第二十話 新旧

 伊田が地面に落ちた丸眼鏡を拾いあげ、その黄色いスポーツブランドのパーカーの袖でレンズを丹念に拭いた後、再びかけた。

 前方には侭が立っている。

「誰か知んないけど、邪魔するなよ。楽しかったのにさ」

「これからもっと楽しい事になるぞ? まあ楽しむのは俺だけだろうがな」

 侭は左手首に巻いた腕時計式のストップウォッチをいじり始めた。伊田がその様子を少し不思議そうに眺める。

「これか? お前をブチ殺すまでの時間を計ってんだよ。タイムアタックだ」

「君はそういうのが趣味なの?」

「俺はどのパンドラより強い事を証明するために特異課に入りてえ。一度は断られた。非パンドラの俺はパンドラに勝てないってな。信じられるか? この俺がだぞ?」

「僕が君の事を知ってる前提で話さないでくれるかな?」

 侭は伊田のそんな言葉を無視して話し続ける。

「そこでだ! お前を瞬殺して、死体とのツーショットを局長に送りつければ局長の気が変わるんじゃないかと思いついたのさ」


 伊田は狂気の度合いでイゾルデ・ヴェロニカと並ぶ人間を初めて見つけた。伊田は十歳の頃から猟犬の二人と生活を共にし、その凶暴な性格には大分慣れたが、それでも他の人間と交わる場面だとやはり彼女達の振る舞いは異常としか感じられない。日常的に人を殺し、人間の死に対する感情は無くなった。しかし世の中には、常識を備えた人間が考えもしないことを思いつく狂人が居ることを伊田は知っていた。


「そんなわけで、悪いが俺の就活に付き合ってくれ」

「君は僕より年上っぽいけど、精神年齢は小さい子供みたいだな……自分の馬鹿さを後悔する前に感電死させてやるよ」


 侭がストップウォッチを押した。と同時に、伊田は右腕を伸ばして開いた掌を侭に見せた。掌の中にはパチンコ玉のような小さい金属の玉が宙に浮かんでいる。

 瞬く間に、バチバチと電気の鞭打つ音と共に伊田の右腕は帯電し、侭に玉が放たれた。雷のような電気を纏った玉は侭の背後の車道に乗り捨てられた車ごと襲い、辺り一帯には凄まじい音が弾けた。着弾した場所には煙が立ち込めている。


 しかしそこに侭は居なかった。


「…………どこだ? この攻撃を避けられた人間はいまま────」

 そう言い切る前に、伊田の視界を侭の膝が覆った。

 玉を避けた侭は、その玉を超える速度で伊田との距離を詰め、そのままの勢いで伊田の顔面に膝蹴りをヒットさせたのだった。

 ────速い! 「射撃」なら易々と避けられる……!

 伊田は数十メートル吹き飛ばされ、建物の壁がしなる体を激烈な衝撃を以て受け止めた。

 クリーンヒットは何とか避ける事が出来た。しかし蹴りの威力は凄まじく、丸眼鏡は両方のレンズにひびが入り、鼻血が止まる気配が無い。

 よろめきながら立ち上がる伊田に、すかさず侭が追い打ちをかける。伊田は侭の放った拳を間一髪で躱し、先程の追跡と同じ要領で電気を足に纏い、脱出して距離を取った。


 防戦一方の伊田は、侭の動きが目で追いきれなかった。速さが乗る前の初動は辛うじて見えるので、何とか動作を予測することはできる。電気加速を使えば回避くらいは可能だが、純粋なスピードでは完全に敗北していた。少しでも予測を間違えば致命傷……そう考える刹那、今度は侭が脇腹への左フックをフェイントし、そこを腕で守った伊田の側頭部に後ろ回し蹴りが飛んだ。

 伊田の体は大きく吹き飛んだ。大量の吐血により、白のスニーカーの爪先は真紅に染まる。


 さっきの話を聞いたところ、こいつは厄災を持っていない。攻撃の手数ではこちらが有利だが、それを埋め得るフィジカルがある。ならば接近されて肉弾戦になる前に、存分に冥力を使い勝負をつける────

 

 伊田が足に纏った電気を、全身に走らせた。コンロに着火した直後に火が一気に勢いを強めて揺らめくように、放電は俄かに激しさを増した。パーマの毛先は毛羽立ち、ひびの入った丸眼鏡のレンズは一枚のガラスとして形を繋ぎとめる事ができず、粉々に砕ける。伊田は黒縁だけになった眼鏡を傍に放り投げた。

