祭りのあと

雨宮吾子

祭りのあと

「目が覚めた?」

 静けさの中で母が問いかけた。問いかけられたやすしは、未だ夢の世界の喧騒から抜け出せずにいる。

「そろそろ起きましょう。そうでないと今日の花火大会は無しよ」

 そう言われて、恭は昨晩に母と交わした約束を思い出した。恭少年にとっての花火大会がそうであるように、人生は未知の出来事との邂逅で満ち溢れている。一夜城のようにして不意に現れた花火大会が、それ以前から沢山の人の手によって計画されたものであるということは恭にはとても信じられないことであり、それだけに花火大会という言葉が神秘的に聞こえてくるものだった。

 この春崎はるさきという避暑地にしてもそうである。まるで両親の思いつきによって創作されたかのような地名も、恭の考えるよりもずっと以前から人口に膾炙している。と言ってもその名が広く知られるようになったのは近代以降のことであるから、捉え方によっては歴史が浅いといえるかもしれない。いずれにしても、近代に入って内地へと居留するようになったある欧米の商人がこの地を発見したときの興奮を、恭は時間を越えて共有している。

「さあ、朝ごはんが待っているわよ」

 仕事の都合で父が帰京すると、母はそれ以前よりも饒舌になったようだった。その辺りの機微が少しずつ分かるようになってきた恭は、この地の歴史について母に問いかけたりした。百年近く経った今でさえお世辞にも交通の便が良いとは言い難いこの地を開拓した人物について、母も詳細を知らなかったので記録を辿るしかないのだが、その人物のおかげでこの春崎は歴史上に登場し、こうして湖畔のホテルで朝食をとる二人の生活へと繋がっているのである。

「じゃあ、百年前はここには何もなかったんだね」

「おそらくね。お母さんもその時代のことはよく知らないけれど」

 母はよく物を知っていた。その母が知らないのだから百年という時間は想像以上に長いのだと、恭は素直に感じた。

「お父さんも知らないのかな」

「お父さんは私より一回り上だけど、それでもさすがに知らないわよ。あなたの曽祖父さんの時代の話よ」

 恭は父であるゆたかの顔を思い返す。不惑を越えてもなお衰えることのない輝きに満ちた顔を。目の前にいる母は、それに比べてどこか疲れた顔をしている。後々になって、恭はそれが学のある人に特有の顔つきであったと感じることになる。旧貴族院議員を縁者に持つ母は、敗戦のために相応の苦労をしたが、当時としては高い水準の教育を受けてもいた。それもまた、恭の生まれるずっと前の話である。そんな母を、恭は好いていた。


 昨晩の二人の話題に上った花火大会というのは、地元の住民たちによって数年前から始まったものである。ある女性は観光地としてせっかく開けたものが利便性の悪さのために客足が遠のき始めて人を呼び込むために始めたのだと言い、ある男性は地元の人間のために始めたもので決して観光客のためではなくむしろ彼らを追い払ってしまいたいのだと言った。母の見たところ、人を呼び込むかどうかというところで地元住民の意見はまとまっていないようだったが、しかし時代の流れは押し留め難いもののように思われる。貿易商をしている夫の働きぶりを見ていると、これからはどんどん外国からの物が入ってくるし、それに伴って人も流入してくるだろう。彼らが定着するかどうかは別として、避暑地であるとか観光地であるとか、そうした看板を下ろさない限りは観光に訪れる外国人の増えていくことは予想できた。また、戦争によって焼き払われた国土が復興してくるにつれて、つまり経済が立て直されていくにつれて、人々はそれ以前を上回る水準の生活ができるようになってきている。それもやがて飽和したなら、今度は生活の外に目が向くようになる。観光というものが一種の流行となるのもそう遠くはないだろう。

