第3話 大蛇との死闘Ⅲ

 「つ」


 目を見張り、反射的にライフルの引き金に指がかかった。慌てて撃ち返すことはなかったが。


 現れたのは身体中に傷を負ったスカリビだ。頭部は元より、四肢、胴体、蛇尾に至るまで傷がない場所はない。


 頭部の仮面は一部が砕け、自慢のオカリナこぶは穴に瓦礫が詰まり、とてもではないが音など奏でられないほど傷ついていた。指の爪は二又に割れ、表皮が割れて夥しい量の血液が流れ出ている。胴体は腹部を中心に鱗が剥がれ、見ている間もズルリと剥がれ落ちた。


 蛇尾もひどい。本来であれば抜けたらすぐに生え変わるはずの鱗は生え替わらず、出血が深刻だ。肉どころか骨まで見えていた。


 傷の深さもさることながら、その姿勢もまた安定しない。もたげた首はまるで吊り橋の上にでも乗っているかのように右へ左へ揺れ、スカリビのすらりとした長い胴体は肩で息をするようにその人の胴の何倍も太い体を上下に動かした。


 爛々と憎悪で瞳をたぎらせ、千景を睨むが、スカリビは動かない。それは無理もないことだ。無理に体を動かしたから、脳が平衡感覚を失っているのだから。


 スカリビのような眼球が横向きになっているフォールンは脳幹が並行して配置されている。無論、眼球のすぐ隣に脳幹があるわけではないが、体の内部までもが硬質な鱗や白皙の仮面で守られているわけではない。


 眼球と脳幹の間にある肉の壁など千景の銃は容易く貫く。眼球を潰され、さらには感覚神経や運動神経を中継する脳の重要な部分までも破壊されたのだ。スカリビでなくともまともに姿勢を維持できない。


 しかしそれでもなお、眼前のスカリビは千景に怒りの眼差しをむけていた。この先まともに動けなくなろうとも、目の前の宿敵だけはなんとしてでも倒す、そんな人間的な憎悪の眼差しが千景に浴びせられた。


 浴びせられた眼差しに臆さず千景はライフルを中腰のまま、撃った。構えもせず、ライフルから発射された弾丸は全く見当違いの場所へと飛んでいった。


 弾丸が腹部の鱗を剥がし、同時にスカリビは大きく体を丸め、防御態勢を取った。眼球を撃ち抜かれた経験が必要以上に大蛇を警戒させ、その隙に千景は瓦礫の山の中へと走った。


 彼自身も理解している。生身のままで自身の身長の何倍もある大蛇とドンパチをするなど蛮勇である、と。


 蛮勇をするのは刀とかを持っているアホどもだけで十分だ、と脳裏で白髪のバーサーカーを想像しながら、牽制のためにさらにもう一発、後方へ跳びながら中空で千景はライフルの引き金を引く。


 牽制の一射とはいえ、スカリビを狙うに越したことはない。先に放った銃弾が剥がした鱗、剥き出しになった表皮目掛けて撃たれたその一撃は肉をこじあけ、スカリビに絶叫させた。


 断末魔を彷彿とさせる絶叫はしかし決して断末魔ではない。人が机の上に小指をぶつけたり、ドアに指を挟んだ時に反射的に上げる悲鳴と大差はない。命に別条はなく、スカリビの巨体からすれば針で刺されたくらいの感覚だろう。 


 もっとも脳幹を破壊されているスカリビにとってはそれだけでも十分に痛いと感じるはずだ。感覚神経が雑多な渋滞を起こし、混線しているスカリビの脳内で今何が起こっているのか、廃都が鳴動するほどの波紋を生んだほどの絶叫だったのだからきっと。


 脳幹の破損に加え、出血のひどいスカリビはそう長くは保たない。8メートルに迫る巨体だ。出血も尋常ではない速度で進む。早晩、失血死するだろう。


 けれど、と千景は懸念をこぼす。


 やはりスカリビはフォールンだ。人類の天敵、実に世界人口の半数以上を殺戮した人類社会の破壊者にして、絶対超越者だ。


 体構造は生物に近く、頭部は人間に近い。人類を超越する適応能力と進化速度を有し、土壇場で想像もしていなかった力を発揮する。手負いとなってもその生命活動が停止するまでは決して油断できない。


 今はただとぐろをまくまま、防御態勢を取っているスカリビも自身に浴びせられた一撃が大したものではない、あの音は決して自分を殺しうるものではない、と気がつけばどんな行動にでるかわかったものではない。


 フォールンの底知れない潜在能力への畏怖とかつての教訓から千景は廃都の一角に聳える高層ビルへ入ると階段を登りできるだけ高層まで登った。


 彼がその小さな両足で階段を登っている間も周囲の瓦礫を弾く音がこだました。蛇尾を振るっているのか、はたまたその胴体で周囲の建物に体当たりをしているのか。暗い階段を登る千景には判断しかねる破壊音がいくつも響く。


