第3話 外縁防衛領域の戦い

 サンクチュアリを囲む大城壁、それは陽光を遮り、大地に大きな影を落とす巨大構造物である。周囲をかつての人類文明の隆盛を窺わせる無人の廃墟に囲まれ、しかしその威容は他の高層構造物よりも群を抜いて感じ取れる。


 高さ60メートル、厚さ15メートル。材質には表面に使われているのは前時代的なマスコンクリートながら、高い強度を誇り、これまで大型フォールンによる体当たりを幾度となく跳ね除けてきた。


 壁の内側には無数のオートメーション化された速射砲が設置されており、近づいてくるフォールンを確認すれば即座に警報が鳴り、砲弾の雨が降る。旧時代的な合成火薬による攻撃ではあるが、害獣フォールンの肉体を破裂させるのには十分な一撃を有していた。何度となくフォールンの侵攻を跳ね除けてきたその証拠に、城壁周辺は土くればかりの更地と化し、周囲に建ち並んでいた廃墟群を吹き飛ばしたことが伺える無数の瓦礫が散らばり、鎮座していた。


 周辺600メートル、遮るものはなにもなく、もっぱらフォールンが現れるのは外周防衛領域と呼ばれる廃墟群ネクロポリスだ。ネクロポリスの外から来襲したフォールン達は速射砲による迎撃を恐れてか、基本的にはサンクチュアリへ近寄ることはないが、大型の個体や群体を為したフォールンは向かってくることがある。


 城壁に常駐しているサンクチュアリ防衛軍の隊員達の役目はこういった都市に近づく可能性があるフォールンを早期に発見し、排除することだ。言うなれば害虫退治である。


 その日も一個小隊12人、隊長も入れれば13人の編成で西部城壁常駐の第四哨戒小隊の面々は銃器片手にネクロポリスの街路を歩いていた。


 彼らの装備は頭から、ガスマスク、防刃ベスト、ニーアーマー、そして軍用ブーツで構成されている。彼らが付けるガスマスクはバイオ研究所などで見られる頭をすべて覆ってしまうタイプで、一度マスクを付けてしまうと誰が誰だかを判別するのは困難だ。


 彼らは一様に肌を露出しないようにしている。付けている手袋も袖口までしかない短いものではなく、薄地だが前腕部がすっぽりと入るロングタイプだ。ただでさえ体の中に熱がこもりそうな服装に加えて防刃ベスト、ニーアーマーという重装備であるせいか、その歩みは遅く、非常に緩慢だ。


 マスクを付けているせいで熱がこもり、彼らが呼吸する度にレンズに結露が浮き上がった。結露でレンズが白む度にマスクに付いているワイプ機能が雨の日の車よろしくモヤを拭いた。


 「隊長、今日は大分暑いですね」


 伝声機を通じて隊員の声が隊全員に伝わる。マスク内部に仕込まれている小型のマイクを通じて、イヤーキャップを付けている近くの人間全員に声が伝わる仕組みだ。


 年若く、声にまだブレが目立つ隊員のこぼした感想に隊長と呼ばれたガスマスクの男は振り返った。他の隊員がオレンジ色の腕章を付けているのに対して、隊長は赤い腕章を付けていた。


 そうだな、と小さく肩をすくめて隊長は若い隊員に返す。八月だから、と言えばそれまでだが、外気温は10度もない。有体に言えば寒いと返すだろう気温で暑い感じてしまうのは彼らが着ている装備の厚みからか、はたまた肌感覚が麻痺しているのか。拭うこともできない汗が眉間から溢れるのを苛立たしげに思いながら隊長は各員に休憩を取るように告げた。


 廃墟の一角、暗い屋内に部隊は入っていく。ここ数日、雨が降っていないこともあって内部は乾いており、雨漏りの音ひとつ聞こえてこなかった。


 各々が疲れを隠すこともなく腰を下ろす中、隊長だけは右手首に巻かれたごく一般的なマルチデバイスを弄り、計器を確認した。針が基準値以下を指していることを確認し、彼は周りの隊員にマスクを脱ぐように合図を送る。イヤーキャップ越しに安堵の声が聞こえ、それが途切れて彼の視界が暗転すると見知った隊員の面々が汗が滲んだ素顔を晒していた。。


