第5話 不断

 赤髪赤目少女はブンブンとその手に握る日本刀を振り、血と油、そしてこびりつき焦げた肉片を落とす。それでも残っていた汚れは前腕と二の腕で刀を挟み、一気にぬぐい落とした。


 彼女がジャケットの上で刀をすべらせると、何かが焼き切れたかのようなジュっという音が鳴り、すべらせた直後にふられた朱燈の左腕には黒い焦げ跡がついていた。ゴムを焼いたような匂いがわずかに漂うが、彼女は気にするそぶりを見せず、何事もなかったかのように千景の方を向いた。


 いつもと変わらないよく言えば柔和な、悪く言えばボケーとした気だるげな表情を浮かべる朱燈に対し、千景もいつもと変わらない調子で接した。同時に彼は彼女の後ろに広がる凄惨な光景に口元をキッと結んだ。


 広がるのは死屍累々、無惨にも切り捨てられたオーガフェイス達だ。1体を除いてオーガフェイスはすべて朱燈の握る特殊兵装、三式帯熱刀によって切り捨てられており、切断面がジュウジュウと鍋の上の牛肉のような音を上げており、高熱によって焼き切られたことを物語っていた。


 なます切りという表現が日本語にはある。現在は廃れた言葉だが、旧時代ではにんじんやだいこんのような根菜類を切り刻む技法だ。今のオーガフェイスらの状態はまさしくそれだった。


 向かってくる側から朱燈によって切られたのだろう。一撃ではなく、二撃、三撃と相手が動かなくなるまで彼女が刀をブンブンと振り回したことが容易に推測できる雑多な太刀筋だ。


 対して、彼女に仕留められていないオーガフェイスはまだしも原型を保っていた。逃げようとしたところを背後から撃たれたようで、血が毛先から滴り、先刻千景が仕留めたオーガフェイスのように背骨が割れて体皮から突き出ていた。そのオーガフェイスは朱燈が片腕を落としたリーダー格のオーガフェイスだった。


 転がるオーガフェイスの死骸から視線を移動し、千景は瓦礫の上に座って休憩をしているサンクチュアリ防衛軍の面々へと向けた。憔悴してはいるが、最初に見た時と数は変わらない目立った外傷はなく、五体満足でいるのはきっとほとんどのオーガフェイスを朱燈が片付けてしまったからだろう。


 フォールン因子を防ぐためのマスクを付けているせいで、大分熱がこもっているのか、彼らは一様に首を上下左右に振り、滴る汗、滲む衣服から逃れようとしていた。その中にあって千景の視線に気がついた小隊長の腕章を付けた人間は、彼に対して敬礼をした。


 返礼ということで千景も敬礼を返す。歩み寄ると、小隊長は千景と朱燈が使っている周波数に合わせてイヤーキャップ越しに話しかけてきた。


 『救援、感謝します。サンクチュアリ防衛軍西部城壁所属第四哨戒小隊隊長の立山 信之たてやま のぶゆき中尉です。貴官は?』


 「ヴィーザル東京サンクチュアリ支部外径行動課第三特務分室第一小隊隊長の室井 千景中尉です。救援が遅れ申し訳ありません」


 疲れ切った様子の隊員達を一瞥する千景に立山は「貴官らの責任ではありません」と返した。大人の対応に助けられた、と千景は心の中で胸を撫で下ろし、再度「申し訳ありません」と頭を下げた。


 立山の顔はマスクのせいでよくわからないが、声からしてかなりの年配だろう。中年男性、30後半か40そこそこといった具合の声音だ。実戦部隊の指揮官でなおかつ階級がその年でまだ中尉の小隊長ということはかなりのたたき上げだ。


 どれだけ時代が変わろうとキャリア組とノンキャリア組というのは存在していて、サンクチュアリ防衛軍であろうとそれは変わらない。入隊時の成績がよければキャリア組、ほどほどならノンキャリア組という感じで振り分けられ、前者の早々と出世するし、後者は実績をいくつも積んでようやく階級が一つ上がる。


 立山はどう考えてもノンキャリアだ。キャリアだろうが、ノンキャリアだろうが、千景からすればどっちだっていいことだが、強いて言うなら「恩を売るならキャリア組、背中を任せるならノンキャリア組」というくらいなもので、この場合は救援任務だから、前者の方がよかったな、などと打算的に考えてしまうのはきっと傭兵の性だろう。


