第三十九話 南スーダンからの天使

 指定された病室の前で希海は、二人と言葉を交わさず立ち尽くしていた。時刻は九時三十二分。約束の時間はとうに過ぎている。


 三〇二と書かれた表札の下には、「小野寺 雄一」の名前。


 その部屋は、二人の禁忌タブーだった。猟犬襲撃の日から未だに昏睡状態の小野寺は、担当医から意識の回復は絶望的と宣告された。

 二人の間に深く空いた、「命」の溝。底を覗けば壊れるであろう六との関係を、溝を無理矢理隠して見ないふりをすることで保っていた。フランは自分達に何を見せるのだろうか? 会わせたい人とは、果たして小野寺なのか? 


「局長が中で待ってます。そろそろ入りましょうか」


 あの場を目撃した天音も二人の問題を無言の内に知っていた。思慮深い天音は、だからこそ自分が入室を促すべきだと感じたのだろうと希海は思った。


「……うん」




 部屋にはスーツの職員や医師、看護師合わせて数名、フラン、そして眼鏡を掛けた禿頭の男が包帯にまみれた小野寺の眠るベッドの前に座っていた。彼らに会釈をした二人に、フランが男を紹介した。


「桐谷さんだ。普段はアフリカの南スーダンで医師をされてる方で、君達と同じパンドラだよ。この人なら小野寺さんを治してくれるかもしれない」

「ほんとですか! 凄腕のお医者さんとか!?」


 希海は隣の部屋に聞こえる声で叫んだ。良い報せがここまで最高だなんて、数十秒前まで廊下で逡巡していた自分の背中を思い切り叩いてやりたいくらいだった。


「いや、この方を呼び戻すのは不可能でしょう。現代の医療ならね」


 桐谷が言った。四、五十代に見える彼は、ウエリントンフレームの黒縁眼鏡のせいか、はたまた豊かな首の脂肪のせいか中年特有の温和さを三人に感じさせた。さっきまで外に居たのか、空調で適温に設定されている病室内でもハンカチで忙しく汗を拭っているが、その話し声は落ち着いている。


「私の厄災は『斥冥力の移動』。一人の斥冥力をもう一人に移す事ができるんです。この方は今、生成された僅かな斥冥力を使い体を回復させているのでしょう。ですが生命活動の維持がやっとで、意識の回復にまでそれを回せていない。そこで私の能力を使い、フランツェスカ局長から小野寺さんに十分な斥冥力を移そうと思います」

「やった、本当に良かった……! 私が冥対ここに来たばっかりで不安な時に、小野寺さんに何度も優しい言葉をかけて貰ったんです。そのお礼がまだできて無かったから……」


 お礼だけではない。希海は後ろめたさで一度も見舞いに行かなかった事の謝罪もしなければならなかった。希海は後から彼の復活を知っただけである。あの時彼を見捨てなかった自分が正しいと結論付けることはできない。しかし、希海は罪悪感や正義感で目の前に紡がれた命に感動できないような、倫理観の檻で縮こまる囚人では無かった。

 希海は涙ぐむ天音を思いきり抱きしめた。六は安堵なのか、深い溜息をついて言った。


「でもそんな厄災があるなら、何でもっと早く俺達に知らせなかったんですか」

「実は私、自分の厄災に気づいたのは二カ月前なんですよ。冥対の調査を済ませ、フランツェスカ局長に報告させて頂いたのはその後です。何しろあっちには冥対支部なんてありませんから、仕事の調整も合わせて大分時間がかかってしまった」

「そうなんですか……不躾な質問でした。すみません」

「いえ、良いんですよ。あなた方が小野寺さんをどれだけ気にかけていたかよく分かりました」


 桐谷の職場である南スーダンが近年の激しい内戦と厳しい経済状況で有名なのは、六も当然知っていた。現地の医療活動の過酷さは想像に容易く、スタッフは不在になる桐谷の仕事の埋め合わせにすら苦心しただろう。事の背景と桐谷の優しさに、六は舞い上がった結果思慮の足らぬ言葉を吐いた自分を恥じた。


「彼の厄災は性質上、私達みたいな操力者コントローラーにしか効果が無いんだ。他の人は斥冥力をもらっても、それを回復に使えないからね。でも小野寺さんなら問題無い」


 特異課の者達のように、自身の冥力、斥冥力を操り身体能力を強化できる人間は人類のごく一部だった。彼らは「操力者コントローラー」と呼ばれ、人々に羨望の眼差しを向けられる事が多いが、パンドラのように暴力の源と見なされる事もある。


 フランは職員達を指さして続ける。


「まだ本人にも能力が分かったばかりだし、一応うちの職員も同席して記録を取ってもらうことにした。さあ桐谷さん、始めましょうか。私は何をすれば?」

「そうですね。ではフランツェスカ局長、私とハグしましょう」

「…………はい?」


 予想だにしなかった桐谷の言葉に、その場の全員が目を丸くした。桐谷は大胆かつ致命的な説明不足に気づき、間髪入れずに補足した。


「大変失礼しました、これは私の能力の発動条件なんです。一方の人間と十分に密着しながら、もう一方の人間を視界に入れる。移動先か移動元かは問わないので密着するのが小野寺さんでも良いんですが、彼の体をわざわざ起こすのはと思って……本当に申し訳ない。他にも発動の可能性を探ってみたんですが、これしかないんです」

