第6話 VS ネメア

 スコープ越しにその威容を観察し、千景はため息をこぼした。


 ネメア。それはこの時代を代表するフォールンの一体だ。


 外見はライオンに近く、象ほどもある巨体だ。体毛は赤いが、色合いは朱色に近い。立派な立て髪はパリパリに逆立ち、その一本一本が太く、まるで炎を首に巻いているようだった。


 仮面は鼻部以外の顔面をすべて覆っており、上顎と下顎を覆う箇所は一部が人の腕ほどもある長い牙の形をしていた。頬の左右からは足元に向かって巨大な板が伸びており、それは仮面の他の部分と同じく青白かった。


 おおよそ、仮面の異質さを除けばその外見は大型化したライオンという評価が正しい。しかしそれだけではネメアはフォールンの上位種に認定されていない。


 ネメアという生物を語る上で何よりも外せないのは背部にある奇形、F器官とよばれる特殊な外部臓器だ。ネメアが持つそれは左右一対の腕部とその先端にくっついている笹の葉に似た楕円体の板だ。


 腕部の長さは2メートル強、楕円体の板は縦の長さが5メートル以上、幅2メートルもある大きなもので、正面から見ると翼のようにネメアの左右へと広がっている。色はやや黒味がかった青銅色で、楕円体の先端は鋭く尖っていた。


 中位種以上のフォールンは多くが保持している明確な既存の動植物とは違う特殊な器官であるF器官、それは種によって用途はバラバラで統一性はないが、多くの場合、フォールンが体内のF因子を利用して物理現象を引き起こすために使われる。ネメアのF器官もその類だ。


 初見、千景はそのひどい有様に目を見張った。


 ネメアのある種のチャームポイントと言えるF器官は片側が発泡スチロールのようにパックリと割れていた。表面もズタズタになっていて、動かすと破片がパラパラとこぼれ落ちていく。


 F器官以外にも傷跡がひどい。


 外皮には深い傷が幾重にも重なって刻まれており、仮面も一部が欠けて、左目の周辺が崩れていた。頬から伸びる独特な板も右側のものが強引に捻じ曲げたように割れている。


 傷跡の深さはただのキャットファイトの結果ではない。壮絶な死闘、おそらくは骨肉の争いの結果だろう、とネメアの生態を知る千景は推測し、その動静を伺った。


 ネメアの行動を見守る傍ら、彼の視線は高度を上げていくヘリへも向けられた。ヴィーザルの傭兵でもなければこうして間近で見ることはないだろう、上位種を前にして彼らがパニックを起こしていないか、それが心配だった。


 ヘリの下部に取り付けられている対地防御用の機関銃ではネメアを仕留めることはできない。乗り込んだ隊員達の自動小銃でもそれは同じだ。


 盛大に光を帯びて現れたネメアの視線は即座に離昇していマルチローター機へと向けられた。グルグルと威嚇のつもりか、喉を鳴らし前屈みの姿勢を取った。


 浮上していくヘリとネメアとの間を交互に見ていくのは精神衛生上、あまり宜しくはなかった。ドキドキと心音が鳴り止まず、奥歯は絶えずカタカタと言いっぱなしだった。


 そんな千景の焦りと動揺を知ってか、知らずか屈んで間もなくそれまで左右へ広げていたネメアのF器官が動き、それまで上空に向けられていた側の尖部が前方へ向けられた。緩慢に、しかしはっきりと向けられたそれはまさしく砲身であった。


 千景は目を見張る。イヤーキャップ越しに朱燈の息を飲む声が聞こえた。


 相棒の緊張が伝わり、千景は意を決してトリガーガードから人差し指を滑らせ、トリガーに指をかけた。そして一拍も置かず、彼は引き金を引いた。


 「つ」


 銃声が廃墟にこだまする。張り詰めた空気を切り裂いて音速を遥かに超える速度で飛翔する銃弾が放たれた。


 それは銃声とほぼ同時にネメアを襲い、その外皮に命中した。命中した箇所から小さな煙が上がる。乱回転する弾丸が命中したことで生じた摩擦熱。対物用ライフルの一撃を喰らって、ネメアはしかし絶叫ひとつ上げやしない。ただ苛立たし気に首を正面から千景が潜んでいるビルへと向け、歯茎を剥き出しにして唸った。