 とはいえ実戦部隊に恩を売る意義がないかと聞かれれば答えはノーだ。もしこちらが救援を求めた時に救助してくれる可能性がグンと上がる。傭兵なんていう水商売はクライアントのご機嫌を伺ってナンボなのだから。


 もっとも、同階級とはいえ、さすがに千景も年配の人間に敬語を使わせるのは忍びなかった。片や17、片や40代くらいで同階級だからこそ生じる弊害とも言える。敬語でなくてもいいですよ、と千景は立山に持ちかけたが、いえいえ、と立山は固辞した。


 断られ、残念そうに千景は肩をすくめた。どういうつもりなのだろうか、と逡巡し一つのアイディアが思い浮かんだ。


 ひょっとしたら、恥ずかしいのかもしれない。曲がりなりにも向こうは年配で、年上が年下に助けられる形になったのだから、せめて言葉遣いや礼儀の部分はしっかりと年配面しておこうという腹づもりなのだ。


 なんだ可愛いところがあるじゃないか。ただのお固い叩き上げかと思いきやユーモラスなところもあるものだ、と千景は勝手に妄想を膨らませ、1人で納得顔で、なるほど、なるほど、と立山に返した。


 そんなくだらない考えを千景が脳内で巡らせているのを知ってか、知らずか、立山は大きなため息をこぼした。そして彼が何か言おうとした矢先、別の音声が彼の耳に飛び込んできた。


 『「それはそうとさー」』


 不意に二重になって朱燈の声が聞こえ、千景は彼女に向かって振り返った。振り返るとちょっとだけ不機嫌そうにイヤーキャップを指差す彼女がいた。


 『「この二重音声みたいなやつどうにかならない?」』

 「あー。それはな。ちょっと我慢して」


 千景と朱燈、もとい彼らが所属するヴィーザルの使用している無線通信のチャンネルはあくまで遠距離通信を行うためだけのものだ。マスクをしていない彼らからすれば至近距離でイヤーキャップをオンにする必要はない。


 しかしマスクを付けているせいで声がこもってしまう立山らのような正規兵と話す際はイヤーキャップをオンにして会話する。そうすると普段からマスクを付けない朱燈達からすれば音声が二重になって聞こえるのだ。


 「いっそ切れば」とぼやく千景に、朱燈は『「それじゃぁ千景達がなに話してんのか、わかんないじゃん!」』と最もな正論で返す。落ち着いてほしい千景はなんとか言って彼女を宥めるが、ブーブーと不満が際限なく朱燈の口から飛ぶ。


 「あーもーわかったよ。とりあえず少し遠くに行ってろ。こちらの隊長さんとの折衝が終わったら、戻ってきてくれ」

 『「少しってどんくらい?」』


 「ヘリが到着するまで」

 『「ながっ」』


 目に見える形で朱燈は不快感を表した。音声が二重になるせいで余計に不快指数が高くなっていた。


 仕切りに口臭や体臭を気にするそぶりを見せ、咎めるような目で千景を見る。そしてオープンなチャンネルを使って通信してきた。


 『「早く帰ってサンドイッチの余韻楽しみたいんだけど?」』

 「久しぶりの肉だからってそれか?」


 合成食品ブロックフードではない本物の肉に本物の野菜に本物のパンで作られた本物のサンドイッチ。奥歯に引っかかっていた肉片すら彼女は愛おしそうに咀嚼し、嚥下した。


 彼女が咀嚼し、嚥下する音もイヤーキャップ越しに聞こえ、それは音声を共有している人間全員に伝わった。無論、千景はもちろんのこと立山や他の隊員達にも。


 一連の行動に意地汚さを感じた千景は嘲るように鼻で笑った。三大欲求に汚いのは人間の性だが、それにしたって見苦しい。ましてクライアントの前ですべきではないだろう。


 同時にそれはある種の示威行動、自慢だった。彼女の無意識な自慢話を聞いて不機嫌そうに隊員の1人が悪態づいた。


 『傭兵風情が』

 『「え、なに?」』


 聞こえなかったな、と朱燈は暗に示しながら、視線を向ける。これみよがしに刀をブンブンと無造作に振り、彼女は半歩近づいてきた。血みどろであるせいで普段の六割増しで彼女の笑顔を千景は恐ろしく感じた。