 母は専門的な知識を持たないがために自分なりの言葉でそう解釈した。この考えを披瀝する相手はなかったけれども、もしその説を聞いたなら人はこの女性に感心したことだろう。ただ、世間ではこの人物を女性と見るよりも、母であるとか夫人であるとか、まずはそうした属性を見る者ばかりである。だから、元より彼女の意見を聞こうとする者はない。世は男児を中心にして回っている。そういう時代であった。そのためか、この人には受け身で物を言う癖がついた。女が賢しらぶっていると目の敵にされるのは困るし、半ば有り難いことに夫人であるから、異性の気を引く必要もなかった。結局、彼女は世間が見る以上に母であり、夫人なのであった。

 恭はそんな女性に護られながらこの年の春に満五歳を迎えた。世で革命が起ころうとも反動が起ころうとも、自主的な関わりを持てるはずのない年頃である。しかし、蝶の羽ばたきが思わぬ運動を世界に生み出すのと同じように、思いがけない形でまつりごとは恭の元へと影響をもたらすのだった。


 その青年の名は、まつりといった。名を聞けば女性と間違う者もいるが、まつりは成人を迎えたばかりの男性である。まつりはこの春崎という地に生まれ育ち、地元の高校を出た後は定職に就くこともなく、その日暮らしのような生活をしている。大学に進むと言う選択肢は当人の中では最初からなく、それは彼の学力の問題というよりも気質や環境によるものだった。彼が出た高校はどこか封建的な臭いの残る保守的な学園で、軍事教練さながらの体育祭などが好評となるくらいだった。仮に間違っていたとしても上に立つ者の言うことは絶対であり、それを拒めば鉄拳による制裁も珍しくはない。そうした時代といえば時代ではあるが、彼はその生活に馴染むことができず、大学という場を単なる現在の学校の延長線上に捉えていたがために進学の意欲を持たなかった。親族に工場を経営している者があって、卒業後はそこで数ヶ月間働いてみせたものの、しかし彼には最初から真っ当な生活への意欲がなく、一年も経たずにそこを辞めてしまった。

 彼は世の習わしを厭いながらも秩序を乱すほどの力を持たず、己を嫌いながらもそれを壊すだけの意欲を持たない。父母に小遣いを貰うことを恥と考えながらも家を出ていくだけの経済力もなく、両親もそれを求めずに彼を半ば飼い殺しのようにして扱っている。

 不幸といえば不幸といえるだろう。彼が犯罪に走ることなく、また自らの死を求めることがなかったのは、いつか何者かによって自分自身が救われるのではないかという予感があったためだ。彼は信仰を持たず、周囲にもそうした者はないから、その予感がいつからどのようにして芽生えたものか、彼自身にも分からなかった。しかし現在のところ、その予感が現実のものとなる兆しはまるでないのだった。


 この日、まつりは湖畔を歩きながら水面の乱反射する様を眺めていた。特に何をするでもないときには自然が戯れる相手となる。人の二面性や暴力性を知るまつりは、自然の中を逍遥しながら何でもないようなことを考えるのを好んでいた。今日は珍しくまとまった考えの種になるようなことがある。花火大会である。

 まつりはしばらく花火のことを考えていた。考えてみるに面白いのは、花火というものの二面性であった。職人たちの手によって作られた一種の工芸品とも言い得る花火は、なるほど文明的な装いをしている。しかしまつりにしてみれば、あの爆発を仰ぐ観衆の陶酔的な瞳には、非文明的な、言い換えれば野蛮な色が浮かんでいるのだ。ある夏に他ならぬ両親の瞳にその色を認めたとき、まつりは世間から隔絶された気分に陥ったのをよく覚えている。

 まつりは堂々巡りのようにして人間の二面性に、また暴力性に辿り着いた。だからせめて自分だけは人として清らかにありたいと願っていた。

 そんな文明人たるまつりが向こうからやって来る母と子の姿を認めたとき、そこに抱いたのはおよそ文明的な感想ではなかった。母の着物や子の洋装を眺めていると、遠くからでもその仕立ての良さが分かる。

 何だ、こんな田舎まで来て着飾りやがって、何をしにやって来たんだか。

 そんな見知らぬ親子への理由のない敵意が働いたのか、眺めていると、木の根に躓いた男の子が前のめりに転んだ。次の瞬間、まつりは頭の中の喧しい観念を捨てて走り出していた。

