第4話 東京サンクチュアリ
白廟の回廊を千景はコツコツと歩いていく。
しんと静まり返った回廊は電気も何もないため薄暗く、不気味な雰囲気をただよわせる。しかし廊下の左側から指すわずかな陽光のおかげで少しばかり活気を取り戻し、窓枠が影となって映し出された。
通行人は千景の他にはいない。時間は昼時、常ならば食堂や自室で昼ごはんにありつく時間だ。人が誰もいないのはさもありなんと千景は頷き、腕時計をジャケットの袖口にしまった。
右を見やれば平坦で何もない壁が、左を見やれば中庭の一本桜にたむろする自分と同世代か、それよりも数歳歳下の同業者が呑気に木陰で仰向けになり寝転がる姿が見えた。兵士の休息、あるいは子供の安息とでも言うべきか、とにかく彼らは彼らなりに
気を休ませて昼寝に興じられる彼らを羨ましく思いながら千景は回廊のT字路を右に曲がり、目的の部屋へと入っていった。部屋の前には表札が掲げられていて「外径行動課第三特務分室」と書かれていた。
部屋に入るとまず目に入ったのは昼間だというのに机の上に突っ伏し、子猫のような寝息を立てている白髪の少女だった。入り口から入ってすぐのところにある左右それぞれ六席ずつあるデスクのちょうど真ん中寄りの席に座っているせいで嫌でも目立つ。
千景と同じ色、同じデザインのジャケットを毛布代わりにして昼寝に興じる彼女は口元からよだれを垂らし、完全に無防備な状態を晒していた。近くまで寄ればほのかにシャンプーのよい香りまで漂ってくる。
外見は可憐で肌艶もよい。腰まで伸びそうな白髪を根本で結び、雑なポニーテールを作っているが、すべての髪を束ねているわけではなく、前髪や左右もそこそこに残し、現在進行形で干し草を食む山羊のように顔にかかった自身の横髪を口に含んでもごもごとしていた。
彼女以外に室内には誰もいない。千景が入ってきた時、彼を出迎えたのは他でもない現在進行形で爆睡を決め込んでいる彼女、白河
その朱燈を起こさないようにそっと千景は彼女の後ろを通り、向かい側の席に座った。慣れ親しんだ席に座り、一息入れつつ、ここに来るまでに買った缶コーヒーの蓋を開き、ぐいっと千景は飲み込んだ。
合成飲料にしてはマシな味、可もなく不可もなくほどよい不味さに千景ははにかんだ。わずか200ミリリットルの缶コーヒーは一瞬で空になり、しかし多量に入っているカフェインのせいで日盛りの眠気も蜘蛛の子を散らすように去っていった。
ようやく仕事ができるかな、と千景は机に向かい、机上のタブレットボードの電源を入れる。するとぼんやりとキーがボード上に浮かび上がった。三日しか空けていないはずなのに埃を被ったボードを払い、同じようにディスクディスプレイも払っていると、ボォーンという近所迷惑極まりない音を立ててディスプレイ上に青い背景が浮かび上がった。
シンプルな青い背景には「Tokyo Sanctuary」と書かれたロゴマークとその下に凝ったフォントで「Vidar」と浮かびあがる。それが消えると、今度はパスワードを入れてくださいとユーザ認証を求める画面へと移り変わった。
パスワードを手早く入力し、立ち上がるのを待つ中、ふと千景は立ち上がり、空き缶をゴミ箱へ捨てた。その傍、窓際に寄ってみると外には白亜の都市が広がっていた。
白亜の都市、人はそれをサンクチュアリと呼ぶ。
面積約600平方キロメートル、四方を守る地上高度100メートル、サンクチュアリ内高度50メートルの大城壁に守られた人類の楽園だ。城壁の内部には四方へ伸びる高速道路があり、数は少ないが、車両がいくつも走っている。
より階下に目を向けてみればさらに幾重にも道路が並び、この都市がただ広いだけではなく、地下深くまでその根を伸ばしていることがわかる。
千景が立つ場所からは見えないが、都市の中央には市内の行政を管理するサンクチュアリタワーと呼ばれる建造物があり、これは市内随一の高さを誇る。高さは250メートル、その頂上には都市を守る城壁上の各所から伸びる高圧電磁シールドの発生装置の力点が集約され、さながらサーカステントのように市の上空を守っていた。
