第2話 「現在……」

 【現在……】


 結婚式というと皆の心が浮き立ち、笑顔で新郎新婦を祝福するものだろう。しかし、クラリス・ノースウッドは、鏡の前で浮かない顔をしていた。


 親に決められた結婚、それでもあの地獄のような家から抜け出せるのなら、どんな相手でも構わなかった。


 パーティーが終わり、執事のダグラス・フォードに連れてこられた家が、ベレスフォード伯爵の本邸ではなく別邸だったとしても、平穏を手に入れられるならそれでいい。


 数時間前に、婚姻証明書に記名したクラリスの夫となったチェイス・カヴァナーは、パーティーが終わるとクラリスに冷たく言い放った。『私には愛する女性がいる。生活に不自由させるつもりはないから、別邸で大人しくしていろ、彼女が君を見たら気分を害してしまうだろうから、本邸には近づかないようにしてくれ、私も別邸を訪れることはないから、そのつもりでいるように』


 チェイスはクラリスが返事をする間もなく立ち去った。


 その後クラリスは、執事のダグラスに案内され、別邸へと連れてこられた。


 別邸と言っても、広さは十分にある邸宅で、広い庭もついている。これ以上何を望むと言うのだろうか、ただ愛されてみたいと、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ期待していただけだ。その淡い期待も、チェイスから軽蔑するような視線を向けられ、叶わぬ夢であったと悟った。


 愛されなかったとしても、邪険に思われていたとしても、今までよりずっといい生活ができるのだ。鞭で打たれることもない、鎖に繋がれることもない、人並みに生きさせてもらえる、それだけで勿体ない待遇ではないか。


「奥様、入浴のご準備が整いました」


 侍女から突然話しかけられたクラリスは、飛び上がるほど驚き、座っていた椅子から転げ落ちてしまった。


「まあ大変、奥様、大丈夫ですか?私が突然話しかけたから驚かせてしまいましたよね、申し訳ありません」


「——大丈夫です」


 レイチェル・ハーグッドは、昨年成人を迎えたというのに結婚も決まらず——勝ち気な性格のせいだろう——完全に婚期を逃してしまった。


 不幸にも、父の事業が傾いてしまったため、子爵令嬢だというのに、働きに出ざるを得ず、ベレスフォード伯爵夫人の侍女を募集していると聞き、羽振りが良いカヴァナー家ならば給金もいいだろうと思い、この仕事に応募した。


 ベレスフォード伯爵邸に到着してすぐ、仕事場は別邸であること、奥様を本邸に近づかせないことなど、まるでこの結婚を快く思っていないような指示を伯爵の執事から受けた。


 ひと月前から、伯爵夫人を迎えるために仕事を始めて気がついたのは、ベレスフォード伯爵には既に別の女性がいて、平民であるが故に伯爵と結婚できないこと、その女性のお腹には子供がいて、将来この子供に伯爵を継承させたいのならば、家柄の良い令嬢を書類上の母親にする必要があり、大人しく言うことを聞く、気弱な女を妻にしようとしているということを知った。


 そして、別邸で働いている使用人は皆、伯爵夫人を迎えるために新たに雇われた人たちばかりで、ベレスフォード伯爵が本邸から別邸を完全に孤立させたいと思っていることはすぐに知られることになった。


 別邸で働く使用人たちは、結婚前から嫌われている妻クラリス・ノースウッドが、どんな人物なのかと興味本位に噂した。


 何故ならクラリス・ノースウッドは社交界の嘲笑の的だったからだ。いつもベールを目深に被り、隠した顔を俯けていて顔を上げることがない。誰とも目を合わせず、舞踏会では一瞬姿を見せるだけで、すぐにどこかへ隠れてしまうので、クラリスの顔をはっきりと見た者はいなかった。