「え、キモ……」


 思わず希海の心の声が漏れ、六に睨まれた。確かに不躾さで言えばさっきの六の発言どころではない。


 フランは仕方なく受け入れ、一瞬躊躇してから桐谷と抱き合った。中年男性の肥えた肉のついた背中越しに、フランは苦虫を嚙み潰したような表情を希海達に投げかけてくる。これが唯一の手続きで、さらに抱きついている中年が人の良い医者なのだから文句の言いようが無い。助けを求めるようなフランの視線は、全員に目を逸らされ壁際のデジタル時計に落ち着いた。小さなスクリーン上でゆっくりと切り替わる数字を、彼女がこれほど憎んだ事は無かっただろう。

 傍から見れば只のセクシャルハラスメントである復活の儀は、音を必要としなかった。小野寺の回復の可視的な証拠がある訳でもなく、静寂と共に時が流れるのみである。横では職員達が真面目な顔で、抱き合う二人の写真を撮ったりノートパソコンに何やら記録したりしていた。


「凄く便利な能力なんでしょうけど、これ物凄い絵面ですよ。本当に能力を使ってるんですかね? 嘘ついてセクハラしてるだけじゃ……」


 天音が神妙な顔で希海に耳打ちした。


「……六、君が代わりになってあげなよ」

「ふざけてんのか。俺とあの人の斥冥力量なんて比べ物にならないんだから、人に渡せるか分からん。それに俺だっておっさんと抱き合うのは御免だ」




「……よし、これで十分だ」


 三人が小さな声で話す内に、中年の天使はフランを解放し小野寺を確認した。


 暫くして小野寺はついに目を開けた。


「う……あ…………」


 体を起こした小野寺は酸素マスク越しに小さな声で何か発し、病室の人々を徐に見回した。


「ああ……! おかえりなさい、小野寺さん!!」


 希海は小野寺の肩を掴もうとしたが、看護師に制せられた。すぐに医師達が彼に飛びついて体調を確認し、大部分に広がる火傷痕の異様な回復具合に絶句した。


「羽宮さん…………か……? 私は……どうやって……?」


 意識を取り戻した小野寺に、狭い病室が歓喜の声で満たされた。


「こちらの桐谷さんが、厄災で治してくれたんですよ!」


 そう説明する天音の声も、希海につられて大きくなる。


「意識が戻ったばかりで、まだすらすらと話せないみたいですね。何しろ無理矢理斥冥力を流し込んだので、こういう事は良くあるんです。火傷の痕と一緒で、すぐに元に戻りますよ」


 桐谷がハンカチで汗を拭きながら言った。ゆっくりとした調子で何度も桐谷に感謝を述べ、小野寺は長い時間をかけて少しずつ、確かめるように言葉を紡いだ。


「これで理絵に会える……! 娘の為に死にたいだなんて、私は本当に馬鹿だった」


 六は小野寺に深々と頭を下げてこう言った。


「小野寺さんが瀕死の時、俺はあなたを殺そうとしました。昏睡状態のまま生きているより、死んだ方が幸せだと思ってしまった……浅はかな判断だったと思います。すみませんでした」

「良いんだ、そうして欲しいと言ったのは私なんだから。夢を見てたんだ……娘の夢。理絵は病気で意識が無いはずなのに、遠くで私に言うんだよ。『パパはまだこっちに来ないで』って。こんな体になったからには娘に迷惑かけないようにと思っていたが、それを聞いて生きる事を決めたんだ。今死んでも、あの子は幸せになんかならないと分かった。歩く事も話す事もできなくなっても、自分の体に莫大な治療費が必要になっても、私は理絵の為に生きないといけない。理絵には私が必要なんだ。そして私にも、理絵が」


 やがて職員の連絡で医師や看護師が更に部屋に飛び込んできて、小野寺の状況を大急ぎで確認し始めた。フランは「私達は邪魔になるから」と希海達に退室を促した。全員が桐谷へ感謝を述べて出て行った後、小野寺はフランに言った。


「私は冥対を辞めようと思います。確かにここの給料は娘の治療費にとって好条件ですが、ずっと理絵の隣に居られるように、安全な職で地道に頑張りたい。退院したら辞表を提出させていただきますから、詳しいお話はその時に」


 思慮深い小野寺が辞職の話に少しも遠慮が無いのは、決意の表れだとフランは読み取った。


「そうか、分かった。我々が理絵ちゃんの治療費を……と言いたいところだが、それはできないからね。今まで特異課うちの子達の面倒を見てくれてありがとう。変なのしかいないここで、あなたは一番立派な大人だったよ」

「『変』っていうのは局長も含めて、ですよね?」


 小野寺は笑った。包帯と酸素マスクに殆どが隠れたその顔には、しかし晴れやかな朝の光が射していた。


「あはは、否定のしようが無いな! あなたは優秀だから、どこでも上手くやっていけるだろう。あなたと理絵ちゃんの道に、祝福がありますように」

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