 自身に注意が向いたことを確認し、千景は即座にビルの奥へと走った。二撃目を与えてやろうなど毛頭なく、踵を返して全力で建物の奥へと退避した。


 脱兎のごとき逃走、その後ろ姿を向かい側のビルに潜んでいた朱燈も目にした。しかしいつもの軽口を彼女は叩かない。なぜなら、千景の行動は何一つ間違っていないからだ。


 千景がつい先ほどまで腰を下ろしていた窓目掛けて、ネメアが振り向き、F器官を指向する。指向してすぐ、ネメアの全身の毛が逆立ち、赤色の表皮より濃い、真紅の神経が浮き上がった。。おおよそ生物のものとは思えない人の指ほどの太さがある特殊な神経、それは内部で光を発し、背部へとその光は向かっていた。


 光が集まるにつれ、F器官の周りを細い光線が取り巻き始めた。蛇行し、ピカピカと光る謎の光線。それは紛れも無い電流、周辺の塵や埃にぶつかり、可視化された赤色のいかずちだ。


 臨界まで達した雷はネメアの咆哮とともに放たれる。赤色の雷撃、おおよそ生物の放った攻撃とは考えられない一撃は眩しく、何よりけたたましい音を帯びて、ビルに命中した。


 放たれた太い赤色の雷撃は物理的なエネルギーへと転化され、千景が潜んでいた建物の一角を黒く染める。発射と着弾はほぼ同時、エネルギーを貯めるまでにかかった時間は10秒程度で、千景がその場から瞬時に退避していなければ間違いなく消し飛ばされていただろう。


 発光は一瞬のことだ。一撃が数万ボルトをはるかに超える出力を秘めておりただの一撃、その余波だけでも人体に有害な要素は取り揃えられていた。


 雷撃をゴーグル越しで見た朱燈は発光が徐々に収まっていくのを確認し、改めて、自分の目の前に両手を開き、ちゃんと視覚系が機能しているかを確かめる。同じようにゴーグルや時計、自身の武器がきちんと動くかどうかも確認した。


 久方ぶりに見るネメアの「砲撃」を前に朱燈は苦い笑みをこぼした。もし今の一撃がヘリに向けられていたらと思うと胸をこそぎ落とされる気持ちになる。


 着弾を待たずにまず人は死ぬだろう。そしてヘリもまた強烈な雷撃によって木っ端微塵と成り果てる。ヒュルヒュルとローターが力無く回転し、オブジェなり、近くのビルなりに激突し、さらに大炎上を起こす。そんな未来が易々と想像できた。


 『壊れててもこれか。連射が効かないだけマシかな』


 乾いた声で朱燈はうめく。平時の彼女らしからぬ諦観を感じさせる言動、イヤーキャップ越しに途切れ途切れの彼女のうめきを聞いていた千景もそれには同意せざるをえなかった。


 ネメアの放った雷撃は、まっすぐに数万ボルトの状態を保ったまま、ビルに向かって放たれた。直撃とほぼ同時にそれまで停止していたビル内の電源が数秒だけ機能を取り戻し、千景が見上げていた天井の蛍光灯がパッパと点滅した。


 はるか向こう側でエレベーターが起動した音が聞こえる。他にもパチン、パチンと残されていた家電の回路が焼き切れて火花が起きたりした。


 放った直後は数千万ボルト程度しかない電気も周囲のF因子を巻き込めば数億ボルトにまで電圧が上がっていく。換算して一体何ワットだろうか。


 「朱燈、聞こえてるか?」

 『あー、あー。はいどーぞ』


 物憂気に天井を見上げながら、千景は襟元のマイクを口元に近づける。彼の声に反応して、気だるそうな声で朱燈が返した。


 「とりあえず、第一射は外させたぞ。俺はしばらく役立たずだから、二射目はそっちでどーにかしてくれ」


 ネメアの持つF器官、雷砲殻らいほうかくは二枚一対の放電器官だ。送電神経を通してネメアの体内にある特殊な電気器官であるレールフ器官から発生した電力は損なうことなく雷砲殻へと送られる。そのレールフ器官は心臓や腎臓といった単一の臓器ではなく、ネメアの体に覆い被さるように広がっていて、エネルギー充填時に見えた太い神経がその一部にあたる。