 突然現れた青年に驚く母親をよそにして、まつりは男の子の怪我の具合を確かめる。幸いにも深い傷ではなく、擦りむいた程度のものだった。

「傷はどうですか……?」

「大したことはない。ただ、念のために帰ったら消毒をしてあげるべきですね」

 おろおろとして怪我の処置もせず、それを代行した見知らぬ他人に礼も言わぬ母の姿に、まつりは母性なるものを感じなかった。男の子を近くの切り株に座らせてやったとき、まつりは初めてあることに気が付いた。男の子は痛みをよく堪えて泣きもせずにまつりの手つきをじっと見守っていたのだ。

「我慢強い子ですね」

「ありがとうございます」

 そうして初めて母親と視線が交わった。そこに寒空の下での焚き火を前にしたときの温かさ、初春はつはるの頼りない陽気を凌ぐときの毛布の柔らかさのようなものを感じたとき、まつりは理由もなく親子を嘲ったことの愚かさを悟らされた。しかしその優しさの発露たる柔和な視線を向けられているのは、他ならぬ彼女の息子であった。たしかに一瞬は二人の視線が交錯したかもしれないが、彼女はあくまでも礼を言うためにまつりを見たのであって、それが彼以外の誰であっても良かったのだ。

 まつりと彼女は横倒しになっている古木の上に腰掛けた。近くに座る男の子を見守る彼女の視線を盗んで、初めて身近にその横顔を眺めてみると、どうにも初めて出会った相手であるとは思えなくなってきた。高貴な女性――時代錯誤ながら、それがまつりの感じた率直な印象だった――に出会っていたならば記憶に残っているはずだが、しかしどこまで辿ってみてもその覚えはない。いつかどこかで見た婦人画にでも似ているのだろうか。

 ふと、彼女がその瞳をこちらに向けてきた。視線がぶつかるのを慌てて避ける必要はなかったのだが、彼女はそのよそよそしい態度を解す必要を感じてこんなことを問いかけてきた。

「お名前は?」

「まつりです」

「まつりって、あのおまつりの?」

「いえ、政治の政、まつりごとから来ているんです。変わった名前でしょう」

「さあ……。でも、由来は気になるわ」

「父親からはこう聞かされています。お前の名前はまつりごとからきている、だからお前が良く生きればきっと良いまつりごとが行われるはずだ、だからよく生きろってね。その理屈はよく分からないが、まあそういうことなんです」

「失礼だけど、お生まれはいつですか?」

「昭和二十三年です。そういう時代背景もあるんでしょうね」

 先の戦争にまつわる話は軽率だっただろうか。まつりがそう感じたのは、彼女の表情が俄かに厳しくなったためだった。きっと彼女も終戦のごたごたに巻き込まれたのだろう。自分自身と彼女とを同じようにして括ってみると、最初の反感はもう露ほども存在していなかった。

「あの、失礼かもしれないけど、奥さんの名前は?」

「私はあざみといいます」

「花のあざみですね」

「ええ、もう少ししたら時季が来ます。生まれたのがあざみの咲く頃だったから、というふうに由来を聞いています」

「じゃあもうすぐで……」

「誕生日が来ます。もうすぐ三十一歳ともなれば、そんなものを祝う気にもなれませんけれど」

 まつりは、あっと声が出そうになるのをすんでの所で押し止めた。幼い頃によく見ていた夢にはこれと同じ場面が出てきていたのだ。夢の中でも、相手が一回りくらい齢の離れた女性であるとは直感していたのだけれども、その女性に恋心を抱く自分自身の年齢が分からなった。それが二十歳の今であると分かったとき、またそこに恋という概念を見出したとき、どうして声を上げて驚かずにいられるだろうか。

「どうしました?」

 まつりは、あくまでも一線を画しながら顔色を窺ってくるあざみへはまともに視線を向けることができずに、何でもないんです、ちょっと大事なことを思い出しただけだから、とお茶を濁すのが精一杯だった。