 防衛軍の隊員達がマスクの裏側でどんな表情をしているかは知らない。ただ朱燈の鬼とも獣とも表現できる凶相を前にして、息を飲む音が千景には聞こえた。


 怯えてなお彼らから朱燈への敵意は消えない。単純な嫌悪感以上のナワバリ意識が所以だからだ。


 サンクチュアリ防衛軍はサンクチュアリを防衛することを主とする部隊だ。壁上からサンクチュアリに接近してくるフォールン目掛けて榴弾の雨を降らせ、時には危険を覚悟して外縁部に降り立ち、哨戒もこなす。


 彼らが任務をこなすのはひとえに家族を守りたい、サンクチュアリの秩序を守りたいという義務感と使命感ゆえだ。その点で、傭兵組織「ヴィーザル」に属する千景や朱燈とは心構えや仕事への動機が違う。


 金銭目的で依頼を受けた自分達など彼らからすれば嫌悪の対象でしかない。朱燈のような規律や空気よりも自分の感情を優先する傭兵はなおのこと嫌いだろう。傭兵を信用しない正規軍らしい銭ゲバ野郎への侮蔑の眼差しがマスクに隠れてもなお鮮明に感じられた。


 「——立山中尉。こちらの人間を哨戒に向かわせたいのですが、よろしいですか?」

 『——無論です。オーガフェイスを掃討したとはいえ、まだここは危険地帯。なによりうちの連中はもう気力が尽きていますから』


 一触即発のヤバイ空気を感じ取り、千景は立山に哨戒の提案を促す。快く立山が頷いたことで、千景は胸を撫で下ろし、朱燈に哨戒任務に就くように指示を送った。


 えーとか、ぶーとか言って嫌がる朱燈だったが、頼むよ、千景が懇願するように拝んできては色々とやりにくかったのか、不平不満を漏らしながらも首肯した。そして踵を返すと刀をしまって、瓦礫の山を登って見晴らしのよい廃屋へと消えていった。


 『彼女は?』


 去り行く朱燈の名前を立山が聞くと、千景は逡巡せず即答した。

 

 「同隊の白河 朱燈です。お騒がせして申し訳ありません」


 申し訳なさそうに千景は愛想笑いを浮かべ、軽く頭を下げた。それに対して立山は『いえいえ』と恐縮した様子で返す。しかし視線はひとっ飛びで数メートルの瓦礫を飛び越えた朱燈の後ろ姿に固定されていた。


 『最初は少女1人が来援とあって、失望しましたが、結果だけを見れば彼女1人でほとんどのオーガフェイスを倒してみせた。異常ともいえる速度で』


 「ではやはりあの片腕のオーガフェイスは中尉の隊が?」


 『残飯処理のようなものです。まぁ、その話は今はどうでも。それよりもこの後の我が隊ですが』


 「こちらへ向かう道すがら、救助のヘリコプターを手配しました。小隊一つくらいなら問題ないかと」


 『それはよかった』と立山はマスクの向こう側ではにかんだ。彼からすれば生き残った部隊を引き連れて徒歩で城壁まで戻れ、と言われないかとヒヤヒヤしていたに違いない。安堵の混ざった彼の声音からはそんな気配が感じられた。


 もっとも、ヘリコプターで救助すると言ってもここは場所が悪い。ヘリコプターが着陸できるだけのスペースがない。おそらくは縄梯子を使って順次引き上げていくことになるだろう。


 それを妨害するために新たなフォールンが出てくる可能性も十分に考えられた。朱燈に周囲の警戒を任せたのもそれが理由だ。


 サンクチュアリ外縁部のネクロポリスは遮蔽物も多く、人間とフォールン双方にとって身を隠すのに最適な場所だ。狭い路地裏に入ってしまったサンクチュアリ防衛軍の部隊が罠にはまって全滅したケースは枚挙にいとまがなく、同じくらい人間もフォールンを同じ手法が狩ってきた。