 すると、伊田を中心として半径二十メートルもの範囲が轟音と共に、電撃に満たされる──


 伊田の思想は、侭のそれとは相容れぬものだった。

 いや、「伊田の」というより「猟犬の」と言う方が適切だろう。一般的なパンドラより強力な厄災(特異課の職員もだが)を持って生まれた彼らが、1960年以前の劣った「旧人類」は世界の舵を「新人類」たるパンドラに渡すべきだという考えにたどり着いたのは、ある意味必然だったのかも知れない。

 猟犬がであることにも彼らなりの意味があった。幼い頃から苦楽を共にした彼らが今更仲間を募る事はイゾルデの考えに無かったし、ヴェロニカと伊田も彼女にそんな野暮な提案をすることは一度として無かった。自分達が革命の火蓋を切れば、体制に不満を抱く何人ものパンドラ達は次々と蜂起するだろう……そう、彼らが何より欲したのは、八十億人の無能な人間が、たった三人の厄災を持った人間によって支配者から被支配者に立場を逆転させるという事実、そしてパンドラ達が冥界のとの闘いを終わらせるという事実だった。

 

 上位者へ対抗する力に選ばれなかったお前が、僕に勝てると思うなよ…………!

 

 伊田と侭を囲むビルと自動車の窓ガラス、バイクのヘッドライト、そして信号機の赤青黄のライト……全てのガラスが一斉に割れ、砕ける。

 

 侭がその放電をさせまいと瞬時に伊田の懐に飛び込んだが、もう遅すぎた。

 

 ビル街の一角を巻き込むいかずちの嵐は、襲撃の情報に対処する冥対本部・第一作戦司令室の職員達にすら、窓のブラインドを通してその光景を知らしめた。




 全てが焼け焦げた廃墟が、炎天の下に姿を見せる。自分以外の生物の気配は無い。

 両足が震え、今にも崩れ落ちそうに前屈みで呼吸を荒げる伊田は、煙に包まれながらけたたましい笑い声を上げた。

「ハハハハハ! 勝ったぞ! 筋力も身体能力も負けていた僕が! 厄災の力で! 所詮お前等旧人類はしょぼい冥力や子供騙しみたいな武器でしかパンドラに抵抗できない!」

「これが! お前等に虐げられている僕らの! 力だ!」


 少しして、伊田は普段の、自分の外の世界には全く興味の無いというような冷静さを取り戻した。

 冥力をほぼ全て失った…………二本足で立っている今の状態すら信じられないくらいだ。二人に連絡しなければ。しばらく戦線には復帰できないから、ホテルに戻って……いや、今朝襲撃を開始する前にホテルは捨てて適当な廃墟に拠点を移したんだった。そこでシャワーを浴びて……廃墟にそんな物無いか。じゃあセントウって所に行って────

「おい、お前が神サマから貰った力はそんな粗末なモンなのか?」


 伊田のぼやける視界に映った、そこに立っている筈の無い人間が言う。

 脳がその光景を拒んでいる──嫌だ、認めたくない。


 だって、殺した筈のあいつが「体に傷一つつけず」そこに居るのだから。


 シャツは完全に破け、隆々とした筋肉に包まれた上半身が露わになっている。黒のロングパンツには穴や傷が散見される。

 しかし、煙の立ち昇るその皮膚は完璧な状態で日光を浴びている。まるで丹念にならされた砂地のような、伊田より一回り大きい肉体。厄災の力を超越した「旧人類」が、そこには在った。


「有り得ないだろ…………ただの人間のお前等が! パンドラを超えるなんて!」

 侭は口角を不気味なほど上げ、伊田に向かって叫んだ。

「さっきまでのスカした態度からよっぽど雑魚らしくなったじゃねえかよ! お前『等』だって? 主語がデカすぎるぜ! パンドラを超えるのは俺だけだ! 俺だからだ! 死ぬ気で来い!」


 人間は体内の冥力と斥冥力をどちらかでも使い切ると、時間をかけて量が回復するまで昏睡し、適切な処置がされないまま放置されると最悪死に至る。伊田は最後の冥力を振り絞った。

 伊田は右足に雷を走らせた。残存冥力はもう殆ど無いので、侭に蹴りを入れる其処に全てを集中させる。

 ────僕の為だけじゃない、この残酷な世界で一緒に苦しみ抜いてきたイズとヴェロの為にもこいつを殺す! 刺し違えてでも!




 叫ぶ二人が音速を超えた速度で交わる。

 伊田が最期に見たのは、青白く帯電した前膝を躱した侭の、自身の顔を包む掌だった。

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