 言うなればネメアの体全体が一つの発電装置なのだ。一部の小さな器官で発電をするデンキウナギなどとは比べ物にならない発電量は絶死の一撃を放つ。


 反面、その一撃を放った直後はいかな上位種のフォールンといえど、体力の消費は避けられない。体内に溜めていた電気を大量に放出し、再充填をするにはそれなりの時間とF因子を必要とする。


 砲撃後、ネメアが動かない理由はまさしくそれだ。ほんの十数秒だが、直立不動のまま停止し、まぶたすら動かそうとしなかった。


 動けない理由は他にもある。例えば、生物は基本的に脳から神経を通して電気信号を送って体を動かしているが、ネメアの強烈な雷撃はそれを打ち消してしまう。だから砲撃中と砲撃後の十数秒間、ネメアは動くことができないどころか、思考することもままなり、文字通りボーっと突っ立っている状態になるわけだ。


 ヴィーザルに所属する傭兵であれば常識、しかし間近でネメアのような上位種と戦う機会がない防衛軍からすればそんなものは座学のテストくらいでしか使わない知識だ。例によって例のごとく、通信に割り込みが入る音がして、はぁ、と千景はため息をついた。


 『室井中尉!生きているか!』

 「生きていますよ、立山中尉」


 焦りと安堵が入り混じった声の立山に仰向けのまま千景は答える。立山から敬語がなくなり、動揺が伺えた。


 焦る立山を他所に仰向けのまま千景は会話を続けた。どのみち向こうからはこちらの姿など見えない。どこでどんな体勢を取っていようと問題はなかろう。


 矢継ぎ早に立山はネメアについて聞いてくる。その生態、その能力についてあれこれと彼は質問してきた。それは部隊長としては間違いではない。間違いではないが、今は時間のロスが惜しかった。


 「すいません、ちょっと忙しいので」


 強制的に立山との通信を切断し、千景は朱燈にしてほしいことを尋ねる。彼女は即答した。


 『牽制して。それできるでしょ』

 「マジかよ」


 七階の窓からこっそりとネメアの様子を伺いながら、千景は朱燈の無茶振りにため息をついた。銃弾が全く効かない相手様を牽制しろ、注意を惹けとは文字通り殺文句もいいところだ。しかし目下、最強のアタッカーがそうしろと要求するからにはやるしかない。


 ため息混じりに千景は窓枠から身を乗り出し、銃口をネメアに向かって照準した。傷ついている身の上で雷撃を放ったせいか、感覚の戻りがかなり遅い。視力すらまだ戻っていないのか、随分と近い距離で銃口を向けているのにピクリとも動かなかった。


