第15話 VS ネメア

 スコープ越しにその威容を観察し、千景はため息をこぼした。


 ネメア。それはこの時代を代表するフォールンの一体だ。


 外見はライオンに近く、象ほどもある巨体だ。体毛は赤いが、色合いは朱色に近い。立派な立て髪はパリパリに逆立ち、その一本一本が太く、まるで炎を首に巻いているようだった。


 仮面は鼻部以外の顔面をすべて覆っており、上顎と下顎を覆う箇所は一部が人の腕ほどもある長い牙の形をしていた。頬の左右からは足元に向かって巨大な板が伸びており、それは仮面の他の部分と同じく青白かった。


 おおよそ、仮面の異質さを除けばその外見は大型化したライオンという評価が正しい。しかしそれだけではネメアはフォールンの上位種に認定されていない。


 ネメアという生物を語る上で何よりも外せないのは背部にある奇形、F器官とよばれる特殊な外部臓器だ。ネメアが持つそれは左右一対の腕部とその先端にくっついている笹の葉に似た楕円体の板だ。


 腕部の長さは2メートル強、楕円体の板は縦の長さが5メートル以上、幅2メートルもある大きなもので、正面から見ると翼のようにネメアの左右へと広がっている。色はやや黒味がかった青銅色で、楕円体の先端は鋭く尖っていた。


 中位種以上のフォールンは多くが保持している明確な既存の動植物とは違う特殊な器官であるF器官、それは種によって用途はバラバラで統一性はないが、多くの場合、フォールンが体内のF因子を利用して物理現象を引き起こすために使われる。例えばスカリビの頭部にあるこぶは音波を発し、反響音を聞き取るための索敵器官だ。


 しかしネメアのF器官は違う。攻撃性を秘めた凶悪な殺戮器官だ。


 ネメアのF器官は翼に似ている。しかしそれは鳩や鷹の持つ艶やかで華やかな羽毛たっぷりの翼ではなく、曲剣シミターを彷彿とさせる長くするどい一本剣に笹の葉を思わせる分厚くも薄べったい盾が突き刺さっていた。それを広げると翼に見える。実際に飛ぶわけではないにしても、飛びそうな気配を感じさせる。


 初見、千景はそのひどい有様に目を見張った。ネメアのある種のチャームポイントと言えるF器官は片側が発泡スチロールのようにパックリと割れていた。表面もズタズタになっていて、動かすと破片がパラパラとこぼれ落ちていく。もう片方はひび割れきしむ音が聞こえてきそうだった。


 落ちた天使、あるいはミロのヴィーナスもしくはサモトラケのニケといったところか。フォールンという名に恥じない翼の傷つきっぷりに目を奪われるが、もちろんF器官以外にも傷跡がひどい。


 外皮には深い傷が幾重にも重なって刻まれており、仮面も一部が欠けて、左目の周辺が崩れていた。頬から伸びる独特な板も右側のものが強引に捻じ曲げたように割れている。


 傷跡の深さはただのキャットファイトの結果ではない。壮絶な死闘、おそらくは骨肉の争いの結果だ。ネメアの生態を前提にして千景はそう推測し、その動静を伺った。


 ネメアの行動を注視する傍ら、彼の視線は高度を上げていくヘリへも向けられた。ヴィーザルの傭兵でもなければこうして間近で見ることはないだろう、上位種を前にして彼らがパニックを起こしていないか、それが心配だった。


 ヘリの下部に取り付けられている対地防御用の機関銃ではネメアを仕留めることはできない。乗り込んだ隊員達の短機関銃でもそれは同じだ。


 盛大に光を帯びて現れたネメアの視線は即座に離昇していマルチローター機へと向けられた。グルグルと威嚇のつもりか、喉を鳴らし前屈みの姿勢を取った。


 浮上していくヘリとネメアとの間を交互に見ていくのは精神衛生上、あまり宜しくはなかった。ドキドキと心音が鳴り止まず、奥歯は絶えずカタカタと言いっぱなしだった。


 そんな千景の焦りと動揺を知ってか、知らずか屈んで間もなくそれまで左右へ広げていたネメアのF器官が動き、それまで上空に向けられていた側の尖部が前方へ向けられた。緩慢に、しかしはっきりと向けられたそれはまさしく砲身であった。