 幸いなことに彼らが今立っている場所は比較的開けた場所で敵の襲来に容易に気付けるいい立地だ。オーガフェイスの死骸が臭うがそれはあくまでマスクを付けていない千景だけの問題で、立山をはじめとした防衛軍の面々には関係のない話だ。


 『千景、ヘリが来た」』


 不意の通信は途中で二重音声になって千景の耳に入った。空を見上げるよりも前に声が聞こえた方角に目を向けると、バイクに乗る時くらいしか付けないゴーグルを装着し、ジャケットのジッパーを上まで上げた朱燈がいた。それでも彼女の引き締まった生足は露出され、わざわざジャケットを閉める意味とは、と千景は首を傾げた。


 そんなどうでも思考の迷路から逃れるように千景が空を見上げると遠くからバリバリというロータ音を轟かせて近づいてくる姿が見えた。相も変わらずだことと、とその古臭くも人類の叡智を感じさせる外見に千景は失笑した。


 フォールン発生以前から広く普及しているマルチローター式で左右にローターを一機、機体後部に一機の計三機、装備しており、非常に安定性がある。輸送能力に重きを置いているため、やろうと思えば小型の軍用指揮車を抱えたまま飛翔できる。機体の下部には12.7ミリ機銃が装備され、着陸予定地に群がる敵を掃討する機能も十分に備えている。


 外見は旧時代のティルトローター機に近いが、それでもヘリと呼称されているのは単純に離着陸に滑走路を用いないからだ。実際、ただ飛んでいる姿だけを見るとヘリではなく、20世紀初頭の旅客機に見えなくもない。


 欠点があるとすれば、ローター音を消すための特殊ブレードに換装していない点だろうか。なにせシングルローターでもバリバリという音が鳴るヘリだ。それが三機ともなればさぞかし不快な大合唱となるだろう。ブレード部以外の改良が進んだ23世紀後半である現代でもこの騒音問題は残っている。


 それでもブレードを換装すればほとんど音を出ないところまで技術は進んだのだ。にも関わらず遠くからでも聞こえる大きなローター音を轟かせているのは単純な補充品不足だからだろう。


 左右のローターを90度後部に向かって回転させ、完全なホバリング体勢を取ると、旋風が巻き起こり、より一層ローター音がひどくなった。砂塵が舞い上がり、たまらんとばかりに千景も朱燈に倣ってゴーグルを装着し、開けっぱなしにしていた防寒ジャケットのジッパーを上まであげた。


 ヘリのパイロットは千景達から見て、約6メートルほどの高さで機体を静止させた。着陸するつもりはないのか、乗り口から縄梯子が投げ下ろされ、地面にドサンという音を立てて落ちた。


 『「ホイストでしてくれればいいのに」』

 「周辺の安全が確保されているってことだろ?怪我人がいないなら縄梯子で十分ってな」


 『「釈然としないなー」』

 「エクストラクションロープで引き上げられるよかマシだろ」


 ぶーたれる朱燈をなだめながら、千景は周囲に気を配る。梯子を登っている時は非常に無防備で、敵襲への対処が難しい。たかが高度5メートル、オーガフェイスなら一飛びの距離だ。


 事実、梯子を下された隊員達はおっかなびっくりしながら上へ上へと昇っていた。いっそ牛歩と言ってもいいほどにのろく、千景がビビらせてやろうか、と腰の自動拳銃のスライドを引きかけたほどだ。


 立山をはじめとしたサンクチュアリの隊員達は次々に梯子を登っていき、安全だ、と暗に示すためか最初に登った隊員が乗り口から身を乗り出して手を振った。それを見てか、他の隊員達の昇る速度も上がっていく。


 続く2人目のために最初に登った隊員が乗り口の隅に陣取り、ヘリに上がる他の隊員の姿はなんとも微笑ましい。まさに戦場の絆、誉れあるものたちの美談と言える。


 そうして3人目が上り切り、続く4人目が梯子の中間まで来た時、不意に周囲に緊張が走った。穏やかで和んでいた帰宅ムードだったものが、唐突にもたらされた予定外の仕事によって破壊された時に人が感じる絶望をたっぷりと酸素中に混ぜ込んだ意地の悪さを感じさせる悪寒だった。


