クリスマスキャロル・フォーユー【アドベントカレンダー2023】

綿雲

フルーツ抜きのパネトーネ

その朝、町中の人間は誰しもが浮き足立って、そわそわとどこか落ち着かない様子で歩いていた。真冬の寒さで足早になっているわけではない。日常とはほんの少しだけ違う、くすぐったいような気分。見渡せばあちこちに飾られた松ぼっくりのリース、赤い帽子の雪だるま、窓辺に並ぶキャンドルに、そしてクリスマスツリー!

イブの1日というのは、いつの時代も特別なものなんだろう。


冷静ぶってそんなことを考えつつ、いそいそと身支度を済ませるジャンにしても、例外ではなかった。毎年せいぜいちょっといいワインを開けたりチキンやケーキを食べるくらいで済ませてしまうが、今年に関しては別だ。バケツの水が凍るくらい冷え込んだアトリエで目を覚ましたって、ちっとも寒さを感じなかった。開け放った窓から身を乗り出して、胸いっぱいに朝の空気を吸い込む。

乾いて澄んだ冬の匂いよりもいっそうかぐわしく漂ってくるのは、香ばしい小麦とバターの香気。いつもならほっと落ち着く香りだったが、今日は違った。逸る胸を押さえ、絵の具や木屑で汚れた上着だけ羽織って、ポケットに手を突っ込むと、ジャンはアトリエを飛び出した。


「今年もこの日が来たな」

「あらジャンさん、いらっしゃい!メリークリスマス!」


ジャンの住むアトリエのすぐ隣、ベーカリーの黄色い扉を開ければ、ふわりと温かなパンの焼ける匂いと、明るい看板娘が出迎えてくれる。肩までの癖っ毛をおさげにまとめたアメリは、例に漏れずはしゃいでいる様子だ。揺れる三つ編みとそばかすのあどけない笑顔は、ジャンを普段よりどきどきさせた。


「珍しいわね、朝一に降りてくるなんて」

「ああ、まあな」


どうかしたの、とアメリはみどり色のきらきら光る瞳でじっとこちらを見つめてくる。その途端に、火照った頬の理由を見透かされているような気がして、本題を切り出すのに今更ながら少し怖気付いた。こういう時、遠回しな台詞しか使えないのはジャンの悪い癖だ。


「ああ、なんだ…そう、パネトーネをくれ!先月から指折り数えて楽しみにしてたんだ」


遠回しどころか、これではまるきりただの浮かれた食いしん坊だった。しかし、甘くてふんわり軽い黄金色の生地に、ドライフルーツのたっぷり入ったパネトーネは、クリスマスには欠かせない特別なご馳走のひとつだ。これだってジャンの本心には違いなかった。


「ふふ!先月から?気が早すぎない?」

「悪いか」

「ううん、ちっとも悪くない!でもごめんなさい、悪いんだけど、すぐには食べさせてあげられそうにないわ」


こんなに色々な種類のパンや焼き菓子が居並ぶベーカリーで、それもクリスマスという特別な日に、パネトーネがないなんて!この現実はジャンに少なからずショックを与えた。アメリは申し訳なさそうに項垂れる。小麦粉のついたエプロンの紐が肩からずり落ちた。


「情けないんだけど、材料が足りなくって…前もって予約してくれてた人の分しか作れてないのよ」

「なんだと!何が足りないんだ一体」

「ドライフルーツよ。だってフルーツ抜きのパネトーネなんてありえない!そう思うでしょ?」

「むう、それは…ありえん!」


そうでしょう、とアメリは言うと、らしくもなくしゅんとしてため息をついた。先ほどまでの笑顔はひょっとして空元気だったのかもしれない。いつもは小麦畑を飛び回るスズメみたいに元気な彼女に、こんな顔をさせてしまうなんて!よりにもよって些細なごまかしのために、こんな話題を振った自分が恨めしかった。


「ほんとにごめんなさい。せっかく楽しみにしてくれてるのに…」

「そ、そんなことはいい!気にするな、その…ドライフルーツさえあればパネトーネを焼けるんだな」

「え?まあそうだけど…」

「なら俺が調達してきてやる」


唐突な申し出にアメリは目を丸くして、しかし胸を張るジャンが本気らしいことを感じ取ると、嬉しそうにくしゃっと笑った。ジャンとしては彼女に笑顔が戻ったことに心底安心してしまって、気が大きくなっていたのかもしれない。


「本当に?ありがとう!でもあなたも絵のお仕事が…あ!待ってジャンさん、」

「今日は休業だ!任せておけ、午前中には両手に抱えきれんほどフルーツを買って戻ってくる」


そのままアメリの話も聞かずにベーカリーを出ると、外にはすでに何人もの客がパンを求めに立ち並んでいた。彼らの何割かは自分のようにこの店のパネトーネを楽しみに来た客かもしれない、と思うと、少し胸が痛む。なんとしてもできる限り早く、アメリにドライフルーツを届けなくては!

彼女の喜ぶ姿を想うだけで、なんだってできるような気になってくる。ジャンは早朝の寒さも本来の目的も忘れ、町を意気揚々と駆けていった。

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