 ある時、酒に酔った男たちが面白がってクラリスに懸賞金をかけた。彼らがクラリスを捕まえるために追い回したと耳にした時、レイチェルはクラリスを気の毒に思った。


 今そのクラリスがレイチェルを怯えた目で見ている。人がこれほどまでに怯える姿をレイチェルは見たことが無かった。


「お風呂の準備ができました。お手伝い致します」


「だ……大丈夫です。1人で入れます」蚊の鳴くような小さな声でクラリスは返事をした。


「それでは、ドレスを脱ぐのをお手伝いしますね」


「だ……大丈夫です。1人で出来ます」


「ウェディングドレスを1人で脱ぐのは至難の業ですよ。姉が結婚した時に手伝ったのでよく知っているのです。どうぞお任せください。お恥ずかしいようでしたら灯を消しましょうか?」


 クラリスは肌を見せたくなかった。傷だらけの肌を誰にも見られたくなかった。恥ずかしかったからではない、怖かったからだ。悪魔憑きだと知られればまた鞭で打たれる——暗闇の中ならこの傷も目立たないはずだ。クラリスは侍女に躊躇いながらコクリと頷いた。


 レイチェルはオイルランプの灯を消した。月明かりが、うっすらとクラリスのほっそりとした体を浮かび上がらせた。


 レイチェルは顔にかかるベールを脱がした。肌も髪もガサガサに荒れていて顔色も悪かったが、その面立ちは美しく、人知れずひっそりと夜に咲く月下美人のようだった。黙って座っているだけで縁談が山ほど舞い込んできそうだとレイチェルは思った。


 こんな美貌を持って生まれたなら、レイチェルは髪や肌の手入れをもっと楽しむだろう。彼女もそうしていれば、肌を全て覆い隠すような地味なウエディングドレスではなく、男が飛びつきたくなるようなあでやかなウエディングドレスを着て、伯爵を虜にできただろう。


 磨き上げれば伯爵の愛人よりずっと綺麗な女性になる。伯爵は男らしく勇ましい面立ちで、恵まれた容姿を持つ聡明そうめい叡智えいちな若者で、将来が楽しみだと評判のいい青年だが、女を見る目はないらしいとレイチェルは残念に思った。


 そして、ドレスの紐をほどき、純白のドレスがクラリスの足元に落ちた瞬間、レイチェルは絶句した。


 オイルのランプは消えていて部屋は薄暗かったが、月明かりは、この醜い傷跡を隠しはしなかった。


 何故そんなにも怯えているのか疑問だったが、答えはこの無数に走る傷跡だ。背中に大きく刻まれた一際目立つ十字の傷跡に、顔をしかめたレイチェルは目が離せなかった。傷跡が醜く盛り上がり醜悪で、おどろおどろしい十字を刻んでいる。


 彼女は長い間、虐待され生きてきたのだ、だから尋常じゃないほど怯えているのだとレイチェルは理解した。


 傷跡を見られたことに気づき、体を震わせているクラリスに胸を痛めたレイチェルは優しく言った。「大丈夫です。この別邸に奥様を傷つける人はいません。それに、奥様の侍女は私だけですから、入浴の補助は私しかいたしません。私は奥様が嫌がることを決してしないと誓います。だから安心してください」


「……ありがとうございます」レイチェルの言葉が真実とは思えずクラリスは訝しんだ。


(きっと私を騙して、私の中にいる悪魔を騙そうとしているに違いない)


「奥様のために香りの良い石鹸を取り寄せておいたのです。いい香りに包まれてお風呂に入れば嫌なことも吹き飛んでしまいますよ」レイチェルはクラリスを励ますように言い、にっこりと笑った。


「せっけん?」


「——体を洗うための物です。試しに使ってみましょうか」


 石鹸は高価だから誰もが使える品ではない。だが、平民とて石鹸が何かは知っている。なのに公爵令嬢であるクラリスは知らなかった。


 レイチェルは、結婚式当日に夫から別邸に追いやられてしまったクラリスを、ベレスフォード伯爵の財を利用し、磨き上げ飾り立てることに決めた。

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