サンクチュアリタワーの下部には高速道路の立体交差地点であるジャンクションを抱えており、それを初めて知った時、千景は昔読んだ古代ローマの歴史書のとあるフレーズを思い出した。すべての道はローマに通ず、とフランスの詩人、ラ・フォンティーヌが自書で述べた一文だ。サンクチュアリになぞられるならば、すべての道はサンクチュアリに通じるといったところだろうか。
そんなサンクチュアリは行政機関以外にも食糧生産プラントや民需、軍需の両工場はもちろん、学校をはじめとした教育機関も充実している。住民の居住区は、と聞かれれば窓の外から見えるいくつもの薄べったい屋根の立体物がそれだ。
均等に並んだそれらは窓は数えるほどしかなく、上層階を除けばほとんど穴らしい穴がないのっぺりとした構造物だ。それらが大体16棟ワンセットで立ち並び、高速道路はその間を縫うように通っていた。
居住区と呼ぶにはあまりにも閉鎖的で、密閉的。さながら豚小屋、あるいは鶏小屋のように見える跳び箱型の建物の中には一棟大体400人から600人ほどが住んでいて、部屋の間取りはどれも同じだ。差異はなく、特別感もない白い壁、白い床、白い天井の味気ない部屋だ。
一度中に入ってしまえば日光を浴びることは叶わない。上層階の自然園にでもいかない限り、あの中では日常的に太陽を拝めない。
あるいはあの中で育った子供の中には一度として外に出たことがない子供もいるかもしれない。見上げるのはいつもの天井、味気ない変わり映えのない白い天蓋、自然園で浴びれる陽光など微々たるもので、その暖かさを感じることができないままに成人するのだ。
もっとも、それは仕方のないことではあるのだ。
すべてはフォールンという脅威から人々を守るため、強度を確保するための致し方ない犠牲だ。
嫌な時代だな、と千景は一人、感傷に浸る。空き缶をゴミ箱へ捨てると、中が珍しく空だったのか、ストンとプラスチックの鳴る音がした。
席に戻ると普段から立ち上がりの悪いディスプレイがようやく千景のアカウントのページを開いていた。手早くキューマウスを動かし、報告書作成アプリを千景は起動させる。
開かれたアプリのページから新規作成を選び、題名、作成者名を記入するためカタカタと彼がタブレットボードを叩いていると、不意に向かい側の席に座る少女が大きく伸びをしてその上体を起こした。なにこれ、と自分の口に入った髪の毛を払い、彼女は人間らしからぬ赤目を千景に向けた。
ぼんやりとした半開きの眠気まなこを右へ左へ動かし、彼女は再び、後ろに向かって大きく体を伸ばした。うんと小さく喘ぎ、ディスプレイ目掛けて両手をめいっぱい伸ばす朱燈に千景は声をかけた。
「おはよ」
「ん、おはよ。よく寝た。体いたーい」
年頃の少女にしては声は低く、けだるい印象を受ける。だらしなくよだれを垂らし、机の上に置かれたティッシュボックスに手を伸ばした。
「夜勤?」
「まーねー。ほら、あたし優秀だから、優秀だから!」
くどいくらいに優秀アピールをする朱燈はうざったいくらい自慢げに胸を張る。ささやかで年相応の胸ふくらみに思わず千景は鼻で笑った。小馬鹿にした彼に苛立った朱燈は手を伸ばした先にあったティッシュボックスをつかむと、それを有無を言わさず唐突に彼に向かって投げつけた。
投げつけられたティッシュボックスを千景はひらりとかわし、あまつさえキャッチすると、バスケットボールにそれを見立てて彼女へ向かってトスした。ちぃ、と隠すつもりもなく舌打ちする朱燈は乱雑に2枚、3枚とティッシュボックスからティッシュを引き抜くと自身の口からこぼれたよだれをぬぐい、紙ごみになったそれを丸めて千景に投げつけた。
それらはすべて千景に避けられ、彼の背後の壁にポンポンと当たった。捨てといて、と理不尽な要求をする朱燈にため息をこぼしながら、しかし千景は不承不承と床に落ちたゴミを回収すると、自身の机の下にあるゴミ箱に放り捨てた。