「今日の夜、大事な用事があるのを思い出したんです」

「用事? 花火大会のことですか?」

「あっ、そう、そうです。友人に小舟を借りて、湖の上から花火を見上げるつもりでいるんです。こう見えて小舟くらいなら動かせるんですよ」

 嘘だった。たしかにそのような経験をしたこともあるが、それは彼があざみの息子と同じくらいの年頃のことで、小舟を操った経験などありはしなかった。

「私たちも今夜の花火を見るつもりでいるんですよ。それが終わったなら、そろそろ帰ろうっていう話になっていて」

「帰るって……」

「東京で夫が待っているんです。私たちは仕事よりも後回しなんです」

 それは酷いな、とはまつりも口には出さなかった。だが、何故かしら希望の光に射抜かれたような思いがした。思えば、昔から根拠もなく自分自身が救われると思っているあの予感というのは、夢に見た美しい人から与えられたのではなかっただろうか。そしてその美しい人に瓜二つのあざみと束の間でも、たった束の間でも結ばれることができるなら。

「もし良ければ、一緒に花火を見ませんか」

「私たちとですか? ねえ恭、こちらへおいで」

 母に呼ばれた恭少年は、じっと二人の姿を見つめ返すばかりだった。夜に備えて遅めの昼食をとったばかりの恭は、母に午睡を勧められながらも散歩に出たいと言い出したのだった。けれどその先に待っているのが自然の風景ばかりで、生物といえば野鳥や昆虫の類だと思い込んでいたから、そこにこの青年が待ち受けているとは想像もしていなかった。恭は青年が自分自身の何倍も生きているという事実を無視して、また青年に助けられたという事実を都合良く忘れて、彼が何か自分の邪魔をするために現れてきたのではないかと疑った。つまり、この瞬間、この場所において。

 恭の直感通り、世界は転回しつつある。しかしそれは、三人の生きる世界とは隔絶された、遥か彼方での出来事であった。


 恭の傷はまつりの見立て通り大したものではなく、怪我をしたときよりも辛い消毒の痛みを経て、彼は束の間の眠りに就いた。そして、見知った者のない避暑地のホテルの一室で恭は夢を見た。恭はどこかから別の夢が流入してきていると素早く悟った。こことあそこの混じった世界は、不自然なほどに壮麗であった。

 夜空は煌々と輝いている。天体はその運動の度に甲高い音を鳴らすが、それが幾重にも重なって無上の音楽を生み出している。隣の銀河まで見渡せるのではないかというほどの賑やかな空の下でお祭りがあるだなんて、まるで信じることができなかった。お祭りじゃなくて花火大会よ、とその二つを厳粛に区別するのは二十歳前後の女性で、重たそうな黒い着物を平気な様子で着込んでいる。彼女はもちろん母ではないが、しかし母に近い何かであると感じられた。

 洋館を出て電球のぶら下がったのが天の川になったような道を下っていくと、すぐに湖畔の舟着き場にぶつかった。そこで二人は小舟に乗る。あちらにも他の少年と他の女性が乗り込んだ小舟が浮かんでいるが、各々の舟に漕手はいない。不思議に思っていると、漕手のない二艘の舟は厳かに解き放たれ、湖上を滑走し始めた。あちらの舟はごとごとと音を立てて走っていて、少年がその音に聞き入りながら恍惚とした表情で目を閉じている。それと対照的にこちらの舟が静かに推進していくのは、夢の中の出来事だからと悟るが、だからといって認識も行動も大きく変わるわけではない。二艘の舟は並行しながら果てのない闇の中を走り続けていくかのように思われた。夜空はあんなに輝いているのに、どうして地上はこんなに暗いのだろう。

