第2話 東京サンクチュアリ

 白廟の回廊を千景はコツコツと歩いていく。


 しんと静まり返った回廊は電気も何もないため薄暗く、不気味な雰囲気をただよわせる。しかし廊下の左側から指すわずかな陽光のおかげで少しばかり活気を取り戻し、窓枠が影となって映し出された。


 通行人は千景の他にはいない。時間は昼時、常ならば食堂や自室で昼ごはんにありつく時間だ。人が誰もいないのはさもありなんと千景は頷き、腕時計をジャケットの袖口にしまった。


 右を見やれば平坦で何もない壁が、左を見やれば中庭の一本桜にたむろする自分と同世代か、それよりも数歳歳下の同業者が呑気に木陰で仰向けになり寝転がる姿が見えた。兵士の休息、あるいは子供の安息とでも言うべきか、とにかく彼らは彼らなりに


 気を休ませて昼寝に興じられる彼らを羨ましく思いながら千景は回廊のT字路を右に曲がり、目的の部屋へと入っていった。部屋の前には表札が掲げられていて「外径行動課第三特務分室」と書かれていた。


 部屋に入るとまず目に入ったのは昼間だというのに机の上に突っ伏し、子猫のような寝息を立てている白髪の少女だった。入り口から入ってすぐのところにある左右それぞれ六席ずつあるデスクのちょうど真ん中寄りの席に座っているせいで嫌でも目立つ。


 千景と同じ色、同じデザインのジャケットを毛布代わりにして昼寝に興じる彼女は口元からよだれを垂らし、完全に無防備な状態を晒していた。近くまで寄ればほのかにシャンプーのよい香りまで漂ってくる。


 外見は可憐で肌艶もよい。腰まで伸びそうな白髪を根本で結び、雑なポニーテールを作っているが、すべての髪を束ねているわけではなく、前髪や左右もそこそこに残し、現在進行形で干し草を食む山羊のように顔にかかった自身の横髪を口に含んでもごもごとしていた。


 彼女以外に室内には誰もいない。千景が入ってきた時、彼を出迎えたのは他でもない現在進行形で爆睡を決め込んでいる彼女、白河 朱燈あかりただ一人だけだった。


 その朱燈を起こさないようにそっと千景は彼女の後ろを通り、向かい側の席に座った。慣れ親しんだ席に座り、一息入れつつ、ここに来るまでに買った缶コーヒーの蓋を開き、ぐいっと千景は飲み込んだ。


 合成飲料にしてはマシな味、可もなく不可もなくほどよい不味さに千景ははにかんだ。わずか200ミリリットルの缶コーヒーは一瞬で空になり、しかし多量に入っているカフェインのせいで日盛りの眠気も蜘蛛の子を散らすように去っていった。


 ようやく仕事ができるかな、と千景は机に向かい、机上のタブレットボードの電源を入れる。するとぼんやりとキーがボード上に浮かび上がった。三日しか空けていないはずなのに埃を被ったボードを払い、同じようにディスクディスプレイも払っていると、ボォーンという近所迷惑極まりない音を立ててディスプレイ上に青い背景が浮かび上がった。


 シンプルな青い背景には「Tokyo Sanctuary」と書かれたロゴマークとその下に凝ったフォントで「Vidar」と浮かびあがる。それが消えると、今度はパスワードを入れてくださいとユーザ認証を求める画面へと移り変わった。


 パスワードを手早く入力し、立ち上がるのを待つ中、ふと千景は立ち上がり、空き缶をゴミ箱へ捨てた。その傍、窓際に寄ってみると外には白亜の都市が広がっていた。


 白亜の都市、人はそれをサンクチュアリと呼ぶ。


 面積約600平方キロメートル、四方を守る地上高度100メートル、サンクチュアリ内高度50メートルの大城壁に守られた人類の楽園だ。城壁の内部には四方へ伸びる高速道路があり、数は少ないが、車両がいくつも走っている。