 若者、痩せぎす、禿頭、デブ、髭面、老齢。それまでは顔がわからなかったせいで無個性だった彼らに色が宿った。特に散々暑いとぼやいていた隊員などはマスクを脱ぐと髪の毛が光沢を帯びていて、顔は真っ赤になっていた。


 恐る恐る隊長も自分のマスクの内側を覗き込んでみると、もわっと湿気による湯気が立っていた。これでも濾過装置はキチンと作動し、汗などの老廃物を吸って空冷装置のために使われるのだが、不良品なのか中で暑さは増すばかりだ。


 「ったく、不良品よこしやがって」


 そうぼやいたのはマスクを取って早々背中に背負っているバックパックからチューブを取り出し、水分を補給している大柄の隊員だ。程よく日焼けした彼の肌は赤々としていて、日焼けで顔を赤くしているのか、肌が元から焼けているからなのかよくわからなかった。


 「ヴィーザルの連中はもっといい装備つけてんだろ?」

 「レーションだってこんな固形物じゃないだってさ」

 「流動食なんだっけ?それもあったかい」

 「なにそれ、ずるい!」


 粗野で乱暴な口調で愚痴る彼にしかし周りの隊員は同調する。主な話題は装備に対する不平不満、そして傭兵組織であるヴィーザルについてだ。誰かが一つ文句を言えばそうだ、そうだ、とレーション片手に同調して愚痴合戦を開催する自分の部下達に半ば呆れながら、隊長は周囲に目を配った。


 サンクチュアリを守る速射砲の圏内とはいえ、自分達が今いる場所はフォールンの活動領域であることに変わりはない。握っている正式軽機関銃、SISi-70に視線を落とし、彼は一人自嘲とも取れる苦笑いを浮かべた。


 50口径などフォールン相手となれば護身用火器以上の価値を持たない。50口径と言えば前時代の狩猟ライフルの数倍の威力を持つ。一般的な銃が持つ火力としては最も高い。しかしフォールンの肌を引き裂くことはできても、硬い仮面を砕くとなればマガジン一つを犠牲にしなくてはならない。


 それも低級とされる下位のフォールン相手にそれだ。より強力な中位、果ては上位のフォールンを相手取るとなれば最低でもスティンガー級の火力が必要となる。特別な弾丸を使うとはいえ、集団で押し寄せられれば男達にできることはひたすら弾幕を張りながら逃げることくらいだ。


 それも全身を覆う重しを付けて俊敏な肉食性フォールンから逃げるとすればたまったものではない。だからいざ逃げるとなれば防刃ベストやニーアーマーなど、とにかく重いものは銃も含めて全部放り投げて逃げ出すのだ。それでも人の足と獣の足、どちらが速いかと言えばそんなものは論ずるに値しない真理だ。


 ネクロポリスの景観を破れた窓から覗いてみれば、周囲は静まり返り、時折遠くの方で劣化した建物の一部が崩落する音が聞こえた。しかしそれもやいのやいのと愚痴合戦を繰り広げる隊員達の声でかき消される始末だ。


 壁外とはいえ屋根のある場所にいるから気分が上がっているのかもしれない。あるいはマスクを取ったおかげで増長したか。呆れた様子をどうにか取り繕って隊長が視線を窓の外へ向けようとした。その矢先のことだった。


 「隊長も不満でしょう?こんな穴の空いた装備で危険地帯を歩かされるなんて」


 不意の問いの投げかけに隊長はああ、と返した。そしてすぐにしまったと思い眉間を叩いた。


 不覚にもああ、と答えてしまい隊長は閉口した。隊員が両手に持っているガスマスク、不良品とはいえ気密性には優れている壁外を生きていく上でなくてはならないアイテムをあけすけに批判していいものか、と彼は悩んだ。


 彼の左手に握られている無骨なガスマスクは一部がプラスチック製、大部分は特殊ナイロンで構成された最新の防毒マスクだ。おおよそ人類が開発してきたあらゆる細菌兵器に対応しており、フィルターの内側には空気を清浄化する装置まで取り付けられている代物だ。