 千景は有無を言わさず、露出した部位を狙う。彼がまず狙ったのはネメアの仮面の中でも唯一露出した鼻の周辺の外皮だ。


 「GRRRRRRRRRRRR!!!!!!」


 火花が散り、一瞬だけ鈍色の炎がネメアの外皮に起こった。外皮が熱によって爆ぜ、とち狂ったネメアの怒号が建物の中を反響する。


 いかに硬かろうと顔面、特に眼球や鼻の周りは脆くなる。眼球はいわずもがな、鼻は呼吸をするという性質上、適度に柔軟性がなくてはいけない。


 生物の歴史上、全身が硬くてなおかつ素早いという生物は存在しなかった。硬さとはすなわち厚み、必然、速度を得るためには軽くならなくてはいけない。


 ネメアの場合、それは鼻部や腹部といった正面からでは死角になる位置だ。だから千景の弾丸は容易くネメアの鼻をえぐり、狂乱状態を起こさせた。


 「お目覚めだ!そら、そろそろ動くぞ!!」


 ネメアの瞳孔に光が宿った。虚だった先ほどとは打って変わって、獰猛な顔つきへと変わり、その視線は千景に釘付けになった。


 猛々しく吠え、ネメアは千景目掛けて走り出す。大地を蹴り、F器官をまさかりのように振り上げて迫るネメアめがけて、千景は牽制の意味を込めて弾丸を放った。


 狙う必要すらない長至近距離、しかし弾丸を撃ってすぐ千景は踵を返して建物の奥へと走った。容赦無く振り下ろされたネメアのF器官が千景が潜んでいたビルに打ち付けられたのはその直後のことだった。


 ふわりと体が浮くほどの衝撃と激しい破壊音が建物全体に伝わる。脆くなっているとはいえ、鉄筋コンクリート仕立ての高層ビルをショベルカーかブルドーザーかのようにガラガラと砕いているだろう想像を嫌でも掻き立てる、悪趣味な衝撃と破壊音だ。


 背後から迫るその音は心なしか徐々に近づいているように感じられた。それは決して杞憂やネガティブ思考の産物ではない。


 ガン、ガンと建物が大きく横に揺れた。引き忘れていたボルトを手前に引き、薬莢を排出する傍ら、千景は窓へと視線を向けた。


 彼が窓へ視線を向けるとほぼ同時に割れかけていた窓枠を大きくぶち抜いて、黒色の塊が放り込まれた。黒色の塊は瓦礫を撤去するかのように右から左へと薙ぎ払われ、直後にもう一つ、同じ形状の黒い塊が開けられた穴から屋内に入ってくると、今度は地面に打ち付けられた。


 「マジかよ」


 黒い塊の正体、それはネメアのF器官だ。片側が破損しているとはいえ、片翼だけでもネメアの自重を支えるだけの膂力がある。


 床に打ち付けられたF器官をハーネス代わりにしてネメアは千景が立つ六階まで登ってきていた。その執念に、千景はマジかよ、と再びつぶやいた。


 ダイナミックエントリーなんて言葉じゃ片付けられない。穴に逃げ込んだネズミがホッと息をつくも束の間、猫が無理やりその穴を膂力でかっぴろげてきた。


 マジかよもマジかよである。


 予想していたシナリオとはだいぶ違うネメアの行動に動揺しながらも、千景はしかし笑みを忘れなかった。彼と朱燈の当初の任務は孤立した防衛軍一個小隊の救助だ。彼らが無事にサンクチュアリに送り届けられればもうその時点で千景らにとっては勝ちなのだ。


 ネメアというイレギュラーの存在こそあったが、傷を負った個体であれば撒くことは容易だ。あとはぐだぐだと追いかけっこに興じれば


 そうと決まればすぐ行動、と急いで千景は七階へと移動しようと階段に足をかけた。幸い、崩落箇所は少なく、影槍を使わずとも登れそうな階段だった。小さな幸運に喜び、さっと千景は移動しようとした。


 その時だった。不意に窓の方向から無数の銃撃音が聞こえてきた。


 なんだ、と千景は振り返る。嫌な予感がしたからだ。


 ——千景が振り返ったまさにその時、防衛軍の立山らはヘリから身を乗り出し、自動小銃による銃撃を行っていた。五十口径のライフル銃が合計五門、ヘリの先端下部に取り付けられた対地掃討用のガトリング機銃が一門の計六門による一斉掃射だ。


 溜まりに溜まっていた鬱憤を晴らすかのように上空150メートルから人類の叡智が火花を散らした。オレンジ色のマズルフラッシュがパッパと点滅し、その衝撃によって粉塵が巻き上がる。


 振り返ったその時、千景の視界はほとんどが灰色に包まれ、何が起こっているのかわからず、千景は外にいる朱燈に通信を繋いだ。開口一番、彼女から飛んできたのは悲痛な叫びだった。