 より階下に目を向けてみればさらに幾重にも道路が並び、この都市がただ広いだけではなく、地下深くまでその根を伸ばしていることがわかる。


 千景が立つ場所からは見えないが、都市の中央には市内の行政を管理するサンクチュアリタワーと呼ばれる建造物があり、これは市内随一の高さを誇る。高さは250メートル、その頂上には都市を守る城壁上の各所から伸びる高圧電磁シールドの発生装置の力点が集約され、さながらサーカステントのように市の上空を守っていた。


 サンクチュアリタワーの下部には高速道路の立体交差地点であるジャンクションを抱えており、それを初めて知った時、千景は昔読んだ古代ローマの歴史書のとあるフレーズを思い出した。すべての道はローマに通ず、とフランスの詩人、ラ・フォンティーヌが自書で述べた一文だ。サンクチュアリになぞられるならば、すべての道はサンクチュアリに通じるといったところだろうか。


 そんなサンクチュアリは行政機関以外にも食糧生産プラントや民需、軍需の両工場はもちろん、学校をはじめとした教育機関も充実している。住民の居住区は、と聞かれれば窓の外から見えるいくつもの薄べったい屋根の立体物がそれだ。


 均等に並んだそれらは窓は数えるほどしかなく、上層階を除けばほとんど穴らしい穴がないのっぺりとした構造物だ。それらが大体16棟ワンセットで立ち並び、高速道路はその間を縫うように通っていた。


 居住区と呼ぶにはあまりにも閉鎖的で、密閉的。さながら豚小屋、あるいは鶏小屋のように見える跳び箱型の建物の中には一棟大体400人から600人ほどが住んでいて、部屋の間取りはどれも同じだ。差異はなく、特別感もない白い壁、白い床、白い天井の味気ない部屋だ。


 一度中に入ってしまえば日光を浴びることは叶わない。上層階の自然園にでもいかない限り、あの中では日常的に太陽を拝めない。


 あるいはあの中で育った子供の中には一度として外に出たことがない子供もいるかもしれない。見上げるのはいつもの天井、味気ない変わり映えのない白い天蓋、自然園で浴びれる陽光など微々たるもので、その暖かさを感じることができないままに成人するのだ。


 もっとも、それは仕方のないことではあるのだ。


 すべてはフォールンという脅威から人々を守るため、強度を確保するための致し方ない犠牲だ。


 嫌な時代だな、と千景は一人、感傷に浸る。空き缶をゴミ箱へ捨てると、中が珍しく空だったのか、ストンとプラスチックの鳴る音がした。


 席に戻ると普段から立ち上がりの悪いディスプレイがようやく千景のアカウントのページを開いていた。手早くキューマウスを動かし、報告書作成アプリを千景は起動させる。


 開かれたアプリのページから新規作成を選び、題名、作成者名を記入するためカタカタと彼がタブレットボードを叩いていると、不意に向かい側の席に座る少女が大きく伸びをしてその上体を起こした。なにこれ、と自分の口に入った髪の毛を払い、彼女は人間らしからぬ赤目を千景に向けた。


 ぼんやりとした半開きの眠気まなこを右へ左へ動かし、彼女は再び、後ろに向かって大きく体を伸ばした。うんと小さく喘ぎ、ディスプレイ目掛けて両手をめいっぱい伸ばす朱燈に千景は声をかけた。


 「おはよ」

 「ん、おはよ。よく寝た。体いたーい」


 年頃の少女にしては声は低く、けだるい印象を受ける。だらしなくよだれを垂らし、机の上に置かれたティッシュボックスに手を伸ばした。


 「夜勤?」

 「まーねー。ほら、あたし優秀だから、優秀だから!」


 くどいくらいに優秀アピールをする朱燈はうざったいくらい自慢げに胸を張る。ささやかで年相応の胸ふくらみに思わず千景は鼻で笑った。小馬鹿にした彼に苛立った朱燈は手を伸ばした先にあったティッシュボックスをつかむと、それを有無を言わさず唐突に彼に向かって投げつけた。


