この歌を、夜の光にのせて

音平デクム

前編

「え?」


 冷たくなってしまった公園のベンチで、隣に腰を掛けている女性の言葉を訊き返す。


「私たちって似てるのかもって。そう、思いません?」

「えっと……そうなのかな?」

「きっとそう」


 年齢は……多分、大学生くらいで、同じくらいだろうか?

 この空気に溶け込んでしまいそうな、白い肌にきれいな髪。


「……」


 そんな彼女の横顔から、目をそらしてしまう。


「……私の気持ちを見つけてくれて、ありがとう」


 俺にはわからなかった。彼女のその言葉の意味が。

 会ってからまだ一時間も経っていない、路上のミュージシャンと、たった一人のお客さん。

 けど、なぜか俺は彼女のことをもっと知りたいと思った。


 ふわりと、静かな風が吹く。

 それはなんだか俺の背中をゆっくりと押してくれているような気がして……


「また聞かせてね。あなたの歌」


 先に進むように、こつんと立ち上がり彼女はそう、言った。


「ぜひ……っ!」


 そして……この日から、柑奈とのお別れのカウントダウンが始まっていくのだった。


***


 ガチャ、と鈍い音を音を立てて、重い扉を開ける。。


「あきら~いたの?」

「ん~」

「ちゃんとご飯食べてる?」

「ん~」

「って、なにこれ! いつのゴミなの⁉」

「ん~」

「ちょっと聞いてんの!」


 一週間ぶりに部屋に来てみると、シンクには何日分もの洗い物とゴミが山のようにたまっていた。


 それを少しずつ片付けていく。


 そして、当の本人はというと、散らかした机の上にノートを広げ、何かにとりつかれたようにボールペンを走らせていた。


「はぁ……」


 出会ってから三か月ちょっと……私たちが付き合うのはめちゃくちゃ早かった。

 時間が合えば食事をするというのを何度か繰り返し、私から告白した。

 あきらは歌手を目指す大学四年生で、私よりもひとつ年上だった。


 けど、彼の歌は決して上手くはなかった。

 中学生のラブレターみたいな詞に、へたくそな歌。

 路上でギターを鳴らしても、歌っても、誰も見向きもしないで通り過ぎて行った。

 けど、そんなあきらが好きだった。……好きなんだけど。


「付き合ってまだ三か月なんだから、もうちょっと大事にしてくれてもいいじゃん」


 これまで付き合った男の子と比べてしまうのはどうかと思うけど、みんなこれくらいの時期はもうちょっと大切にしてくれた気がする。


 そして照れ隠しかなんなのか、あきらは「好き」という言葉もあまり言ってくれない。


 ……だから、ほんとは、彼の心に私はいないのではないかと不安になってしまって、胸がチクチクと痛む。


「……はぁ」


 皿にこびり付いた汚れを落としながら、何度目かわからないため息を吐く。

 ……なんで好きになってしまったのだろうか。

 年上補正みたいなのが、かかっているのかもしれないけど、別に身長が高いわけでも顔が好みってわけでもない。


 じゃあ、あの時運命を感じたから? 歌う姿に惹かれたから?

 ……多分、それもあるけど、私の行き場のなかった気持ちを見つけてくれたから。

 そして、夢を追いかける姿がカッコよかったからだ。


「わかんないよ……あんたのことも、私のことも」


 まぁ、静かに漏らした私の嘆きなんて、あきらには届かないんだけど。


 ***


「って、もう五時まわってるし! 柑奈行ってくる」


「行くって?」


「ライブだよ」


「路上だけど?」


「路上でも、あそこだけがすべてなんだ」


 そう言ってばたばたと立ち上がり、壁に立てかけてあったギターを大事そうに抱え家を飛び出していった。


「……はは」


 あきらのいなくなったこの部屋には、私の行き場のなくした気持ちだけが取り残されていて、自然と笑いがこぼれ出てくる。


「やっぱり、私のことなんて、見てないんだろうな」


 こぼれ出た言葉が心臓をじわりと握ってくる。


 あきらが歌う理由はなんなの……?


 恋人よりも、大事なものなの?