 『千景、まずい!防衛軍のやつら、ヘリから機銃掃射してる!』

 「はぁ!?どんだけネメアのこと知らねーんだよ!」


 いつにも増して切羽詰まった朱燈の金切り声に千景は外の様子を即座に把握した。舌打ち混じりに防衛軍が使っている周波数にイヤーキャップを合わせる。


 ネメア相手に銃器を使う。それがどれだけ無謀なことか、防衛軍の人間は理解していない。伝えなかった自分も自分だが、戦う相手のことを全く調べようともしない防衛軍の大鑑巨砲主義にも苛立ちを覚えた。


 だからだろう。通信がつながると同時に千景は平時の慇懃な敬語を抜きにして感情のままにマイクに向かって怒鳴った。


 「何やってんだ、あんたら!!!」


 喉を痛めるんじゃないか、と心配になるような大声で怒鳴る千景。それとは対照的な落ち着いたナイスガイ風な声が返ってきて、さらに千景は苛立ちをつのらせた。


 『どうした、室井中尉。我々は貴官の援護を』


 日本という国には古来より、ありがた迷惑という言葉がある。他人のためにやったことが必ずしもその人のためになるとは限らない。


 そんな言葉を脳裏によぎらせなくてはならないほど、状況は逼迫していた。というか、逼迫する状況に千景と朱燈を追いやっていた。


 まさか自殺願望者の救助依頼などとは夢にも思っていなかった千景は諦観も込めて頭上を仰いだ。あいにくと空は見えず、灰色の天井が彼の視界を遮っていた。よしんば空が見えても黄ばんだ汚染物質まみれの空だろうが。


 「あのなぁ!ネメアは」


 『隊長!煙が晴れます!へへ、これで』


 割り込む形で防衛軍の誰かの声が千景の耳に聞こえてきた。馬鹿野郎、と千景は心の中で叫んだ。


 粉塵が晴れ、ヘリから眼下を見下ろす防衛軍の兵士達はその視界いっぱいにネメアの姿を捉えた。同時に彼らは多様な声でうめき、阿鼻叫喚と化した。


 違う声が次々と耳に入ってくる。バカな、とか、そんな、というありふれたセリフを吐く隊員がほとんどの中、立山だけは震え声で千景に自分の目の前にある光景、つまり千景も見ているだろう光景について言及した。


 無傷。戦闘前に負っていた傷、千景の狙撃によって破壊された鼻部の傷を除けば、ネメアは全く傷を負っていなかった。銃創はおろか、かすり傷ひとつなく、平然としている赤い大君。


 鷹揚にF器官をビルから引っこ抜き、広げるネメアの意識は狩りの邪魔をしに現れた天空の蜻蛉へと向けられる。垂直直立のまま、ネメアは視線を彼らに向け、低い声で唸り声を上げた。


 「つ。すぐに上昇!でないと撃ち落とされるぞ!!」

 『上昇だ!上昇しろ!』


 立山の悲壮めいた声が聞こえる。手遅れかもしれないが、それでも喚起することしか千景にはできなかった。


 千景の悔恨を他所にネメアは大地、ではなくビルを蹴って、垂直上昇を始めた。物理学者が見れば、腹を抱えて笑いそうな垂直移動、1トンを遥かに超える重量を持つ生物が、ただ己の筋力だけで80メートル以上もあるビルを駆け上っていた。


 その速度は尋常ではない。ビルの枠組みをネメアが蹴るたび、踏みしめるたびに崩落し、粉塵が舞う。赤く迸る雷光を見に纏い駆け上るその姿は空を目指す稲光のごとくだった。


 向かってくるネメアめがけてヘリからの応射は続く。死に物狂いで放たれる無数の弾丸、しかしそのどれもがネメアに当たることはない。


 弾かれているのではない。弾丸が風圧で吹き飛ばされているのでもない。まるで見えない軌跡が弾丸を誘導するかのようにネメアに向かう全ての攻撃はその巨躯を避けてしまう。


 『なぜ、当たらないんだ!!こんなに撃ってるのに!!』

 『はやく!早く!速く!』


 弾丸は外れる。防がれる。逸れる。駆け上るネメアを止めることはできない。迸る銃火も重力も赤色の大君を止めることは叶わない。


 ぽっかりと空いた六階の穴から身を乗り出して、千景はその後ろ姿を睨んだ。ネメアが奔ると同時に電流がビルに走る。そのせいか、ただでさえ赤くて目立っているのにより一層明るく見えた。