 投げつけられたティッシュボックスを千景はひらりとかわし、あまつさえキャッチすると、バスケットボールにそれを見立てて彼女へ向かってトスした。ちぃ、と隠すつもりもなく舌打ちする朱燈は乱雑に2枚、3枚とティッシュボックスからティッシュを引き抜くと自身の口からこぼれたよだれをぬぐい、紙ごみになったそれを丸めて千景に投げつけた。


 それらはすべて千景に避けられ、彼の背後の壁にポンポンと当たった。捨てといて、と理不尽な要求をする朱燈にため息をこぼしながら、しかし千景は不承不承と床に落ちたゴミを回収すると、自身の机の下にあるゴミ箱に放り捨てた。


 外見は見目麗しいかもしれないが、朱燈はとても調子に乗りやすく、怠け癖がついている。いつかドジを踏まないか心配だ、と保護者にも似た眼差しを千景が向けると、彼女はいーだ、と歯茎を剥き出しにして威嚇した。


 まるで猫のような、あるいは虐待を受けた狂犬のような女で、上だろうが、下だろうが態度はすこぶる悪い。いっそずっと寝てればよかったのに、と千景は唇を曲げた。


 「そーいえば千景も仕事だったの?今日の朝いなかったじゃん」


 しばらくしてオーバル端末に目を落としながら朱燈は聞いてきた。暇つぶしなのか本心から聞きたいのかはわからなかったが、無視する道理もなかったので千景はスカリビとの戦いをかいつまんで伝えた。


 スカリビを単機で倒した、と聞いて朱燈はひゅーと唇を鳴らした。やるじゃんと賛辞の言葉をあげる朱燈は端末を腹に乗せ、パチパチと乾いた拍手を送った。


 「おかげで両手両足だだ疲れだよ」

 「まーあんたはそーだろーねー。おつかれさんさん」


 ねぎらいの言葉を送られ、千景は肩をすくめた。死にかけたにしては安いとも感じたし、朱燈にやるじゃんと言われてもなんだかその後ろに「ま、あたしもできるけどねー」という言葉がついてきているようで、素直には喜べなかった。


 しかし、一般にスカリビを単機で撃破とはそれ相応に評価される戦果である。


 「中位種だからな。大変だったよ」


 フォールンは人を喰らう化け物だ。その発生は西暦2253年にまで遡る。実に20年以上も昔の出来事だ。


 最初こそ新種の生物とか、エイリアンだとか、軍の実験動物だ、などと騒がれ、ネットで動画や画像が拡散し、ブームとなっていたが、それが人を襲い人を喰らうと知れ渡ると人々のフォールンを見る目は変わった。


 きっかけはバカな配信者が保護施設に侵入した挙句、食われてしまう姿を全世界にライブ中継してしまったことだ。それ以前にも人が襲われるという事件はいくつもあったが、死者が出たのはそれが初めてだった。


 以後、フォールンを確保処分する行動が各国で見られ、その都度フォールンはより凶暴化していった。人々の恐怖が増していくに比例してその悍ましい姿へと変形していった。


 わずか2年と少しでフォールンは爆発的に世界中に広がり、そして2255年の2月14日、「ベルリン・トロイメライ」と今では呼ばれている事件を機に世界中でフォールンに対する人類への攻撃が始まった。以来、20年間にわたり人類とフォールンの戦争は続き、いつからかその戦争はフォールン大戦と呼ばれるようになった。


 未だかつてない異種との戦争。人類はよく戦った。しかし結局は敗退し、世界中の様々な土地にサンクチュアリと呼ばれる対フォールンを見据えた防衛都市を築き、その中に引きこもった。


 今、千景らがいる東京サンクチュアリもその一つだ。旧日本領には東京サンクチュアリの他に三つのサンクチュアリがあり、それぞれ京都、函館、鹿児島に居を構えている。


 スカリビはそんな人類を追い詰めたフォールンの中でも中位に位置する種だ。


 一般的にフォールンは下位、中位、上位、最上位に大きく区分けされ、さらにその中でより細かく分類される。スカリビは中位の中でも強力な部類で、場合によっては上位級とも目される。