 千景はライフルのボルトを引き、彼よりも早く朱燈が腰の刀に手を掛けた。両者の表情は強張り、何もない大気に、通り風がきしむネクロポリスに視線が向けられる。


 2人の傭兵の尋常ではない形相に遅ればせながら気付いた立山も銃のセーフティーを外し、トリガーガードから人差し指を引き金に向かってすべらせた。蒸し暑いマスクの裏側、汗ばんだ体を奮い立て、立山は2人の傭兵に通信を飛ばした。


 『何が』

 「静かに。何かきます」


 それはフォールンか、と聞くのは無学の極みだろう。人類以外でサンクチュアリの外を闊歩している存在など、フォールン以外には考えられない。植物や一部の昆虫、微生物などを除けばほとんどの壁外の生命体はフォールン化しているはずなのだから。


 それでも下位のフォールンであればこれほど2人が周囲を警戒することはないだろう。オーガフェイスすら苦もなく倒す歴戦の猛者だ。それを知っている立山はことの成り行きを理解し固唾を吞んだ。


 もっとも、その唾も飲み込み切る前に状況は動いた。


 はるか前方、千景が潜伏し、今は上層部分が派手に吹き飛んだ旧カミューズ社の社ビルよりもさらに奥の方からその咆哮は轟いた。同時にビル群の合間から青白い光が迸る。


 オーガフェイスなどとは比べ物にならない、嘲笑も冷笑も失笑も苦笑も許さない身の奥底から恐怖を駆り立てる咆哮。それは一瞬にしてその場にいた者たちの心臓を寒からしめ、心を波立たせた。そしてピシャンという音と共に輝く青白い光を見た瞬間、千景は立山に向かって振り返り、さっきまでの敬語も何も忘れて怒鳴った。


 「すぐにヘリに昇ってくれ!早く!」

 『は?何を』


 「まずいんだって!いいから早く上に行ってくれ!上ならまだ助かる!」


 切羽詰まって言葉を荒げる千景に立山は驚いた様子で言葉を失っていた。きっとマスクの内側では目を丸くしているだろう。


 だが、千景にとってそれはどうでもいいことだった。どうでもいい推測で、どうでもいい感想だった。いいから早く、と彼は立山を押し、彼との通信を切断する。そして朱燈に向き直り、ため息混じりにつぶやいた。


 「厄介なのが来たな」

 「ヘリは。まぁあたし達が昇る前に撃ち落とされるか」


 感傷たっぷりに朱燈は背後のヘリを一瞥する。遅ればせながら動き始めた立山はまだ未練を残した様子で昇りながらもチラチラと2人を見ていた。


 「命、賭ける気?」

 「んなことするか。ヘリが安全圏に入るまで時間を稼ぐんだよ。幸い、向こうはまだ姿を現してないからな」


 「はへー、つよきー。相手さんを考えればあんたは不利でしょ」


 千景のライフルに視線を落とす朱燈はしかし、言葉とは裏腹に本心ではそう考えていない。あくまで不利、しかし無用の長物ではないと知っているから、出た言葉だ。


 「まーね。とりあえずは俺が削る。朱燈は側面から強襲できるようにしとけ。どのみち、今の俺らの武器じゃ討伐まではできないだろうからな」


 さきほどまでの緊迫した雰囲気とは一転し、和やかな雰囲気を2人は漂わせ、物騒な会話を続ける。ちょうど声がすっきりと聞こえるようになった頃、はるか上空をヘリが飛んでいた。高度40メートルぐらいだろうか。


 

 

 ゆっくりと離昇していくヘリの鈍重な動きに目を覆いたくなる気持ちを抑え、千景は自分の装備を確認する。彼の手元にあるのは対フォールン用のライフルが一丁、ライフル用のマガジンが二つ。サブウェポンの自動拳銃が一丁、拳銃用の弾倉は三つ。それ以外にあるものと言えば軍用レーションや血液凝固スプレー、ガーゼなどの医療品だけだ。


 いつも持ち込んでるグレネードはどうしたの、と千景の品揃えに朱燈は不満を漏らす。あいにくと彼女のいうところのグレネード、手榴弾はつい先程盛大にオーガフェイスを吹き飛ばしたばかりだ。