 ネメアが大地を疾駆する時、その姿は赤い閃光にも例えられる。欧州ではネメアのことを「緋色の閃光」と呼ぶのだという。イヤーキャップ越しに聞こえてくる防衛軍兵士の悲痛な叫びから意識を逸らしたくて、ついそんなことを考えてしまった。


 どのみち、もう救えないのだから。


 ヘリはゆっくりと上昇しているが、思うようにならないのか、操縦士はなんでなんでと連呼している。ガチャガチャとマイク越しに彼が操縦桿を押したり引いたりする音が聞こえた。


 悲痛な叫びがさらに重なって聞こえてくる。銃声、装填音、罵声。引き金を絞ったまま、カスカスと空気が漏れる音もちらほらと。


 頭上の敵目掛けて千景はライフルを構え、即座に引き金を引くが、やはり彼の弾丸もネメアには当たらない。当たる数十センチ手前で軌道を変え、亀の甲羅をなぞるようにあらぬ方向へ進んでしまう。


 長距離狙撃ライフルを持つ千景が手を出せないならば、さらに射程が短い朱燈にはもはや雲上の戦いだった。彼女は頭上で起こるだろう惨劇を予感し、諦観めいた視線を向けた。


 ものの数十秒でネメアはビルの屋上までたどり着くと、勢いに乗ったまま、宙へ飛び上がった。驚異的なジャンプ力で数十メートルの距離を縮め、ヘリとの相対距離は50メートルもなかった。


 元来、ネコは高いジャンプ力を持つことで知られるが、それを鑑みても驚異的な距離だった。F因子による瞬間的な脚力上昇を加味しても、どうやって、とネメアの尾を見つめながら千景は訝しんだ。


 飛び上がったネメアはそれまで広げていたF器官をたたみ、砲撃モードを取る。だが、今度は先ほどのような溜めの動作は見せない。瞬間的に赤雷がネメアの体を包んだかと思えば、次の瞬間それはF器官へと集中する。


 滞空時間は数秒とない。その間、天性の勘と野獣の本能がネメアに照準、固定、発射の三動作スリーアクションを可能とさせる。


 バスケットボールにおける滞空時間が長いとはすなわちプレイの自由度の高さを言う。人間では不可能な精密照準を理科の知識を一ミクロンも知らないネメアが可能とするのはまさしく皮肉と言えた。


 放たれる雷撃、それは埒外の暴力そのものであった。F器官を砲身に見立てて、大気を切り裂いて電流が迸る。ボルト換算で数百万ボルト。本来であれば50メートルという距離を完走できる出力ではない。


 しかしネメアが放った電撃はF因子を巻き込んで減退するどころか、増幅される。大気という天然の絶縁体すら貫いて、ネメアが放った容易にヘリに届き、その後部ローターに命中した。


 ワット換算で数キロワットに匹敵する攻撃だ。ヘリに施された落雷対策も意味をなさない。


 直撃と同時に後部ローターは爆発を起こし、次いで装甲へその魔の手は広がっていく。無数の雷槍がヘリを貫き、その機能を奪っていく。


 操縦士の悲鳴、投げ落とされる隊員達の姿、爆炎の香り、肌を撫でる爆風、舌先につんとくる苦い火薬の味。五感すべてがヘリコプターが落ちると千景に告げ、だからこそ千景はライフルに次弾を装填して、ビルから降りた。


 ヘリのローター音がヒュヒュルと遠ざかっていく。目視でも確認し、あれはもうダメだなと悟った。搭乗員ももう誰1人として生きてはいまい。炎上する機材、爆発の音だけが間近に聞こえるばかりだ。