 今回の任務、もとい依頼はサンクチュアリの外周区、俗に外周防衛領域に入り込んだスカリビの討伐ないし、撃退だった。場合によっては追い払うだけでも報奨金は得られたわけだ。


 「無駄嫌いのあんたらしくないじゃん。どしたん、きまぐれ?」

 「追い払うにしては大きすぎたからな。それにうまく作戦がはまったんだ、殺すよな?」


 「まぁそだね。追い払ってもどーせまた来るだろうし」


 フォールンは原生の生物が巨大化したり、変形した姿をとる。いや、元は原生の生物だったものが、ある日突然フォールンへと転じるのだ。前触れもなく、唐突に白い仮面が頭皮を食い破り、諸々を飲み込んで現れるのだ。


 その気性、習性は元となった生物に由来する。蛇ならば姑息に、獅子ならば勇猛に、猿ならば臆病に、鹿ならば機敏になる。そうしてフォールンはこの大地に降り立ち、人類へ牙を剥いた。


 形態はそれぞれで異なるが、一貫して彼らは図体が大きく、仮面をかぶっている。かつて、森林伐採などで野山の動物が都市内に侵入する事態が幾度となくあったように、その巨体にこの星は狭く、彼らの縄張りと人類の生存圏は笑ってしまうほどくっきりとかぶっていた。


 ある人物は言った。終末の刻がきた、と。666の獣が現れ、人類を断罪するのだ、と。


 「全く笑えるね。それならわざわざシェルターの名前に聖域サンクチュアリなんて付けんだろ」


 「ん?なんの話?」


 「いや、フォールンって名前は皮肉が効いているなって話さ」


 戦死者、あるいは堕天使という意味で使われる英単語。それは誰が言い始めたのかはわからないが、奇しくも罪人のように顔を隠す彼らをそういうもののように感じてしまう自分がいることが千景にはおかしくてならなかった。


 なるほど不浄なものを殺すのは同じく不浄なものというわけだ。それはそうだろう。人間同士が殺し合えばそれが互角の勝負になるように殺し合いとは畢竟、同列の存在以外とは起きえない。上位による下位の殺害、それは殺し合いではなく、一方的な虐殺だ。


 報告書を打つ手を止め、一人で感じ入る千景はしかし、顔が気持ち悪いと向かいの席に座っていた朱燈に脛を蹴られ、悶絶した。ただの靴ではなく軍用の、それも踏み抜き防止のための鉄仕込みの靴で蹴られるのはもはや蹴撃となんら変わりない。


 うごごご、と唸る千景をよそにイヤーキャップまで付けてキャラデコがされたオーバル端末に目が釘付けだ。よほど面白い動画を見ているらしく、口角が上がりにまにまと滅多に見せないわけではないが、そう頻度は多くない種類の笑みを浮かべていた。


 自分を蹴ったことすら忘れている様子の彼女に対して聞こえるようにはぁ、と盛大なため息を吐く。だがあいにくと彼女はそれまで片耳にしか付けていなかったイヤーキャップをもう片方にも付けて千景のため息を完全に無視した。


 昔あったイヤフォンやヘッドフォンなどと違ってイヤーキャップの遮音性は格別だ。立体音響に近い音調で音を脳内に向かってダイレクトに流すという構造上、一度付けてしまえばよほどの大音量でもなければ聞こえない。


 お手上げ、とばかりに千景は肩をすくめ、例の報告書作りに意識を戻した。


 書きかけの報告書を見やればまだ書くべき内容の半分も書けていない。使った弾丸の種類、フォールンの大きさ、そのF.Dレベル、死体の処理はどうした云々と様々な内容をカチャカチャとタブレットボードのキーを叩いて入力していく。


 この仕事、端的に言うならばフォールン害獣処理の仕事は情報の正確性を求められる。少しでも情報に差異があれば報酬は支払われず、信用は失墜する。


 もっとも、実際に依頼主なり依頼した企業なりが実地見分をするわけではない。あくまでもこの報告書を頼りに役所の職員が書類に不備はないか、事実ベースで綴られたものかを確認するにすぎない。