 音と共に建物も揺れた。朽ちた天井からの落石、割れた窓、倒れた花瓶。かつてはオフィスビルとして使われていたのか、古く錆びた机やシートが剥がれた椅子が目はしをかすめた。それらは建物が揺れて傾くと割れた窓から勢いよく射出され、あとに残ったのは空っぽのテナントだけだった。


 天秤が傾けば千景もああなる。


 階段というただでさえ不安定な場所を登っているのだ。もし上階から何かが転がってくれば避けようがない。人はアニメのキャラクターほど反射神経が高いわけでも、危機察知能力があるわけでもないのだ。


 久々の重労働に心臓が悲鳴をあげる。先の高層ビルを登った時はジャベリンを用いることで楽々と登ったが、今は標的にバレないように徒歩だ。しかも全力疾走をしているせいで体力の減りも速い。


 はぁはぁと肩で息をする千景がふと踊り場の表示記号を見ると、8階と表記されていた。ここまで登ればいいだろう、と千景はフロアに顔を出す。


 鉄の扉を開き、周囲を見回すと建物の左右へ向かう長い廊下、そして正面に何か大きなものが通ったと思しき大きな穴が開いていた。そういえば、と彼が振り返ると大きく凹んだ鉄扉がさっきまで彼がいた階段側に向かって開かれていた。


 「オーガフェイスかブラットでも通ったのか?」


 スカリビよりも小型だが、代表的なフォールン二種の名前をこぼす。しかしすぐに思考を考察モードから戦闘モードへと切り替え、千景は警戒心を強めた。


 ビルの外では未だにスカリビが暴れる音が聞こえた。もはやあの強力な舌も音響センサーの役割を果たす頭部の穴が開いたこぶも意味はない。受け取る情報を処理する能力はスカリビから失われていた。


 それは好機であり、同時にとてつもないバーサーカーを生んだということだった。


 スカリビは通常、周囲を破壊するような行動はとらない。その巨体にあぐらをかくことなく、獲物の位置を掴んだスカリビは音もなく背後に忍び込み、一口で喰らってしまう。時には自身よりも巨大な生物を飲み込んでしまうほどだ。


 それは決してスカリビが臆病だからとか、蛇の習性が反映されたからとかではなく、静寂狩猟サイレント・ハントが最も効率的だと判断したからだ。無用な破壊は無意味な争いを生む、と本能で理解しているから、その力を誇示しようとしない。


 「まったく人間的な」


 獣にとって持ちうる力すべてを出すのが一般的だろうに、と千景はスカリビの厄介な習性に愚痴る。わかりやすく暴力的で、わかりやすく恐ろしい存在であればわかりやすく怖いと思えるが、わかりにくい脅威は余人にはわかりにくい。


 ライオンやクマ、狼を怖いと言う人はいても、蚊やハエ、ねずみを怖いと言う人間が少ないように、人伝でもわかる脅威はわかりやすく怖いが、当事者にならなければわからない脅威はわかりにくく厄介だ。その点で言えばスカリビは後者だ。


 狩るとなれば後者ほど恐ろしいものはない。自分の力を誇示しない獣は怖いと狩人に思わせないから。そして気がつけば首に手をかける白い手指があり、抵抗しようとしても万力を思わせる剛力で締め上げ、狩人は果てる。


 だが今のスカリビはどうだ。わかりやすく暴れ、わかりやすく破壊する。その行動は一切理性的ではなく、合理的ではない。


 まったくうらやましいほどに獣的で、素っ裸の本能のままに暴れるその姿は人が忘れた畜生そのものだった。数万年前、まだ石器どころか火すらみつけていない、時間という概念すら知り得なかった野猿どもと同じく、目につくものすべてに食らいつく。


 彼らは千景が手にある無骨な凶器も、袖を通している厚手の防寒ジャケットや履いている分厚い軍用ブーツもなく、素っ裸のまま自然体で生を謳歌していた。時には獣に襲われ、命を落とすこともあっただろう。爪も牙も甲羅も持たない弱小種なのだから当然だ。


 しかしそれは自然の営みだ。弱肉強食という自然の断りだ。


 だから。


 「——だから俺達をそれに巻き込むな。俺達には迂遠な世界だ、それは」


 地上8階、高さにして20メートル以上、スカリビの意識外から千景はその割れた仮面を狙う。装填された弾丸たまは一発。ボルトアクション式である以上、自動装填ができる他の狙撃銃以上に慎重に千景は照準を合わせた。


 たった一発ですべてが決まる。


 ボロボロに砕けた今の仮面はスカリビの表皮に癒着することでかろうじて形を保っている。しかしそれは彼の弾丸が亀裂に直撃すれば最も容易く砕け散り、剥がれ落ちる。


 フォールンは仮面なくして生きられない。仮面が砕けたフォールンは死ぬ。生物を超越した化け物にはお似合いの、ファンタジーな弱点だ。


 どれだけピンピンしていようと、仮面さえ砕ければフォールンは死ぬ。それがわかっていて、しかし人類は追い詰められた。頭で考えるほど仮面を砕くという作業が簡単ではないからだ。