 宿願を果たしたネメアの咆哮が市内にこだます。歓喜の咆哮だ。


 ブツンと何かが切れる音が千景のすぐ真横から聞こえた。


 振り向こうとはしなかった。無理向いても意味がないから。


 「徒労Vainか」


 なんともなしに耳の淵をなぞると、イヤーキャップにぶつかった。音が聞こえなくなったそれを意味もなくさすっていると、前方から足音が聞こえた。


 視線を前方へ戻すと、視線の先50メートル先にネメアがいた。


 ビルの屋上から跳躍したネメアはその勢いのままにオブジェに着陸し、ビルの中へと姿を消した。鉄筋コンクリート製のビルもさすがに上空から落ちてくる1トン以上の重量には耐えられなかったと見える。そのまま地面に打ち付けられて死ねばいいのに、と願っていたが、現実はそう甘くはなかった。


 千景がその姿を目にした時、ネメアは悠々と自尊心を回復した王者の威風を漂わせて暗闇の中から現れた。相変わらず、仮面に傷は入ったまま、F器官や仮面近くの装甲も破損したままだが、それでも狩りの愉悦、強者の自信を取り戻したネメアは堂々と、生物らしからぬ尊大さで千景の前に立った。


 その態度が千景は気に入らなかった。


 元来、生物とは怯えるものだ。人はもちろん、ネコもネズミも犬も何もかも。恐怖、それは生物すべてが持ちうる根本的な感情だ。どんな生物だって、どんな形であれ持っている。


 目の前のネメアもそうだった。最初に現れた時は上空のヘリを警戒し、またその周囲に目を配った。だから千景の初弾がそれほどの威力でもないのにオーバーな反応を示し、鼻骨を砕いた彼を猛り狂って追いかけた。


 しかし今のネメアは?


 「気に入らないな、その余裕」


 羽虫程度、ネズミ1匹程度が取り残されたと考えているのか、周囲に目を配ることすらしない。優位にいるから、殺せる立場にいるからこその余裕。


 それが無性に苛立たしく感じられ、唾を吐きたくなった。


 「朱燈。そっちで数値は計測してるか?」

 『とーぜん。基準値以下。多分、もう大丈夫』


 よっしゃ、と千景は獰猛な笑みを浮かべる。仁王立ちのまま、ライフルを構えた。傍目から見れば滑稽な光景だ。槍一本で雷に挑む勇者のようだろう。


 千景の姿にネメアも笑う。表情筋に乏しい猫科であるため、それほど器用な笑い方ではなかったが、歯茎を剥き出しにして、声にならない声でネメアは笑った。


 直後、千景はライフルの引き金を引いた。ネメアの優れた動体視力であろうと、距離50メートルの超近距離では弾丸を見ることは叶わない。弾着は銃声よりも速く、千景が引き金から指を離した時にはすでに弾丸はネメアに


 「GRRRRRRRRRRR!!!!!!!!」


 大きく前脚を振り上げ、ネメアは咆哮を上げる。紅の巨躯が大きく背後へのけぞり、傷ついた後ろ脚ではその重量を支えられなかったのか、ドシャンと大地に背を打ち付けた。


 倒れたままネメアは身悶えし、顔面を激しく地面に、周囲の瓦礫に打ちつけた。痛い、痛いと悲痛にうめくネメア。日に照らされたその顔からはドロドロと血を流し、苦痛の源である嘆いて唸る悲壮面が伺えた。


 「ざまぁ」


 ライフルを肩にかけ、千景は嘲る。クラスで幅をきかせるいい子ぶりっ子の睾丸を蹴ってやった気分になり、柄にもなく破顔した。


 しかしただ突ったったまま笑い転げるわけにもいかない。悶え苦しむネメアの醜態にひと満足をしてすぐに千景は挑発の意味を込めて銃撃を再開した。ただし使ったのはスナイパーライフルではなく、サブウェポンの自動小銃だ。


 現代にいたるまで広く愛用されている9ミリ自動小銃。フォールン相手には自決用以上、クマ避けの鈴未満の働きしかしないそれは適当にパンパンとネメアに撃った。


 50口径アサルトライフルや、対物ライフルの直撃を受けてもビクともしない化け物相手にそんなものは意味をなさない。当たったそばから弾かれるどころか、粉砕機にかけられたばりにひしゃげ、路傍のゴミに早変わりだ。