 なにせ、目の前で堂々と業務のサボタージュをしている朱燈ですらどうにかなっているのだ。フォールンを討伐できればそれでいい、という社風や依頼主の思考の浅薄さが滲み出ていた。


 ひとしきり報告書を書き終え、千景が時計を確認すると午後2時に針が迫っていた。仕事に没頭するあまり忘れていたが、昼ごはんをまだ食べていなかったことを思い出し、席を立とうとしたが、ついさっき朱燈に蹴られた箇所が痛み、座席から浮いた尻はすぐさま出戻りしてしまった。


 大して痛みはしないが、やはり動かすと痛い。ヒビでも入ってんじゃないか、とどぎまぎする傍ら、その傷を負わせた張本人がうーんと本日何度目かもわからない盛大な伸びと共に立ち上がり、左右のイヤーキャップを机の上に置いた。


 純真無垢、あるいは天真爛漫。いや、そんなあどけない言葉では白河 朱燈は語れなかった。


 人間とは迂遠な白い髪と赤い瞳、よしんば色素欠乏症アルビノであれば髪色が薄いとか肌の色が薄いとかはまだ理解できるが、赤目というのはそうそう目にするものではない。


 カラーコンタクトか、目に色素を混ぜるか、はたまた遺伝子組み換えでもしなければ実現できない色だ。生来のものならばそれこそ遺伝子組み換えでもしなければ実現できない。


 もっとも、実際に彼女は元から白髪だったわけでも、赤目だったわけでもなく、すべて後天的に獲得したものなのだが。


 「朱燈ー。悪いんだけど、食堂からなんか買ってきてくれない?」

 「え、なんで?普通に嫌なんだけど」


 「ほら、お金渡すから」

 「はいはーい。ほら、よこせー」


 千景が財布から取り出したチケットを朱燈はパパッと引ったくり、すたんださっさと部屋から飛び出して行った。まるで風のように飛び出す彼女に目を丸くし、呆れて千景は苦笑した。


 現金なやつだ、と部屋から飛び出す朱燈の背中を見送り、千景は室内にただ一人だけ残された。言い表せない優曇を見つけた時のように胸がすぼみ、じんわりとそれは血中にまで広がった。


 ひとりぼっちになった室内に千景のタブレットボードのキーを叩く音だけが響く。陽が少し翳り始めたのを皮切りに千景は席から立ち上がり、照明を付けようと入り口近くにあるスイッチへ手を伸ばした。


 カチンという音と共に蛍光灯に光が宿る。薄暗かった室内に明かりが灯り、光を取り戻した。


 室内が明るくなるとそれまで見えていなかったものが見え始める。見えなかったというよりも目に入れようとしなかったものという表現が正しいのかもしれない。


 部屋に入り、右手の方向を見れば埃を被ったデスクが六つ、鎮座していた。まだ私物の整理も終わっていない、もう持ち主の誰もが座ることのない冷えた座席の一つに腰掛け、千景は背もたれに顎を乗せ、瞑目した。


 視線を上座へ向けてみれば、これまた使われた形跡がない大きめのデスクが置かれていた。しかし使い古されたディスプレイの隣にはいくつものファイルボックスがあり、椅子を漕いで近づいてみれば、一つのボックスの中にみちみちにまで膨れ上がった書類を収めたファイルフォルダがいくつも入っていた。


 電子化万歳の世の中にあってしかし未だにアナログな紙媒体を好む人間は一定数存在する。この机をつい一週間前まで使っていた人間はその種の古い思考回路の人間だったということだ。


 興味本位に故人の遺品を開いたり、物色したりするほど千景も無粋ではない。伸ばしかけた右手を自分の左手で制し、彼は椅子を元あった場所まで再び漕いで戻した。


 ちょうど彼が座席から立ち上がった頃「ひさー」と言って朱燈が戻ってきた。階下の酒保で買ってきたと思しきビニール袋のロゴを引っ提げて入ってきた彼女はその紅灯のごとき目を今まさに立ち上がった千景に向け、「んーどしたん」と軽い調子で返した。