外見は見目麗しいかもしれないが、朱燈はとても調子に乗りやすく、怠け癖がついている。いつかドジを踏まないか心配だ、と保護者にも似た眼差しを千景が向けると、彼女はいーだ、と歯茎を剥き出しにして威嚇した。
まるで猫のような、あるいは虐待を受けた狂犬のような女で、上だろうが、下だろうが態度はすこぶる悪い。いっそずっと寝てればよかったのに、と千景は唇を曲げた。
「そーいえば千景も仕事だったの?今日の朝いなかったじゃん」
しばらくしてオーバル端末に目を落としながら朱燈は聞いてきた。暇つぶしなのか本心から聞きたいのかはわからなかったが、無視する道理もなかったので千景はスカリビとの戦いをかいつまんで伝えた。
スカリビを単機で倒した、と聞いて朱燈はひゅーと唇を鳴らした。やるじゃんと賛辞の言葉をあげる朱燈は端末を腹に乗せ、パチパチと乾いた拍手を送った。
「おかげで両手両足だだ疲れだよ」
「まーあんたはそーだろーねー。おつかれさんさん」
ねぎらいの言葉を送られ、千景は肩をすくめた。死にかけたにしては安いとも感じたし、朱燈にやるじゃんと言われてもなんだかその後ろに「ま、あたしもできるけどねー」という言葉がついてきているようで、素直には喜べなかった。
しかし、一般にスカリビを単機で撃破とはそれ相応に評価される戦果である。
「中位種だからな。大変だったよ」
フォールンは人を喰らう化け物だ。その発生は西暦2253年にまで遡る。実に20年以上も昔の出来事だ。
最初こそ新種の生物とか、エイリアンだとか、軍の実験動物だ、などと騒がれ、ネットで動画や画像が拡散し、ブームとなっていたが、それが人を襲い人を喰らうと知れ渡ると人々のフォールンを見る目は変わった。
きっかけはバカな配信者が保護施設に侵入した挙句、食われてしまう姿を全世界にライブ中継してしまったことだ。それ以前にも人が襲われるという事件はいくつもあったが、死者が出たのはそれが初めてだった。
以後、フォールンを確保処分する行動が各国で見られ、その都度フォールンはより凶暴化していった。人々の恐怖が増していくに比例してその悍ましい姿へと変形していった。
わずか2年と少しでフォールンは爆発的に世界中に広がり、そして2255年の2月14日、「ベルリン・トロイメライ」と今では呼ばれている事件を機に世界中でフォールンに対する人類への攻撃が始まった。以来、20年間にわたり人類とフォールンの戦争は続き、いつからかその戦争はフォールン大戦と呼ばれるようになった。
未だかつてない異種との戦争。人類はよく戦った。しかし結局は敗退し、世界中の様々な土地にサンクチュアリと呼ばれる対フォールンを見据えた防衛都市を築き、その中に引きこもった。
今、千景らがいる東京サンクチュアリもその一つだ。旧日本領には東京サンクチュアリの他に三つのサンクチュアリがあり、それぞれ京都、函館、鹿児島に居を構えている。
スカリビはそんな人類を追い詰めたフォールンの中でも中位に位置する種だ。
一般的にフォールンは下位、中位、上位、最上位に大きく区分けされ、さらにその中でより細かく分類される。スカリビは中位の中でも強力な部類で、場合によっては上位級とも目される。
今回の任務、もとい依頼はサンクチュアリの外周区、俗に外周防衛領域に入り込んだスカリビの討伐ないし、撃退だった。場合によっては追い払うだけでも報奨金は得られたわけだ。
「無駄嫌いのあんたらしくないじゃん。どしたん、きまぐれ?」
「追い払うにしては大きすぎたからな。それにうまく作戦がはまったんだ、殺すし、殺した方が俺に払われる報奨金が増える。やるだろ」
「まぁそだね。追い払ってもどーせまた来るだろうし」
フォールンは原生の生物が巨大化したり、変形した姿をとる。いや、元は原生の生物だったものが、ある日突然フォールンへと転じるのだ。前触れもなく、唐突に白い仮面が頭皮を食い破り、諸々を飲み込んで現れるのだ。
その気性、習性は元となった生物に由来する。蛇ならば姑息に、獅子ならば勇猛に、猿ならば臆病に、鹿ならば機敏になる。そうしてフォールンはこの大地に降り立ち、人類へ牙を剥いた。