 その狂気じみた思いは、あんたを突き動かしている原動力は、なんなのさ……


 わかんない、わかんないよ……


 けれど、ひとつだけ、はっきりとわかることがある。


「今……あきらをちゃんと見ているのは、私だけなんだから」


 たとえ、あんたが、私だけを見ていなくてもさ。


 自分の発した言葉がずっしりと心にのし掛かり、想いのすれ違いが軋む音になって聞こえてくるような気がした。


 ***


 それからも、あきらの音楽に対する想いは変わらなかった。


 ……いや、それどころか日に日に強くなっていくように感じた。


「柑奈! 新しく作ったあの歌でお客さんが増えたんだ!」

「そうなんだ。おめでとう」

「うん! さんきゅ!」

「……」


 帰宅早々ギターを取り出し眩しい笑顔。本当に音楽が好きなんだな……

 でも、決してあきらは私に冷たいわけじゃなかった。


 先週の私の誕生日には、ネックレスをくれた。

 生活費でほとんど消えていく、なけなしのバイト代を使って買ってくれたのだと思うと、それがどうしようもなく愛おしくて、肌身離さず、身に着けていた。


 けれど、彼の歌を聴くたび、ギターの音色が響くたび、私は夢から覚めてしまう。


 あきらの夢がカタチになっていくのは嬉しいけど、私の気持ちが離れてしまうような気がして怖い。


 そんな恐怖を覆い隠すように、できるだけあきらを求めた。


 あきらをベッドに押し倒し、指を絡め合わせ、唇を重ねる。


 それが独占欲なのか、性欲なのか、それとも別のなにかなのか、そんなものはなんたっていい。

 ただ、その時だけはあきらの体温を感じていたかった。


 疲れ果てて意識が遠のいていっても、できるだけ……できるだけ強く、その手を握る。


 闇に紛れてあきらがどこかへ行ってしまわないように。私の気持ちが壊れてしまわないようにと、強く握った。


 ***


 暗闇の中で何かの音がする。


 何かが徐々に出来上がっていくような。


 何かが私の心から少しずつ遠のいていくような。


 何かが私を現実に引きずり出していくような。


 そんな、心地よく、不快な音が、聞こえてくる。


 重い瞼をこじ開けると、そこにあったのは、間接照明にぼんやりとカタチどられた机に向かう白く細い背中があった。


「……あきら?」


 寝起きでカスれた声が出る。


 けど、あきらは自分にかけられた声なんて聞こえないよと、ペンを走らせ続ける。


 その姿は必死になにかをつかみ取ろうと、何かを生み出そうとしていて。

 ……あきらの心が、今この場所にないように見えて。


「……っ」


 その背中に触れたくて自分にかけられていた布団をどかすと、なにも身に着けていなかったことに気が付いた。


 そっか、あのまま、寝ちゃったんだ。


 ……でも。あの時、私は。

 眠る前の、最後の記憶。それは、あきらの手を固く握りしめたこと……


 そんな私の痛みになんて気付くはずもなく、あきらは床にあったギターを手に取って、優しいるろんという音を静かに響かせた。


「っ」


あぁ。痛い痛い痛い。


 目頭に熱いものが溜まっていくのがわかる。


 いや、でも、最初からわかってたじゃん。だって、あきらは。



「最初から、私のことなんて見てなかったんだ……」



 閉じ込めていた言葉が、カタチになって、こぼれ落ちた。


「……柑奈?」


「はっ……」


 夢を見ていたはずのあきらが、ゆっくりと現実に振り返る。

 いや、なにもないよ、寝言だよって笑わなきゃ。

 邪魔しちゃったね、ごめんねって言って、ゆっくりと目を閉じなきゃ。

 私の好きなあきらの音を聞きながら、変わらない朝を迎えなきゃ。



 そうじゃないと、そうじゃないと……私は。


「……大丈夫?」


「なんであきらは……」


「え?」


 だめ、だよ。


「あきら、は……っ」


 このままじゃ、このままじゃ……っ!


「どうしたんだよ、柑奈、変な夢でもみたのか?」

「っ!」


 頭に触れようとした彼の手をぱしんと、払いのける。


「っ……かん、な?」



「あきらは、私のことなんて見てないんでしょ!」



「え? い、いや! 俺はいつも柑奈だけを見てるよ」


「嘘!」


「噓じゃないって」


「嘘だよ‼ だってあきらは夢しか見てない! 音楽しか、その目には映ってないんだよぉ……っく……うぅ……」


 溢れだしてしまった気持ちが、あきらを傷つける言葉と大粒の涙となって解き放たれる。


「……柑奈」


「私に、触らないで! もう、やめて……」


 ……わかってる。この気持ちがなんなのか。


 けど……


「……ごめん、あきらぁ」


「…………え?」


 やっぱり、もう耐えられないよ……



「……別れよ」



 交わろうとしても交れない、平行線上の気持ちに。


 あきらを好きと思えば思うほど、苦しくなっていく……


 その後のことはよく覚えていない。

 ……けど、ちゃんと覚えているのは、肌身離さず着けていた、あきらに貰った小さな繋がりを彼の部屋に置いていったことだった。

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