 そんな疑問を抱くのに合わせたように、ぽんと小さな音が鳴った。小ぶりの花が頭上に閃く。あちらの舟の様子が明け透けになり、初めてその少年の相貌を捉えることができた。何者かの面影をそこに見たが、誰の面影なのかを云々するよりも、花火に背を向けていたので顔立ちの分からないあちらの女性の正体に関心を持った。続けて二度、三度とやはり小さな花火が上がる。そうして花火が上がるごとにようやく分かってきたのは、花火を美しく見せるために地上の光量が絞られているのだということだった。ようやく夢の世界から脱却しかけたまさにそのとき、これまでとは比較にならないような大きな音が鳴り、巨大な花火が打ち上げられた。轟音に驚いて体勢を崩し、舟から転落しかけたところへ女性が手を伸ばしてきた。その手が白光して見えたのにはやはり作為的なものを感じたが、同時に美しいと思う心を抑えきれない。しかしその手の表面には何か妙な粘り気があって、今にも肉体が溶けて崩壊してしまいそうな脆さが感じられた。襲ってきたのは、恐怖だった。あちらを見れば、同じように少年が女性に抱き抱えられている。瞬きをしたその隙に少年はあの男、つまりまつりの姿に変貌していた。そして抱きかかえている女性の横顔は母のものに挿げ替えられている。ああ、助けを求めることはできないだろう、これはあの男の願望の世界なのだ。そう判じた次の瞬間、打ち上げ音よりも早く閃光がやって来た。

 光は閉じられた薄いカーテンの向こうから越境してきている。眠っていたところに強い光を浴びたので、恭は軽い頭痛を抱えながら目を覚ました。次々に打ち上げ音が鳴り、次々に花火が閃く。ベッドの上に寝かされていた恭は母の姿を探したが、部屋のどこを探してもその姿はなく、書き置きすらない。花火はどこから上がっているのだろう。その打ち上げられる音のために、また閃く光のために、どれだけ母の名を呼んでもその後ろ姿さえ捉えられないような気がした。大人には奇異に映る妙な心の区切り、つまり潔い諦めのために恭はカーテンを開き、ベッドの上に戻った。彼一人のために設えられた特等席から眺める花火は、夢の中のそれとは違って妙にくぐもって見えるのだった。


 翌朝、再び目を覚ました恭少年の隣に母の寝姿があった。鼻をくすぐる石鹸のにおいが妙な具合に不快な気分をもたらす。ふと、玄関の方で物音がした。打たれたようにして玄関へ向かえば、そこには今日の朝刊が届けられていた。いつも自宅で父にするのと同じように、けれど今朝は躊躇いがちに母の元へと朝刊を運ぶ。恭の動きに目を覚ました母は、いやに優しげな表情を浮かべてこう言った。

「目が覚めた?」

 二人は朝食をとるために一階のレストランへ向かった。歩く度に木造の床が軋むのが未だに恐ろしく感じられるものの、ここへ来た当初は恐ろしかった遥か天井のシーリングファンの動きについては、母の教えによって今では頼もしい味方と映っている。それと対照的に母であるはずの女性に対しては、何らかの心理的距離が生じつつあった。昨晩置き去りにされた不義を詰ることは簡単だったし、恭にはそうするだけの権利があった。それをしなかったのは、何かが壊れてしまうような予感が恭少年の中にはあったからだ。何が恭を慎重にさせたのかは分からないが、素朴な問いを発するだけの余地はあった。

「ねえ、お父さんに何か買って帰らない?」

 ケチャップで味付けされたスパゲティをフォークに絡める指が、ややあって止まった。彼女が何か考え事をしていたのが恭にも読み取れた。

「僕はネクタイなんて良いと思うんだけど」

「……そうね、お菓子にしておきましょうか。ネクタイだとお父さんの好みもあるから」

 蚊に噛まれたのか、赤くなった首筋を擦りながら彼女は言った。

 恭は口に含んだフランスパンを、水を伴いながらようやく飲み込んだ。それでも歯ごたえのある硬いパンを全て食べ終えることは敵わなかった。

 それから二人は三階の部屋に戻り、荷物をまとめる。サイドテーブルに置かれていた朝刊が、ふとした拍子に音を立てて床に落ちた。拾い上げる少年の目には、今朝の一面の様子が映った。ワルシャワ条約機構の軍隊がチェコスロバキアに侵攻したという情報の意味を、幼い彼は未だ理解できずにいる。

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