 「いや、なに。少しセンチメンタルでさ」

 「あそー?それよりも千景ー。見てよこれ!」


 ビニール袋から取り出したサンドウィッチを見せびらかし、朱燈は瞳を輝かせた。プラスチックパックではなく、紙によってくるまれたそれはほんのりとしたオレンジ色のソースがかけられたローストビーフが挟んであるサンドウィッチだった。


 珍しいものもあるもんだ、と千景はおーと感嘆符をこぼした。


 サンクチュアリにおいて肉類、根菜類、野菜類は手に入りにくい。畜産となれば相応のスペースを必要とするし、農業も右に同じく多量の水分、上等な土壌が必要不可欠となる。


 それは肉類、根菜類に関わらず、穀物類などにも言えることで、サンクチュアリの敷地の広さを以てしても、そんなことに電力や水を浪費してまで食の確保はできないのが現状だ。もっぱら、市民はもちろん、比較的上層に位置するサンクチュアリの行政官であっても普段の食卓に並ぶのはブロックフードと呼ばれる23世紀初頭に生み出された合成食料だ。


 従来、より高度で細分化された味の分類は料理人や美食家といった一部の人間にしか判断できないものだったが、料理を科学式に当てはめ、味を再現するという試みは古くからなされていた。極論、料理や食材の味を決定するのが内部の諸成分であるなら同量、同質のものを揃えれば再現は可能であるということだ。


 その結果、様々な合成食料が開発され、その完成形がブロックフードと呼ばれる究極の合成食品と謳われる発明品だ。ブロックフードの素体となるのはカレーのルーブロックサイズの小さな直方体だ。それをトマト味やブロッコリー味、果てはアジ味やマグロ味などに「着色」することでイメージ通りの味を再現できる。


 サンクチュアリに置かれている食料プラントで生産されているブロックフードによって内部では自給自足ができており、これなくして現在の人類社会は成り立っていない。まさに神の食糧、ブロックフードこそが現在の人類社会の大黒柱なのだ。


 では既存の天然食品はどうなったかと言えば、一部の好事家などは未だに天然物を好むきらいがある。電子化社会で未だに紙媒体の資料を好む物好きがいるように、やはり人類というものはどうあがいても本物の肉、本物の野菜、本物の穀物に焦がれるものなのだ。


 食糧プラントのスペースを使って飼育された牛や豚、鶏などの肉類はもちろん、じゃがいも、にんじんをはじめとした根菜類、トマト、キャベツなどの野菜類は高額ではあるが、取引がされ、多くの場合は未加工の状態で売られるが、ごく稀に食品として完成した状態で市場に流れることがある。朱燈の手にあるサンドウィッチなどがまさにそれだ。


 だから端的に換言すれば彼女の手にあるサンドウィッチはレアなのだ。例えるなら大航海時代のスパイスや塩、コショウのような価値あるものなのだ。


 自慢げにサンドウィッチを見せびらかす朱燈は代わりとばかりに千景に新たにビニール袋から取り出したブロック食品が入った箱物を渡す。リサイクルプラスチック、俗にリプラと呼ばれる透明なケースに入っていたのは赤い部分と茶色い部分がムース状になった長いブロックが三つと白い大きなブロック、そして小さな四つのブロックだった。


 「うげ、ハンバーガー弁当かよ」

 「いらないならもらうけど?」


 腹は減っているが、実を言えばあまり重たいものを食べる気分ではなかった千景はここぞとばかりに難色を示す。なんなら自分からもらった金で珍しいサンドウィッチを買い込みやがった朱燈には憎悪にも似た感情が芽生えていた。


 決して安くはなかっただろう、本物の肉、野菜が使われたサンドウィッチを外の自販機で買ったと思しき合成サイダー片手に朱燈は頬張る。その正面の席で千景は決して不味くはないが、やはり物寂しさを感じるブロック弁当をポリポリと齧った。