 しかし彼を含めた第四哨戒小隊の隊員がこのガスマスクを付けている理由は毒や細菌兵器を警戒しているからではない。


 彼らが警戒しているのは空気の中に潜む邪悪、この星を覆った細菌ともウィルスとも形容できない特殊な因子だ。それはフォールンをフォールンたらしめる因子ということで、フォールン因子、略してF因子と呼ばれる代物である。


 多量に吸引、ないし付着すればたちまち「フォールン化」と呼ばれる特殊な症状を引き起こしてしまう破滅的な因子は空気中に伝播し、サンクチュアリを除く地球上のほぼすべての地域に存在している。


 このフォールン因子の滞留レベル、もしくは蓄積レベルが2を超える存在を人はフォールンと呼ぶ。そして通常、空気中を漂うF因子のレベルは1.1から1.2未満であるため、空気そのものをフォールンと呼ぶことは稀だ。


 多少であれば人間でもマスクなしで壁外での活動は可能だが、それもせいぜい15分が限界だ。その時間を過ぎればたちまち細胞が変形を開始し、生物は奇形となる。


 フォールンとの全面戦争が開始された当初、人類を苦しめたのは何もフォールンの非生物的な能力や巨体だけではない。前線だろうが、後方だろうがお構いなしにフォールン化を誘発するこの因子の伝播が人類を後退させた。サンクチュアリ聖域などと嘯くただの鳥籠に。


 人類をあわや絶滅の危機に追いやった危険なウィルスなのか細菌なのかはたまた微生物なのかもわからない「何か」が滞留している空間にいて、必要不可欠なマスクを不良品扱いをする風潮に隊長は素直に笑うことはできなかった。周囲の侵蝕レベル、俗にF.Dレベルと呼ばれる数値は1.07と平均値未満だが、やはり長時間マスクなしで過ごせばフォールン化が侵攻する。


 「総員、そろそろ小休止は終わりだ。マスクを付け直せ」

 「「「了解」」」


 ぼやきながらも各員はマスクを付けていく。ヘルメットにも似たそれを頭からかぶると、さっきまではっきりしていた個人はすっぽりと覆われ誰が誰だかわからなくなった。マスクに装備されている識別センサーで誰が誰だかはわかるが、それも呼吸のたびにレンズにモヤがかかり、うっとうしく感じた。


 ガチャガチャと隊員達は銃器が作動するかを確認する。砂塵舞うネクロポリス、多少の砂粒で銃器が動かなくなることも十分にあり得ることを加味すれば、必要な行動だ。


 やがて全員が銃器の作動確認を終え、小隊の次席指揮官が隊長にそのことを報告した。隊長はよし、と頷き小隊に起立を促す。銃のセーフティを外し、トリガーガードに指を乗せて小隊は再び動き出そうと入り口を目指した。


 ——その直後のことだった。


 背後で鈍い音がした。何か硬いものを噛み砕いた音だ。直後、イヤーキャップ越しにその場にいた全員がか細い断末魔を聞いた。


 はっとなって隊長が振り返り、釣られてその他の隊員達も振り返った。そのうち、誰かの「ひっ」という恐怖で色めきだった声がイヤーキャップ越しに聞こえた。


 薄暗い屋内、その奥の方で何かが動いた。ゆっくりと近づいてくるソレは何かを抱えていた。視線の先、薄暗い室内を明瞭にする暗視レンズが仕込まれているせいで、その場にいた12自分達の目の前にいるソレがナニを抱えているかがすぐにわかった。


 ——血が滴る。閉め忘れた蛇口から溢れる水滴のようにぽたん、ぽたんと彼の両腕を伝って指先からゆっくりと。


 薄暗がりの中で人によく似た瞳をこちらに向けるのはネズミに似たシルエットのフォールンだった。その仮面は先端が大きくひん曲がっていて、ファンタジー小説にでてくるゴブリンによく似ていた。


 大きさは成人男性よりも小さく、背丈は大体150センチくらいだろう。ただし頭部だけは異常に大きかった。体毛はところどころが抜けており、特に腕周り、足回りは一切生えていなかった。まるで年老いた老爺のようなしわくちゃで肌色の表皮をのぞかせた。


 大きな頭には一回り小さい円形の耳を生やし、両耳を器用に動かした。愛らしく、しかし同時にそわそわと。


 ソレは人の頭を口に含んでボリボリと食んでいた。美味しそうにその脳髄に没頭するかのように、あるいは子供がバツが悪そうに早食いをするように若い隊員の頭蓋を砕き、脳みそを吸い、血肉で口内を真っ赤に染めた。