 「朱燈はどうなんだ。さすがに刀剣用の予備バッテリーくらい持ってるだろ?」

 「嫌味な言い方。まぁそうだけど」


 そう言って朱燈はジャケットのポケットから刀の柄頭を模した手のひらサイズのバッテリーを取り出した。下部が柄頭を模したもので、上部は旧時代のアダプターを想起させる外見となっている。


 科学技術が大きく普及し、核融合が可能となった現代であっても大半の電化製品には電池が使われている。使い勝手がよく、小型化が容易であるからだ。事実、朱燈の手にあるバッテリーは小型ながらアーク溶断が連続8時間まで可能なだけの電力を賄うことができる。


 慣れた手つきで彼女は腰の刀の柄頭をくるりと回して抜き取ると、新しいバッテリーを装着する。通常なら大して使ってもいないバッテリーを換える必要などないが、万が一を考えての判断だろう、と千景は推測し、他にはないの、と朱燈に迫る。


 しかし朱燈は首を横に振り、あとはこれくらいかな、と腰のポーチを開き、救急セットと軍用レーション、そして活性剤入りゼリーを覗かせた。彼女は手早くその中からゼリーが入ったパックを取り出すと、蓋を片手で開けて、ゴクゴクと瞬く間に飲み干した。


 中身が空になってくしゃくしゃになったパックを路傍へ投げ捨て、ふーと朱燈は深呼吸をする。そしてぴょんぴょんと彼女は地面を跳ね、次の瞬間、腰部から細長い黒い結晶体を生やした。


 「影槍えいそうの調子は?」


 朱燈が微細に動かす、二本の結晶体を見つめながら、千景は問う。朱燈はうーんと数秒だけ唸り、答えた。


 「順調だと思う。けど、ゼリー一個じゃ20分も保たない、と思う」


 彼女はそう言って、腰部から生やした影槍の維持を解いた。クッキーが崩れるように結晶がボロボロと剥がれ落ち、空中へ霧散していく。その光景を最後まで見ながら、千景はなるほどとつぶやいた。


 彼、彼女らの腎臓に埋め込まれた特殊な生体装置、影槍。フォールン化時に見られる生物の形態変化から着想を得ており、起動時は埋め込まれた装置が大きく変形し、人によって様々な形状を取る。


 変形時、影槍は特殊なマグネタイトの結晶体で覆われ、硬質な外皮となる。中身が伸縮自在であるため、非常に柔軟性があり、千景や朱燈のように長距離移動のための「足」として使う人間もいれば、これを武器として使う人間もいる。文字通り、最新のヘルメス量子物理学の結晶である。


 便利な手前、リスクも大きい。変形時に水分や脂肪といったエネルギーになりそうなものは老廃物も含めて片っ端から消費してしまうため、そう長くは使えない。使い過ぎれば脱水症状や栄養失調、脂肪分の不足などで倒れてしまうことも多々ある。


 「使いすぎには注意しろよ?いざとなった時に使えませんじゃ話にならないし、それに」


 「だいじょーぶ。移動にはなるべく足、使うから」


 ならいいけど、と千景は正面に向き直る。つまらない会話をしている間に、前方の稲光はこちらに近づいてきていた。もう距離600もないだろう。常人なら4,5分かかる道のりもフォールンの健脚は2分足らずで踏破してしまう。


 その前にこちらも動かなくてはならない。


 千景は左に、朱燈は右に向かって走り出す。目配せもなく、しかし同じタイミングで2人は駆け出し、朱燈は近くの廃屋を壁伝いに移動し、千景は高層ビルの階段を登り始めた。


 道すがら、朱燈と同じように千景もゼリー飲料を口にする。ただし朱燈のように全部飲み干すのではなく、半分だけだ。エネルギー消費が激しい彼女のタイプと違って、自分の影槍は比較的効率がいいと自負しているからだ。


 それに移動のために長時間使った朱燈と違い、千景は着地のために一度使ったにすぎない。消費時間が段違いだ。


 建物の六階ほどに到着した千景は割れた窓から眼下を見下ろした。ちょうどその時、黒い大きな影が瓦礫の山を越え、姿を現した。


 ち、とその姿を見た時、千景は意図せず舌打ちをこぼした。


 「ネメア……」


 人眼の赤獅子。雷鳴の申し子。今世において最も代表的なフォールンであるそれを前にして千景はポツリとつぶやいた。

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