第三十話 白翼

 希海の背丈の三倍以上もある鉄のラックに積まれているのは、接地面との間にポリトラーが敷かれた白や黄土色の箱。隅の方では小さなフォークリフトが、自分を運転してくれる主を待って慎まし気に収まっている。

 その生き物は、こんな現代的で工業的な空間とは遠い、無縁の所に存在しているようだった。希海には物語の世界から騎士が現実に現れたというより、騎士の立つ半径一メートル未満の領域が現実の世界を切り裂いて無理矢理そこに嵌め込まれた、物語の世界であるように思えた。


 だがその騎士は確かに偽物だ。

 

 希海は母親が生きていた幼い頃、朧気ではあるが何度か読み聞かせをしてもらった記憶がある。動物達の寓話や日本の昔話などの中で希海が一番好きだったのは騎士が敵国に捉えられたお姫様を助けに行く話だった。 

「おひめさま、あなたをここから つれだしにまいりました。しんぱい しないでください。わたしの よろい にはせいぎのひかり が やどっています」

 文字が読めるようになった後も、本を引っ張り出してきて何度もその部分を読んだ。おもちゃ箱にしまったおもちゃをもう一度床に広げ、一つひとつをうっとりと眺めるように。

 まだ物心のついたばかりの希海は友達の男子を叩いたりしていたのに、姫にそう告げる物語の騎士に恋をしていたのである。

 しかし目の前の騎士は、そのような光を放ってはいなかった。シャッターを閉めた事で唯一の灯りとなった月光をその身に反射させているだけ。

 騎士の鎧に宿っていたのは、正義ではなく大義の光だったのである。


「お前の言う通り、これは甲殻に近い。厳密に言えば、斥冥力が体外に具現化したものだ」

 ヴェロニカがそう言うと、体の大部分を隠していたマントが消える。その下から白い翼が姿を現した。

 肩から生えたそれらは毛先が地面に触れてしまう程大きく、マントから解放され自由を持て余しているのかひらひらと筋肉を蠢かせる。

 

「少し醜くなったな」

「ふふ、否定は出来ないな。だがこの翼だけは美しいだろう? 白い輝きが返り血で穢れてしまうことだけが残念だ」

 ヴェロニカが翼を広げる。そこには降り積もった雪のような羽根が、一点の瑕疵も無く規則正しく並んでいる。

 羽を広げるのは動物にとっての威嚇────本能がそう教えたからなのかも知れない。六の反射神経は瞬時にそれを攻撃の予備動作と見做した。


 翼の内側の羽根一枚一枚が機関銃のような勢いで射出され、六に襲い掛かる。一枚抜けるとすぐさま新しい一枚が生え、機関銃の銃弾はそうやって装填されていく。

 咄嗟に結晶壁を展開し身を守ろうとするが、鋭い羽根の雨は壁にひびを入れる。六の足元には夥しい数の落ちた羽毛が白い雪景色を作った。


 ────駄目だ、壁は数秒しか持たない!


 その亀裂が着々と広がるのを見て、六はすぐに防壁の限界を感じ取った。 

 結晶ですら耐えられないのだ、人体に浴びればどうなるかなど想像に容易い。


 その場から離脱し、荷物が積まれたラックの合間へ駆け込む。集積スペースの通路はフォークリフト二台が行き来できる程度の狭さでラックは幾層もの壁として機能し、理不尽に降り注ぐ飛び道具から身を隠すのに最適と思えた。


 羽毛が荷物に突き刺さる太鼓を連打したような音を聞きながら、反撃の手筈を探る。


 資材や荷物が丁度遮蔽物になっているが、長居は不可能。狭いということはここで戦闘になればこちらも身動きが取れなくなってしまうし、何より逃げる前の場所には希海が居る。うだうだと長考し、気づけば希海が連れ去られた後だった、となっては笑う事も出来ない。


 そもそもあんな激しい攻撃を長く続けていて、冥力が持つのだろうか?