 「ブラット……!」


 そのネズミとも人とも形容できない歪なモンスターの、フォールンの名前を隊長がこぼす。フォールンの中では下級も下級、発生当時はその風貌からゴブリンなんて呼ばれていた最も原始的なフォールンの一種だ。


 その生態はネズミそのものであり、ネクロポリスの地下水道や地下街に住み着き、増殖を続ける。単体であればさほどの脅威ではないが、数が増えると並の上位フォールンと同列視される厄介な個体だ。


 その口いっぱいに人の頭蓋をほうばりながら、ブラットは視線を隊長達に向け、ゆっくりと後ずさった。不意打ちで人一人を食い殺したにしてはおずおずとした情けない態度に銃口を向ける隊員達のそれまで恐怖と殺意が半々だった心中に明確な敵意を宿らせた。


 最初に銃火を放ったのは隊長だった。最も自制すべき自分が、と自嘲する一方でどうしようもない開放感がみなぎっていた。彼に触発され、他の隊員も引き金を引いた。


 セーフティを外していたことが幸運し、引き金に指をかけた瞬間、激鉄と共に無数の銃弾が発射された。放たれた鉄礫の雨はブラットのけむくじゃらの胴体を、乾いた四肢を殉職した隊員ごと貫き、抵抗を許すことなく絶命させた。


 悲鳴すら上げられない即断即決。べちゃりと仰向けに倒れるブラットから彼らは隊員の遺体を引き摺り出し、その状態を確かめた。防刃ベストにある程度の衝撃緩和機能があるおかげか、遺体の損壊は大したものではない。ただ、やはり失われた頭部だけは見るに耐えなかった。


 壁外での戦闘によって発生した死体の扱いは規則で決まっている。可能ならば持ち帰る。損傷がひどい場合や、回収する余裕がない場合は装備品の一部を持ち帰り、死亡したものとみなす。


 多くの場合は後者で、遺骸を抱えたまま任務に従事することはできないということで、腕章や隊員番号が刻まれた銃器などを持ち帰る。今回も隊長は腕章をナイフで腕から外すと腰のポケットにそれをしまった。


 誰も何も言わない。死体を薄暗く寒い無人のむろにおいていくことについて、誰も文句を言わない。壁外での戦いでどれだけ人の死体が荷物になるか、よく知っているからだ。


 フォールンは往々にして人を喰らう。嗅覚にすぐれ、身体能力で人に勝るだろう肉食性のフォールンなどは数キロ先からでも血臭をかぎ取って近づいてくる。


 死体を抱えて移動するなど、鴨がネギを背負って歩くようなものだ。血臭が抱えている当人に移るだけで済まず、最悪は小隊の壊滅も考えられた。


 13人改め、12人になった小隊はブラットの死骸を忌々しげに見ながら、亡くなった隊員に手を伸ばす。ちょうどいい窪みを見つけた彼らはその窪みに亡骸を詰め、その上に大きな瓦礫で蓋をした。簡易的な墓標、手を合わせ弔うも束の間、隊長は残った隊員達に撤退を命令した。


 壁外での行動はすべて部隊の隊長に委ねられる。任務の達成状況に関わらず、隊長が撤退と言えば、撤退するしかない。


 隊員の死亡による指揮の低下を重く見た隊長の判断に、文句を言う隊員はいなかった。誰だってあんな死に方はしたくなから。


 ぞろぞろと廃墟の中から顔を出す彼らは周囲に警戒の眼差しを向ける。無人のビル群、かつての人類の栄華を匂わせるネクロポリスは不気味なほど静まり返り、名状し難い恐怖と緊張感から隊員達は額に汗をにじませた。


 マスクに汗が滲む。肌の上を舐めるように通っていく汗がくすぐったく、無意識に彼らはマスクの中で首を左右に振った。体を動かすとそれに釣られて銃口も揺れた。小刻みに震える銃身を左手で強引に抑え、彼らは前後左右の廃屋とだだっ広い道路に目を向ける。