 ハンバーガーといえばこのちょっとの赤い部分と大部分を占める茶色い部分がムース状になった合成食品以外に千景は知らない。齧るとトマトの風味と牛肉特有のインパクトある味が舌先に広がるが、すぐに全部齧って飲み込んでしまうため、あまり満足感とか、充実感のようなものは感じられない。


 昔食べた肉類や野菜類のあの味わい深さと比べると、やはり味気ない。白い薄べったいブロック、ご飯も同じだ。そもご飯とはこんな食感だったかとさえ感じるほど淡白な味で、食っているのが過去映像で見たあのふっくらとしたご飯なのか、それともチップスの類なのか、判断つかなくなっていた。


 「なぁ、それ一口もらえない?」

 「えー。やだ」


 もう半分以上を食い終え、なお朱燈は強欲にサンドウィッチを頬張った。その余裕ある態度が癪に触ったので、千景は切り札を切った。


 「それ、俺の金なんだけど?」

 「ぐぅ」


 「いくらだったんだ?請求しようか?」


 千景もそうだが、朱燈も決して財布の中身に余裕がある立場ではない。様々な保障や手当がでるとはいえ、それでものっぴきならない事情がそれぞれある二人にとって金銭の貸し借りは死活問題だった。


 朱燈も意固地になるのは意味がない、と考えたのだろう。サンドウィッチの一部を千切り、千景の机の上に置いてあるブロック弁当の空きスペースにそれを置いた。なんとご丁寧に肉と野菜まで付けての待遇だ。


 「おお、これだよ、これ」


 久方ぶりの本物の肉の歯応え、風味、味わいに千景は感激する。ブロックフードは味は完璧に再現できるかもしれないが、歯応えや肉汁、野菜のシャキシャキ感などは再現できない。一度、本物の肉や野菜、パンのほのかな甘味を味わってしまえば、その味は一気に陳腐化する。


 しかし多くの市民、特にサンクチュアリで生まれ育った子供達はそうは思わないだろう。彼らからすればこの味が、この淡々としたつまらない一直線の味が当たり前で、いざ本物の肉や野菜を食べても、きっと獣臭いとか、苦いとかいう感想しか出てこないだろうから。


 「あーほんとこの仕事就いててよかったー!!」

 「贅沢ものー。ま、あたしも初めて食った時はちょっと感動したけどさ」


 チューチューとストローから合成サイダーをすする朱燈は感激する千景は少しだけ恥ずかしそうに見つめ続けた。てかさー、と彼女がストローから口を上げ、千景に顔を戻す。


 「千景って」


 『——招集要請の受諾を報告します』


 不意のアナウンスに千景と朱燈は視線を頭上に向けた。別に頭上に何かあるわけではなく、天井に埋め込まれた立体音響スピーカーによる音声だという自覚はあったが、なぜか反射的に視線を頭上へあげてしまった。


 奏でられたのはクリアな、しかし日本人離れした清音。ところどこのアクセントに訛りを感じる極めて事務的な声だった。


 『サンクチュアリ西部外周防衛領域2-23A区域に現生下級第四群像種オーガフェイス12匹の侵入が確認されました。当該領域の哨戒を行っていたサンクチュアリ防衛軍所属西部第四哨戒小隊より応援要請を受諾。至急、当該領域の担当となっている宿直社員は現場に出動してください』


 繰り返します、と再度復唱するアナウンスの声が聞こえる前に千景は残っていた弁当の中身を平らげ、その容器をビニール袋に入れるとゴミ箱に捨てた。何を隠そう、オーガフェイス、フォールンが侵入した区域は彼の所属する「外径行動課第三特務分室第一小隊」の担当区域だからだ。


 同じように朱燈も渋々立ち上がり、サンドウィッチを飲み込んだ。飲みかけの合成サイダーもまとめてゴミ箱へと捨て、言葉をかわさずとも息ぴったりに彼らは部屋から出動した。


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