形態はそれぞれで異なるが、一貫して彼らは図体が大きく、仮面をかぶっている。かつて、森林伐採などで野山の動物が都市内に侵入する事態が幾度となくあったように、その巨体にこの星は狭く、彼らの縄張りと人類の生存圏は笑ってしまうほどくっきりとかぶっていた。
ある人物は言った。終末の刻がきた、と。666の獣が現れ、人類を断罪するのだ、と。
「全く笑えるね。それならわざわざシェルターの名前に
「ん?なんの話?」
「いや、フォールンって名前は皮肉が効いているなって話さ」
戦死者、あるいは堕天使という意味で使われる英単語。それは誰が言い始めたのかはわからないが、奇しくも罪人のように顔を隠す彼らをそういうもののように感じてしまう自分がいることが千景にはおかしくてならなかった。
なるほど不浄なものを殺すのは同じく不浄なものというわけだ。それはそうだろう。人間同士が殺し合えばそれが互角の勝負になるように殺し合いとは畢竟、同列の存在以外とは起きえない。上位による下位の殺害、それは殺し合いではなく、一方的な虐殺だ。
報告書を打つ手を止め、一人で感じ入る千景はしかし、顔が気持ち悪いと向かいの席に座っていた朱燈に脛を蹴られ、悶絶した。ただの靴ではなく軍用の、それも踏み抜き防止のための鉄仕込みの靴で蹴られるのはもはや蹴撃となんら変わりない。
うごごご、と唸る千景をよそにイヤーキャップまで付けてキャラデコがされたオーバル端末に目が釘付けだ。よほど面白い動画を見ているらしく、口角が上がりにまにまと滅多に見せないわけではないが、そう頻度は多くない種類の笑みを浮かべていた。
自分を蹴ったことすら忘れている様子の彼女に対して聞こえるようにはぁ、と盛大なため息を吐く。だがあいにくと彼女はそれまで片耳にしか付けていなかったイヤーキャップをもう片方にも付けて千景のため息を完全に無視した。
昔あったイヤフォンやヘッドフォンなどと違ってイヤーキャップの遮音性は格別だ。立体音響に近い音調で音を脳内に向かってダイレクトに流すという構造上、一度付けてしまえばよほどの大音量でもなければ聞こえない。
お手上げ、とばかりに千景は肩をすくめ、例の報告書作りに意識を戻した。
書きかけの報告書を見やればまだ書くべき内容の半分も書けていない。使った弾丸の種類、フォールンの大きさ、そのF.Dレベル、死体の処理はどうした云々と様々な内容をカチャカチャとタブレットボードのキーを叩いて入力していく。
この仕事、端的に言うならば
もっとも、実際に依頼主なり依頼した企業なりが実地見分をするわけではない。あくまでもこの報告書を頼りに役所の職員が書類に不備はないか、事実ベースで綴られたものかを確認するにすぎない。
なにせ、目の前で堂々と業務のサボタージュをしている朱燈ですらどうにかなっているのだ。フォールンを討伐できればそれでいい、という社風や依頼主の思考の浅薄さが滲み出ていた。
ひとしきり報告書を書き終え、千景が時計を確認すると午後2時に針が迫っていた。仕事に没頭するあまり忘れていたが、昼ごはんをまだ食べていなかったことを思い出し、席を立とうとしたが、ついさっき朱燈に蹴られた箇所が痛み、座席から浮いた尻はすぐさま出戻りしてしまった。
大して痛みはしないが、やはり動かすと痛い。ヒビでも入ってんじゃないか、とどぎまぎする傍ら、その傷を負わせた張本人がうーんと本日何度目かもわからない盛大な伸びと共に立ち上がり、左右のイヤーキャップを机の上に置いた。
純真無垢、あるいは天真爛漫。いや、そんなあどけない言葉では白河 朱燈は語れなかった。
人間とは迂遠な白い髪と赤い瞳、よしんば
カラーコンタクトか、目に色素を混ぜるか、はたまた遺伝子組み換えでもしなければ実現できない色だ。生来のものならばそれこそ遺伝子組み換えでもしなければ実現できない。
もっとも、実際に彼女は元から白髪だったわけでも、赤目だったわけでもなく、すべて後天的に獲得したものなのだが。
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