 そこは遮るものが何もない路上の真ん中だった。一部は剥がれ、内部材が丸見えになっている他、割れた配管や電線が道路から剥き出しになり、汚水を垂れ流していた。


 ちょろちょろと絶えず漏れ出る水音がマスク越しでも伝わってくる。他に聞こえる音は他に周囲の砂をさらう清風がなびく音くらいだ。ありふれた生活音。休憩前も聞いていた慣れ親しんだ音のはずだが、自然と不気味に感じられた。


 遠くで土煙が上がった。反射的に土煙を認めた隊員は銃口をそちらへ向けた。釣られた彼の両隣に立っていた二人の隊員の銃口も同じ方向へ向けられた。


 「全員、落ち着け。円形陣を維持したまま、50メートル前進する。索敵、怠るなよ」


 隊員達の緊張状態を察してか、隊長は彼らに自制を促した。それで緊張が解けるという話でもないが、指揮官からの指揮が下され、彼らは一定の落ち着きは取り戻したのか、あるものは向いていた方角にゆっくりと歩き出し、あるものは視線をゆっくりと横へ移動させ、あるものは銃を向ける方角とは真反対に後ろ歩きを始めた。


 牛歩、あるいは亀の如き歩み。自分以外の隊長が絶えず一方向を警戒する中、隊長はただ一人、陣の真ん中に立ち、360度全方位に視線を向けた。他の隊員が二歩進む中、彼だけは常に三歩進みいつでも号令が出せる位置を確保し続けた。


 前後左右、もちろん頭上と足元にも気を配る隊長の姿を見て、緊張しきっていた隊員達も幾分か気を緩め、自分が銃口を向けている方角以外も軽くではあるが確認するようになった。緩慢だった動きが速度を取り戻し、足も徐々に早まっていく。


 小隊が秩序を取り戻したことを確信した隊長はマスクの裏でほくそ笑み、それまで溜めていた息を小さく吐いた。依然として周囲の静けさ、不気味さは変わらないが、どういう状況でも対処できる、そう思えた矢先、正面を警戒している隊員から報告が飛んだ。


 「前方600メートル、12時の方向。敵影!」


 紐解かれかけた緊張の糸が再び引き締まる。隊長が確認のため、前方を見ると確かにやや離れた位置の瓦礫の山から顔を出すフォールンの姿が見えた。瓦礫のせいで姿が見えなかったからか、と納得しながら隊長は目を細め、じっくりと見つめた。


 鬼を連想させる二本の角を生やした球形の個体で、投影面積のほとんどを占める巨大な頭部を正面に向け、小隊を見つめていた。茶色い体毛をびっしりと生やし、恐竜を連想させる小さな前足と、大きな後ろ足が特徴的な比較的小型のフォールンで、全体的に丸っこい。


 口部が大きく発達し、唇を失ったことで歯茎が剥き出しになったその姿は狼咽の人物を連想させる。仮面は鬼の面を彷彿とさせる造形で、他の例に漏れず牙に似た独特なマウスガードが口部周辺に見えていた。


 「オーガフェイスか」


 「ベルリン・トロイメライ」以降、広く世界中で見られるようになった下位のフォールンだ。動きは猿のように機敏だが、防御力はそれほどでもなく、銃弾さえ当たればひるむし、血も出る。単体での強さはブラット以上ではあるが、銃さえあれば恐れるような相手ではない。


 隊長のつぶやきに安堵の声が隊員達から漏れた。気をつけて戦えば勝てる相手、そう判断した隊員達に隊長は口元をきつくしめた。


 腑に落ちない点がいくつかあった。まず、オーガフェイスなどに代表される下位のフォールンは基本的に群れるものだ。特にオーガフェイスなどは時には20、30の巨大な群れを作る。ブラットのように地下に潜む個体であれば、単独で周囲を探索している理由もわかるが、地上を走るオーガフェイスが単独というのは不自然に思えた。


 次にオーガフェイスの行動だ。どうしてただこちらを見るばかりなのだろうか。フォールンは総じて人を喰らう。下位種の中でも草食性で知られる種ですら時に人を喰らい腹を満たす。


 その性質で言えば目の前のオーガフェイスの行動はいささか奇妙に思えた。数でこちらが優っているとはいえ、襲うでも逃げるでもなくただ見ているだけというのは冗長にすぎる。一応、こちらの銃弾の射程圏内ではあるから、撃とうと思えば撃てる距離だ。


