Altar.01 曇天に出逢う
キルステン・アンデシェンは夢を見た。
ぼんやりとした火の海だった。長髪の男と、黒髪の、男とも女とも言い難い人体が互いを向き合い、「またね」と声をかけて――……それから、わからない。
「……あ、やっべ、寝坊」
時計を見ると、冷静に遅刻を確認する。ぼさぼさのカッパーレッドの髪は気にせず、干した制服を取り込み急いで着替え、最後にスカートのホックをきちんと締めた。
「……?」
狭い部屋の木製棚には、今は亡き父からの土産物といわれて渡された――そういった記憶とともに鎮座している角笛がある。それがわずかに音を立てた気がして、キルステンはふと振り返った。
父が自身の遅刻を呆れたのか、笑ったのか。父どころか、妹以外の家族との記憶や思い出はまるで頭にないが、そう感じたキルステンはなんとなく口もとを緩めた。
階段を下り、教科書やプリント類、布製のペンケースが乱雑に詰め込まれたエナメルのサッチェルバッグを手に取る。「いってきます」の声は、誰もいない家の中に響いてかき消された。
「ねえねえキルステン、今日の葬祭法学わかった? わたし全然でさあ」
「あたしに聞くなよ。あたしがわかってたところで、あんたに説明して理解されたためしがまるでない」
「そんなあ」
ここはウートファール葬祭学校。
カルディアという世界を象った宇宙国家は、世界としての異質さや恐怖心から死者の弔いにこだわる文化が根強い。この葬祭学校は中でも大きな教育機関である。
キルステンは帰りのホームルームを終え、友人に絡まれる。いつもの、ごく普通の日常だ。
「あんた委員会だろ。早く行かないと」
「あ! そうだった。委員長厳しいんだよね……キルステン、また明日ね!」
「おうよ。また明日」
サッチェルバッグを柄悪く背中側にかけて持つ。この仕草に加え、三白眼で猫背のキルステンは廊下を歩くだけで「ひっ」などと声を上げられる。まったく損な生活なものだ。ゆえに、先ほど絡んできた友人なんかはたいへん貴重である――当のキルステンはあまり気にしていないようだが。
カルディアは曇り空が多く、今日もそうだ。広場の中心に構える大きな噴水の女神像とふと目が合い、キルステンは立ち止まる。そのまま視線を上に遣り空を見上げると、ぼやけた記憶が――朝に見た夢がフラッシュバックしてきた。不思議な体験だった。よくある夢の話のようでいて、誰かの記憶を万華鏡のように覗き込んでいたようで――
「そこなお嬢さん、ちょっといいかしら」
ぼうっと視界を眩ませていると、背後から声をかけられる。鈴の鳴るようなその声に振り向かずにはいられない。
「……は、はい、なんでしょう」
「わたくしに協力してくださらない?」
キルステンは背後にいた少女に驚いた。白と黒のツートンカラーを模したツインテールに、ゴシックな服装。ファッション・モデル文化が盛んな地区では目にしそうだが、このあたりではまず見かけない。ひときわ目を惹いたのは少女の目だった。右の瞳は光を一筋も通さない漆黒、左側は前髪で隠れていて――その髪の上に、蜘蛛の脚を持ったかのような、赤い赤い大きな瞳が埋め込まれていた。
そしてそれ以上に、少女の発言にも目を丸くせざるを得なかった。
「きょ、……協力とは」
「手間取り……いえ、それよりもっと大変かもしれませんけれど。わたくしと悪神を討ち倒してほしいのです」
「……はい?」
拍子抜けな言葉とともに、しばらく硬直した。その間抜けなキルステンの様子に少女は「ふふ」と和やかに微笑み、さらに話を続ける。
「自己紹介がまだでしたわね。わたくしはヘル、冥界の王です」
「……神話の? あのヘル?」
「ええ、そうです。そして、先ほど話した悪神の娘ですの」
「悪神……ヘルの父ってことは、ロキ?」
「よくご存知で」
一七〇〇年間、口頭から詩歌形態としてカルディアに伝わるひとつの神話。
かつてこの宇宙は、世界樹ユグドラシルを中心に神々と巨人たちが住まう場所だったが、「ラグナロク」と呼ばれる彼らの最終戦争により一部を残して消えたとされる噺。
「しかし、そのお噺には誤りがありますの。ラグナロクはたしかに起こりました。ですが、滅びるはずの者が滅びず、滅びぬはずの地が焼き尽くされた」
ヘルはほんの少し目を伏せる。
唐突の出会いに、キルステンは眼前の少女が神話で語られた冥界の女王ヘルだということに半信半疑だった。しかし彼女は気付いた――既に「自分は少女をヘルとして見做して」おり、「手遅れなほど心に入られていること」を。
「えーと……つまり、悪神を討ち倒したいってことは、ロキが生きていると?」
「勘がよろしくて結構。そうでございます。この世界には三つの階層――この地上シャーナ、冥界スルテ、そして最終階層、または深淵といわれるスヴァルトが存在しますね。そのスヴァルトに彼とわたくしの母たちがいらっしゃいます」
この世界を形作る階層については知っていたが、キルステンからは思わず「えー……」という情けない声が漏れ出た。
つまり、とうに滅びたはずのロキが生きており、「神話は間違ったかたちで終結」したのだ。そうして人に近く、冥府の主人として人に親しいヘルが人間であるキルステンに協力を求めて――
「いや、なんであたし」
当然の疑問が飛び出た。するとヘルはまた愛しがるようにくすくすと笑い、「ごめんなさいね」と言った。
「まずは、あなた様のお部屋に伺わせていただきたいのです。そうすれば、この邂逅の意味が解りましょう、キルステン」
「王様って容赦ないな……いま部屋汚いんだけど」
なぜヘルが自分の名を知っていたか、キルステンはわかっていた。正真正銘、神格である彼女には何だってお見通しなのだ。だからこそヘルを信じて、部屋に上げる決意をした――彼女が胡散臭いことに変わりはないが。
「……ま、いいや。あたしもその話、気になるし。聞くだけだからね?」
「ええ、もちろん。それではご案内、よろしくお願いいたしますわ」
ヘルはにっこりと笑った。
嬉しそうに近寄ってこちらについてくる冥界の王様は、ふわりと心地のよい花の香りがした。
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