 その頑丈さは例え小さなフォールンであっても容易くは砕けない。対物ライフルの直撃を受けてようやくといった具合だ。小型でさえ特大の火器を必要とするならば、今、千景がやろうとしているように、十分に傷んだ仮面でもなければ大型のフォールンの仮面は砕けない。


 ふーっと息を吐き、引き金に指をかける。暴れてはいるが、それは蛇尾に限り、頭部はもたげたまま動かない。いや下手に動かせば脳しんとうを起こすからか。


 脳の異常を本能的に察している。まるでアイスホッケーの選手のようだ、と千景の狙撃の師匠であればこぼすだろう。今はその状態が好ましい。


 銃口をわずかに下方へ向け、千景はそのまま瓦礫の上にかがみ込んだ。左手を銃身に添え、左の膝頭に乗せて銃身を安定させる。風も思ったよりは吹いていない。完璧な環境だ。


 ——そして千景は引き金を引いた。


 銃口が橙色の閃光を放ち、同時に薬室から銃口へ向かって鋼色の対フォールン用特殊弾が射出される。フォールンの頑丈な表皮を貫くために設計された特殊弾丸、しかしそれでも仮面は砕けない。


 弾丸は吸い込まれるようにスカリビの仮面に入った亀裂に命中し、直後弾丸の衝撃によってスカリビの頭部を守っていた仮面が四散する。薄氷を砕くように鼻部周辺の仮面が砕け、ぐらりとその巨体が左右に揺れた。


 その名前通りに体は蛇行し、数秒たっぷりと時間をかけてスカリビは頭から地面に激突した。ドシャンという音と共に砂埃が起こった。


 スコープ越しに千景はスカリビの死亡を確認する。呼吸をしているそぶりは見せない。これが蛇特有の死んだふりであれば騙されても仕方ないのだろうが、あいにくとスカリビは蛇に似ているだけの化け物だ。


 試しに再度装填した弾丸でその頭蓋に余ったわずか仮面を砕いた。反応はない。安堵を覚え、しかしそれでも絶対の安心はできない千景はゴーグルの丁番に左手を添えた。


 ダブルチェックならぬトリプルチェックのためにゴーグルに仕込まれているサーモカメラを起動し、体温の動向を観察する。数分の観察、その間に最初は青ばかりの背景にぼんやりと浮かんでいた赤い塊は徐々に周囲の色と同化し始めた。


 「ふぅ」


 久方ぶりの重労働。単独任務を命令された時はああ、今日が命日かと天を仰いだが、終わってみればどうにかなったな、と千景は安堵から緊張感が一気にほどけ、息を吐いた。


 ずっと動かないままの状態が続いたせいで体の節々が痛い。肘や前腕部などはずっと地面につけていたせいで打ち身がひどい。全身に筋トレ用のプロテクターを付けているのかと錯覚するほど両手が、両足が、重い。


 脱力感がどっと押し寄せ、体が思うように動かないせいだ、と千景が気づいたのは数秒経ってからだった。疲労感は肩に重くのしかかり、この場で蹲りたくなるように両足から力を奪ってくるが、そんなことをしていられるほど状況が安全というわけでもない。


 改めて気を取り直し、周囲を警戒する千景の頬を撫でる一陣の風が通り抜けた。


 ふと強風が吹き、千景は目の前の景色を漆黒の双眸に刻んだ。


 先程まで吹き荒れていた砂煙が止み、蒼穹は虹色の陽光で以て大地を照らす。白雲の間から漏れ出た光によって明らかになるのは人類文明の大いなる遺跡、彼らの墓標に他ならない。


 かつては多く立ち並んだ摩天楼も今や残骸と化し、根本が崩れ倒れてしまったものが多数見える。見える範囲には蔦や苔がびっしりと壁面を覆った廃墟がいくつもあり、ついさっきまでの砂嵐のせいか、建物の多くは砂を被り、いつにも増してみすぼらしく見えた。


 世は退廃の時代、そして退敗の時代。


 かつて栄華を極めて人類は、しかしその活動範囲を大きく縮小させられ、この地球という惑星は人類にとってかつてないほど過酷な環境へと変貌した。


 ある学者は言った。人類がこれほど追い詰められたのは有史以前、ホモサピエンスに成り立ての頃以来だ、と。人類は今、雌伏の時にいて、雄飛を待っているのだ、と。


 それはある種の逃避、なんら根拠の戯言だ。見たくもない現実を直視することを恐れた思考放棄の弁だ。


 改めて言おう。


 世は退廃の時代、人類の所産はことごとく瓦解し、星は人類を裏切った。


 しかし人類はまだ生きている。この人類にとって過酷な時代にまだ生きていた。


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