 最後に周囲の静けさだ。やはりそれが一番気になった。平時であればこの静けさも安心材料の一つなのだが、状況が違う。


 発砲を、それも音がよく響く屋内で派手にやったにも関わらず、どうして未だにフォールンに襲われていないのか、隊長には説明できなかった。フォールンの鋭敏な五感であれば銃声を聞き漏らすなんてことはありえないはずなのに。


 「距離を詰めろ。逃げ出すならそれでもいい。目下の我々の目的は」

 「隊長!後方700メートルより新手です!」


 「なに?」


 振り返ると確かに数体のフォールン、同種であるオーガフェイスがビル群の影から姿を現した。数8。正面の個体も合わせれば9体と群れの規模としては小規模と言える個体数だ。


 一般論として武装した兵士1人の強さはオーガフェイスと同じくらいだと言われている。距離さえあれば1人で2体のオーガフェイスと相対することもできなくはない。


 仕方ない、と隊長は後列の6名に迎撃を命令する。正面の個体には前列から2人を選び当たらせるように迅速に指示を飛ばした。自分を含めた残る4名で周辺を警戒する、そのつもりで出した指示だ。


 隊員達はその指示に従い、迫るオーガフェイスへ向かって銃口を向けた。彼らに照準され、しかしオーガフェイスらは接近をやめない。ゆっくりと包囲網を狭めるようにジリジリと向かってくる彼らは距離500メートルのところで停止した。


 統率の取れた動きを見て、隊長は舌打ちをこぼす。そして彼は確信した。リーダーがいる群れが相手だ、と。


 下位種の群れは数多くあるが、中でも厄介なのはリーダーを置いている群れだ。他がただ数の暴力で攻めてくるのに対して、統率が取れている分、動きが読みにくい。待ち伏せ、囮、果ては罠といった人間のような戦術を駆使してくる。


 オーガフェイス達が距離500メートルで停止した理由も銃の射程を理解しているからの動きだ。有効射程で言えば1,000メートル以上ある機関銃も、使い手や状況によっては射程は半分以下にまで落ち込む。射程1,000メートル以上も、よく狙えば、という枕詞が付くため、実際の有効射程はせいぜい500から800メートル、現在の隊員の士気を考えれば600、500というのが現実的な数値だろう。


 こちらの動きをよく観察した上での行動。害獣の分際で。隊長は悪態を飲み込んでを隊員達に指示を出そうとした。


 その時、その直前、正面の瓦礫の山に立っていたオーガフェイスが耳をつんざくような咆哮を上げた。それは建物の中を反響し、静寂を破る衝撃だった。


 思わず隊長は身構え、トリガーガードからその内側に指が落ちた。人間を恐怖させて止まないフォールンの咆哮、それを間近で受けてなおも精神を保つために必要な動作だった。


 直後、左右の建物が鳴動し、それは地面に伝わって巨大な地響きを生んだ。サンクチュアリに住むものであればまず感じたことがない地鳴り、反射的に隊長は前方へ向かって走るように命令した。


 「全員!正面めがけて、走れ!死に物狂いでだ!!」


 指示を受け、それまで銃を構えていた隊員達は踵を返して、正面めがけて走り出す。死に物狂い、という指示を誰もが疑わず、脱兎のごとく走り出したのは日頃の隊長の信用の賜物だろう。


 背負っていたバックパックを放り出し、しかし銃器だけは手放さない彼らの背中を見計らったようにオーガーフェイスが猛追する。走りだした彼らの速度は人間などどうということはない。怒涛の勢いで迫ってくるオーガフェイスの足を止めようと隊長が銃を撃つが、それも気休めにしかならない。


 オーガフェイスの硬質な仮面は銃弾を弾くのに十分な硬度を持つ。カン、カンと弾かれる弾丸を尻目に隊長も踵を返して走り出した。


 「クソ!走れ!とにかく走れ!」


 後列が自分を過ぎ去ると同時に隊長も走り出す。時折足を止めては威嚇射撃を繰り返し、オーガフェイスの進撃を足止めするが、それもいっときに過ぎない。追いつかれるのは時間の問題だった。


