんよ」
わたしは彼に、最大限労わりの笑みを返した。
「よし、じゃあこの話はおしまい! ちゃっちゃと明日の準備して、早く帰ろうぜ!」
結局その日、河津くんは蛙のまま過ごし、わたしは河津くんに自身の胸の内を話すことはできなかった。
校門の前で手を振ったところで、ようやく河津くんの後ろ姿は人間に戻り始めた。しばらくその遠ざかる背中を見送りながら、わたしは心のなかでぐるぐると唱えていた。
河津くん、こちらこそ気持ちに答えられなくてごめんなさい。河津くんが蛙化してしまうせいじゃないの。実はわたし、ほんとうはね――。
「――ちょっと、藍衣菜、聞いてるの!? 藍衣菜ってば」
いつのまにか美紅が机の前に仁王立ちして、いかにもなにか物申したいと言う顔でわたしのことを睨みつけていた。
「ちょっと来て」
人差し指でくいっと立ち上がるよう指示してくる。
なんとなく嫌な予感がしつつも、わたしはおとなしく美紅にしたがうことにした。
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