 それを承知で千景は銃を撃った。なんなら狙いをつけてもいなかった。相手が巨躯であることが幸いし、撃った弾丸は全部、体のどこかしらに当たったが、小粒程度には殺傷力はない。むしろ、相手を苛立たせ、いらぬ怒りを買うだけだった。


 痛みを抱えたまま、ネメアは立ち上がる。口腔に滴る自身の血を活力に変えて、ぼやける視界のその向こう側でこちらを挑発する道化を獣の王は憤懣やるかたないといった様子で睨みつけた。


 黒翼を広げ、ネメアは大地を蹴る。威風を纏わぬ王の疾駆、逆上のままに背を向けて逃げる不遜な輩を王は追った。


 ゆえに見落としていた。その目に入らなかったから。


 ネメアが走り出すと同時に朱燈もビルから飛び出し、走り出していた。おおよそ常人離れした健脚によりネメアの懐に潜り込んだ朱燈は鞘から自身の愛刀を抜き放つ。


 一閃。


 不意の浮遊感にネメアは困惑した。ジャンプなどしていないのに、なぜか自分は宙を浮いている。この浮遊感はなんだ。


 ネメアの思考が文字通り、宙を舞う中、朱燈は次の行動に出た。前脚左右の腱は断ち切った。次はどこを狙うか。その視線はガラ空きになった腹部へと向けられた。


 ネメアの外皮の中でもひときわ柔らかい部分、その朱色の腹部めがけて朱燈は刀を突き立てる。いかなネメアの体といえど、生物であることに変わりはない。朱燈の高熱刀は容易くネメアのはらわたへと浸透し、その臓腑を焼き焦がした。


 それと自身の影槍を展開し、その切先をF器官と胴体を繋ぐ二本の腕に向けた。移動の際は左右それぞれ6メートル近く伸びていたそれはしかし、今は3メートル程度の長さしかない。一見すると朱燈が燃料切れを起こしているように見えるが、実際は長さが短くなった分、厚みが増し、影槍本体を覆う結晶の密度も高くなっていた。


 腹部や鼻部と同様、ネメアの腕部はお世辞にも頑丈とはいいがたい。無論、堅牢な外皮と比べればだが。


 鉄筋コンクリートの外壁すら貫く影槍を前にその硬さは意味をなさない。広げられた影槍は容易く腕部を指し貫き、朱燈は力任せにそれを下から上に向かって振るった。


 人体にとっての第三の腕とまで言われるほど微細な操作が可能な影槍にとって、駄獣の体を裂くは容易い。瞬く間にF器官はネメアの体から分離し、その胴体が大地に顔面から激突するのとほぼ同じく地面に落ちた。


 ただでさえ傷ついて仮面をさらに打ちつけられ、ネメアは痛みと苦しさから絶叫する。必死にバタバタと両足を動かすネメアから刀を引っこ抜き、渾身の猫パンチに当たらないように距離を取った。


 刀を引っこ抜いた時もただ縦方向に抜くのではなく、大きく掬い上げるように抜いた。そのせいで返り血がべっとりと服に付き、泥と煤まみれだった衣服が、転じて真っ赤に染色された。


 「どーよ!」


 半ばヤケクソ気味に朱燈は起きあがろうとしてずっこけるネメアに迫った。前脚の腱を切られた影響でネメアはもう立ち上がれない。それどころか寝返りをうつことさえ難しいだろう。ひっくり返ったゾウガメのように両足をジタバタと動かすネメアを見ながら、ふーと千景と朱燈は溜まっていた緊張を吐き出した。


 腹部の傷、さまざまな裂傷、片目と鼻、そしてF器官すら切り捨てられた哀れな赤獅子。もはや警戒するに値しない裸の王であった。


 「終わった、か」


 力なく地面に倒れた千景がふと頭上を見上げると、気持ちいいくらいに晴々とした蒼穹が広がっていた。


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