 その間も地響きは続き、そしてそれは走り出して間もなく起こった。


 左右の建物が迫る。それは比喩でもなければ走る彼らが近づいているわけでもない。文字通り、左右の建物が倒れながら近づいてきていた。


 地響きでは収まらない鳴動、天変地異かのように左右の建物がほぼ同時に崩れだし、影を落とした。落としたのは影だけではない。振動により老朽化した壁が天井が崩落し、落石となって走る彼らを襲った。


 落石と共に小隊を追うフォールンの群れも追撃の手を止め、反対咆哮へ向かって走り出した。しかし隊員の誰も喜ばない。頭上を気にしながら前に向かって走るという難儀。それは容易に人を殺した。


 崩落する巨石を避けれず、隊員が1人、潰された。ぐちゃんと頭から潰れ、まるで息が漏れた風船のようにビクビクと両足が震え、数秒後に沈黙した。


 唐突な仲間の死、けれど足を止めるものはいない。走る足を止めず、頭上をただ彼らは警戒する。そしてつまづき、今度は下半身が消えた。


 「つ。くそ」


 次々と部下が死んでいき、自身の無力さを痛感する隊長は恨めしげに頭上を見上げた。天蓋を閉ざす灰色の手は衝突し、その自重を支えるようにズズと建物同士がこすれ合った。


 左右のビルが衝突した時、溜まりに溜まった砂塵が巻き上がり、岩雨が降り注いだ。それはただ真下に落ちるだけではなく、周囲へと四散し、高みの見物を決め込んでいたオーガフェイス達も慌てて退避するほどの惨禍だった。


 直下にいた小隊の隊員達に降り注ぐ容赦のない落石、しかし幸いなことにすでに堕ちていた瓦礫に引っかかり、堕ちてきた巨大な瓦礫が屋根となり、彼らを巨石から守った。しかし、と隊長は頭上に視線を送る。


 頭上のビル本体、大質量物が落ちてくればこんな簡易な回復所など簡単に崩れ去ることは容易に想像ができた。所詮は一時の慰みと彼が暗澹たる気持ちでいた直後、奇跡は起こった。


 衝突した左右のビルは絶妙なバランスを保ったまま三角屋根を思わせる独特なオブジェを形成して静止した。崩落は絶えないが、双方の質量が同程度だったからか、とにかく静止した。


 旧時代、フォールンが跋扈する以前の社会では土建業者の不足と予算的問題からコピー&ペーストのように同じ具材、同じ間取り、同じ面積、同じ高さの高層ビル群を乱立させることが多かった。小隊が哨戒していた場所も右を見ても左を見ても同じ形、同じ造形の建物ばかりが目立つ面白みのない場所で、GPSやタウンマップのない現在ではどれだけ入念に地図を読み込んでも迷ってしまうことがある悪所だ。


 しかし今はその旧時代の手抜き工事によって助かった。なんとも皮肉だ、と隊長は苦笑し、同時に自分の幸運に賞賛を送った。


 安堵冷めやらぬ中、砂塵の向こう側ではオーガフェイスの怒号がこだました。その咆哮によって隊長をはじめ、小隊の面々は正気を取り戻した。そして何人が生き残ったかを彼らは確認する。


 残ったのはわずか8名。それも内2人は足に怪我を負っていた。


 せっかく落石から助かったというのにタチが悪い冗談だ、と隊長は歯噛みをする。随分な仕打ちだ。


 どうにかできないか、と彼が前後の出口を見るとマスクの暗視機能が自動的に起動し、複数のオーガフェイスを捉えた。正面の1体、後方の8体に加え、さらに3体がビルの中から姿を現し、隊長は舌打ちをこぼした。


 今日何度目かの舌打ちか、わかったものではない。負傷者を見捨てればまだ助かったかも、という希望をつぶしにきた。


 恐らくは出てきた3体のオーガフェイスがどうやってかビルを倒壊させたのだろう。しめしめとでも言いたげに彼らは小隊に近づいてきていた。


 「クソ。おい!」


 仕方ない、と救難信号を発し、体調は負傷した2名を守る形で前後に3名ずつ、隊員を配置した。前後のみに意識を向ける左右の伏兵を全く考えていない陣形を組み、自身も戦線に参加した。


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