 千景は目を見張る。イヤーキャップ越しに朱燈の息を飲む声が聞こえた。


 相棒の緊張が伝わり、千景は意を決してトリガーガードから人差し指を滑らせ、トリガーに指をかけた。そして一拍も置かず、彼は引き金を引いた。


 「つ」


 銃声が廃墟にこだまする。張り詰めた空気を切り裂いて音速を遥かに超える速度で飛翔する銃弾が放たれた。


 それは銃声とほぼ同時にネメアを襲い、その外皮に命中した。命中した箇所から小さな煙が上がる。乱回転する弾丸が命中したことで生じた摩擦熱。対物用ライフルの一撃を喰らって、ネメアはしかし絶叫ひとつ上げやしない。ただ苛立たし気に首を正面から千景が潜んでいるビルへと向け、歯茎を剥き出しにして唸った。


 自身に注意が向いたことを確認し、千景は即座にビルの奥へと走った。二撃目を与えてやろうなど毛頭なく、踵を返して全力で建物の奥へと退避した。


 脱兎のごとき逃走、その後ろ姿を向かい側のビルに潜んでいた朱燈も目にした。しかしいつもの軽口を彼女は叩かない。なぜなら、千景の行動は何一つ間違っていないからだ。


 千景がつい先ほどまで腰を下ろしていた窓目掛けて、ネメアが振り向き、F器官を指向する。指向してすぐ、ネメアの全身の毛が逆立ち、赤色の表皮より濃い、真紅の神経が浮き上がった。。おおよそ生物のものとは思えない人の指ほどの太さがある特殊な神経、それは内部で光を発し、背部へとその光は向かっていた。


 光が集まるにつれ、F器官の周りを細い光線が取り巻き始めた。蛇行し、ピカピカと光る謎の光線。それは紛れも無い電流、周辺の塵や埃にぶつかり、可視化された赤色のいかずちだ。


 臨界まで達した雷はネメアの咆哮とともに放たれる。赤色の雷撃、おおよそ生物の放った攻撃とは考えられない一撃は眩しく、何よりけたたましい音を帯びて、ビルに命中した。


 放たれた太い赤色の雷撃は物理的なエネルギーへと転化され、千景が潜んでいた建物の一角を黒く染める。発射と着弾はほぼ同時、エネルギーを貯めるまでにかかった時間は10秒程度で、千景がその場から瞬時に退避していなければ間違いなく消し飛ばされていただろう。


 発光は一瞬のことだ。一撃が数万ボルトをはるかに超える出力を秘めておりただの一撃、その余波だけでも人体に有害な要素は取り揃えられていた。


 雷撃をゴーグル越しで見た朱燈は発光が徐々に収まっていくのを確認し、改めて、自分の目の前に両手を開き、ちゃんと視覚系が機能しているかを確かめる。同じようにゴーグルや時計、自身の武器がきちんと動くかどうかも確認した。


 久方ぶりに見るネメアの「砲撃」を前に朱燈は苦い笑みをこぼした。もし今の一撃がヘリに向けられていたらと思うと胸をこそぎ落とされる気持ちになる。


 もしヘリに「砲撃」が向けられていれば着弾を待たずにまず人は死ぬだろう。そしてヘリもまた強烈な雷撃によって木っ端微塵と成り果てる。ヒュルヒュルとローターが力無く回転し、オブジェなり、近くのビルなりに激突し、さらに大炎上を起こす。そんな未来が易々と想像できた。


 そんな破壊の権化みたいな攻撃を自分に向けさせ、あまつさえ回避できたのは僥倖を通り越し、奇跡的と言えた。

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