 数日前の襲撃では、ヴェロニカは戦闘に武器を使用していた。彼女の厄災は斧やライフルより強力であることは明白なことから、それでも武装していたのは冥力を温存する事と残量が僅かになった時の保険だと考えられる。厄災を使わずとも制圧できる相手への冥力の浪費は戦闘経験に富む者のすることではない。実際、自らが暗器と銃を携行しているのも同じ理由だ。


「宵河六、お前は何の為に冥対に居る?」

 コツ、コツとブーツの音が何かを数えるように、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。返答から六の位置を割り出す為の問いだろうか、それとも単に、殺戮の前の対話を名残惜しんでいるのだろうか。


 いずれにせよ、答える訳にはいかなかった。答えられなかった。希海が家に上がる前に、数々の自責と共にその疑問は何度も夜を襲った。


「危険な職務だろう。命が惜しいのなら務まらない。機動局員……とりわけ特異課として生きている間、お前の背後の陰には死が住んでいる。それでもそこに身を置く理由は何だ?」

 世の中に理由があって今の己の場所に立つ人間など、どれくらい存在するというのだ。激烈な喪失を経た六でも二年前、フランの勧誘を断って違う生き方に飛び込む事が出来たかもしれない。しかしヴェロニカの言葉を借りるなら、あの時六は時間に関わろうとはしなかった。運命を変える事より、終わらせる事を選ぼうとした。ただ、はっきりと脳に焼き付いた母の最期の言葉────「生きて」だけが何故か六を引き止め続け、ずるずるとこんな生き方を強いている。

 ────もしかするとその一言は、俺の存在意義全ての根源かも知れない。

 今までそう信じてきた。あの言葉さえ忘れられれば、どんなに清々しい気持ちで母の元へ飛んでいけるだろうと、何度も夢見てきた。


 無駄な思考が、状況への対処の邪魔をする。

 警戒の糸が切れたその一瞬、遮蔽となったラックの向こうで姿が見えない筈のヴェロニカの翼が、まともに捉えきれない速度で鼻先の距離を通過した。

 六は何が起きたか見当がつかないながらも、紙一重の反射で躱す。

 

 瞬時に態勢を整えた六が見た光景は、帰冥体がもたらす破壊力を容易に印象付けた。

 迷宮を形成していた高い積み荷の壁に長い横一本の亀裂が入ったかと思うと、そこから全ての壁の上下がずれ、切断されてしまったのだ。


 切り落とされた積み荷とラックの骨組みが、五メートルもの高さから一斉に襲い掛かる。六は結晶で上半身を覆いながらなんとか集積スペースから脱出したが、数百キロの積み荷が頭上に降り注ぎ、重い衝撃が脳と骨を揺らす。

 目の前にはヴェロニカが立っていた。六は未知の変身体相手に狭い通路如きに逃げられると思っていた自分の思考の浅はかさを呪った。最初から彼女の前に戻るよう、追い込まれていたのだ。

 

「畜生ォォォッ!」

 ここでやらなければやられる。六は結晶の刃を騎士に振るった。


 ────まずは厄介な翼を切り落としてやる!


 しかし数回の斬撃は全て剣に弾かれ、それどころか最後の刃を素手で掴まれる。

「おっと、足元に気をつけろ」

 そこには、ついさっき六に向けて連射された羽根。何百と落ちているそれら全てが再び地面から動き出し、六の体に突き刺さる。

「残念。簡単な動きだけなら、この羽根は一枚一枚制御できるんだよ」

 全身に無数の羽根が突き刺さった六は、声も上げずドシャリとその場に倒れる。


「六!!!!!」

 希海は自分を呪った。ふつふつと湧き上がってくるのは、壮絶な無力感。


 同じパンドラとして、なぜ自分に戦闘能力が無いのか。危険な厄災だと散々言われたのにその正体すら分からず、二人の間に入りたい衝動を噛み殺しながら全身から血を流す六を前に声を枯らす事しかできない。もし後先考えず六の元へ駆け寄れたら、どんなに嬉しかったろう。ただそれが救いようのない自己満足だということは、世界の残酷さと向き合ってとうに知っていた。


「起爆すると周囲に飛び散る鉄球が踏んだ人間を殺傷する、クレイモア地雷という兵器がある。イメージとしてはそれに近い────威力はこちらの方が断然高いだろうがな。で、実際に喰らった感想は?」

 地面に体を投げ出し、身動き一つしない六に構わずヴェロニカは続ける。

「あっけなく終わったな。結局お前に資格は無かった…………私一人で向こうへ行くのは心細いよ」

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