第四十一話 唐揚げと嘘

 ガーゼが取れ、薄っすらと赤みを残した希海の頬の傷痕を見つめる六は、腕に感じた温度で現実に引き戻された。


「あっ、油! ほら、ぼーっとしてたら危ないよ? ちゃんと衣の色も見てなきゃ」


 希海は天音が施した髪型を気に入り、六が退院した後もサイドテールへ戻さなかった。特に作業の時はこっちの方が何かと便利らしく、お団子を結んでいる。


 鶏肉を切り終わったまな板を洗う希海に六はなあ、と声をかけてから言った。


「お前はこういうの、よくやってたのか?」

「こういうのって?」

「料理だよ」


 希海は手を止めず続ける。


「お母さん死んだし、お父さん一人で大変そうだったからねー。簡単なやつしか作れないけど、外食とか買って来た物ばっかよりはマシ」

「お母さんって、羽宮恵?」

「そうだけど……あれ、お母さんの名前って君に教えたっけ?」

「お前から言われなくても、警護対象の家族の事くらい知ってるよ」


 しかし、データベースをいくら遡ってもやはり恵の「箱」についての情報は見つからなかった。希海本人は何か知っているのだろうかと六は考えたが、フランの言葉通り、冥界での事については話を控えるほかなかった。希海を危険に晒さぬよう、まずは局長である彼女に報告するべきなのだ。


 六は唐揚げが並んだ皿をテーブルに置き、話題を逸らすために希海に言った。


「それにしても、本当にこんなので良かったのかよ? わざわざ二人で作るにしては簡単過ぎるだろ」

「簡単とか言ってさあ、危うく指吹っ飛ばしそうになったのは誰よ? この歳で猫の手知らない人初めて見たんですけど。私に見惚れて火傷しそうになってたしさ」


 希海は悪戯笑いして言った。


「シンプルなやつの方が君が覚えやすいでしょ? たまには自炊もしてみなよ」

「自分だけサボって俺に食いもん作らせようとしてるだろ」


 希海が六に食前の挨拶を促し、二人は唐揚げを口に運んだ。味が舌に伝わった時、六の頬から一縷の涙が流れた。理由が分からず手で拭えど止まることは無く、一滴、また一滴と溢れ、気づけば食卓を濡らしていた。


「あれ……? 俺、何で」

「え、そんなに唐揚げ美味しかったの? あははははは! 美味しい物食べて泣くとか、君って意外と感受性豊かなんだねえ」


 六は赤面し、黙ったまま唐揚げや白米をかき込んだ。食事を急ぐあまり頬が栗鼠のように膨らみ、それがまた希海の笑い種になった。


 唐揚げは自分の不注意のせいか、どちらかと言えば肉が少し硬かった。だがそんな事は問題ではない。今味わっているのは、決別の味なのだと六は気づいた。自らが囚われていた狭い世界との、決別の味。

 大切な人と作る唐揚げがこんなに美味しいなんて、初めて知った。涙がこんなに簡単に出るなんて、初めて知った。いや、世界の全てがこんなにも透き通っている事を、自分はずっと知らなかっただけなのだ。


 六は麦茶を飲み干し、まだ食事中の希海に言った。


「お前さ、なんでいちいち俺に構う? その態度、お前なりの正義感だとしても世話を焼き過ぎだ。人殺しが嫌なら、俺なんか無視して過ごせば良い。ここに居ないみたいにな」


 希海は食べ物を呑み込み、少し考えてから言った。 

 

「君は電車で座っててさ、正面に杖ついたおじいさんが立ってたらどうする?」

「特に何も」

「最悪…………普通はね、席を譲らないといけないでしょ? おじいさんが可哀想だと思って、ね。でも私は違う。もし無視すれば私は優しくない人になるし、なんとなく気分が悪いまま一日を過ごす事になるから譲るの。相手の事はあんまり考えてない。全部自分が気持ちよく過ごすため」


 希海は六の目を真っすぐ見つめて続けた。


「でも人間ってそんなもんだと思わない? 君と色んな事するのはね、全部私の為なの。ここに来て君が可哀想だと勝手に思ったから、見て見ぬふりするのは私には無理」


 そう言って希海は、六の鼻先をつんとつついた。普段は警戒の網から何者も通さない六はいとも容易く虚を突かれ、すぐさま希海の手の甲を叩いて言った。


「おい! なに触ってんだ、殴るぞ」

「んははっ! ほらね、君って自分が思ってるよりも面白いから。美味しい物食べて泣いちゃうとかさあ。十八なのに何も知らなくて、反応が赤ちゃんみたい」

「自分勝手な優しさはいつか相手を滅ぼす」

「迷惑してる?」

「ああ。少しでも早く空き部屋ができるのを願ってるよ」

「えー……」 


 人生でついた一番の嘘だと、六は思った。

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