any day now

rei

I shall be released

 段ボールの束を台車から降ろして、ゴミ庫のシャッターを閉じる。

 吐く息が白くて、夜の寒さが身に沁みた。

 冷たい空気は頭が冴える気がして気持ちがいい。

 そう思うけど、寒いものは寒いし、仕事もまだ残っている。

 私は車輪がさび付いてなかなか進まない台車を押して、生ぬるい暖房のなかへと帰る。

 警備員さんに軽く会釈をして、搬入用エレベーターの下に向いた矢印を押して少し待った。

 なんで一階のスーパーは内側のシャッターからゴミ庫にアクセスできるのに、地下一階の私たち百円ショップは一度外に出なきゃいけないんだろう。

 エレベーターが到着して、扉がムダに重々しく開いて私を招くから、私はほとんど無意識になかに吸い込まれた。

 けっきょくこの微妙な不平等の理由は知らないまま、私は今日、アルバイトをやめる。



 三年くらい勤めていた雑貨屋(本部は百円ショップと自称するのをやめたけど、従業員の私からしてみてもまだまだ『百均』だった)の店長に「やめたい」と告げるのはそれなりに怖かったけど、店長はすんなり「そっか、今月いっぱいまではよろしくね」と頷くだけだった。

 案外そんなものだ。

 私ができる仕事はほかの人にもできるし、私がやめても募集をかければすぐに新しいスタッフは見つかる。

「なにかやりたいことが見つかったの?」なんて、仲良くさせてもらっていたパートさんに話しかけられて、「ええ、まぁ、そんなに大したことではないんですけど」と私は頬を掻く。

 本当に大したことじゃない。

 貯金が尽きるまでだらだらと生きてみるだけだから。



 必要なものをいろいろ揃えて、手元には十二万弱のお金が残った。

 二週間後には最後の給料が入ってくるはずだ。

 ──二ヶ月分くらいかな。

 家賃と光熱費、水道代に携帯電話料金、ただ生活するだけでもどんどんお金はなくなっていく。

 食費とか、洋服代とか、節約できるところを我慢すればもう少しもつだろうけど、そうするつもりはあんまりなかった。

 べつに、松坂牛のステーキとか、ルイヴィトンのバッグに手を出すつもりもさらさらないけど、おいしいものはたくさん食べたいし、もうすぐ気に入っているブランドの新作が出るから。

 そんな風に、短いようで長くて長いようで短い私の二ヶ月間は始まった。

 


 前から見てみたかったアニメを見た。

 すごく面白かったから、アニメの続きから原作コミックを本屋で買った。

 最新刊はその後の展開がとても気になる終わり方だったけど、次巻は四ヶ月後に発売される。

 それは残念だ、と思う。

 私はコミックをこたつ机に放って、乾燥パスタを一束ゆでる。

 トマト缶でも煮込んでソースを手作りしてみたいけど、たぶんやらない。

 コンロが一口しかないから。

 そういうわけでいつも通り、買いだめしている市販のパスタソースから適当に一つ手に取った。

 たらこソースだった。

 まぁ、可でも不可でもない。

 そもそもなんでもいい。

 残りのストックをざっと数えたら、二十食分くらいはあって、三日に一回はパスタを食べることがなんとなく決まる。

 パスタソースの群れのそばには、しょぼくれた(ように見える)トマトピューレのパックが収まっていた。

 これは使わないままだろうな。

 明日はカルボナーラにしよう。



 最後のお給金は想定したよりも少し多かった。

 そういえば、消化しきれなかった有給を買い取ってもらった気がする。

 有給分全額にしては少ないから、たぶん七割くらいの値段なんだろう。

 なんにせよ、今の私にはありがたいボーナスみたいな気分だった。

 高校の頃からの無二の親友から「土曜日、仕事休み? 遊びいかない?」と久しぶりにLINEが来た。

 私は「いいね ちょうどシフトないよ」と返しておく。

 正直に打ち明けてもよかったけど、話したところでなにも変わらないから、私は嘘をついた。

 ボーナスはそのときにパーッと使ってしまおう。

 気が早いけど、土曜日が待ち遠しかった。



 深夜のコンビニに、チューハイ二缶と軽いおつまみを買いに行った。

 めったにお酒は飲まないけど、なんとなく飲みたい気分だった。

 このあいだ買ったベージュのダウンコートを着ているだけで、刺すような寒さもないことになる。

 ボーナスをほとんどつぎ込んでしまったけど、私を苦しめようとする寒気に打ち勝った気分に浸れるから、後悔はない。

 雑誌コーナーで、続きの気になっていたマンガが表紙を飾っているのを見つけた。

 なんとはなしに手に取って、パラパラとめくってみる。

 単行本の終わりからかなり話が進んでいて、記憶の一部分がぽっかりと抜け落ちてしまったみたいな感覚になった。

 いっそ愉快なくらい急激に興味を失って、私は雑誌を棚に戻した。

 明らかに寝不足な店員がレジ打ちしているあいだに、私は『20歳以上ですか?』を『はい』と応えておく。

 そもそも選択肢は『はい』しかない。

『いいえ』も選べたら、面白かっただろうに。

 背後から受けるコンビニの光は、私の真正面の地面にくっきりとした影を作った。



 親友に勧められた映画を見た。

 なんでも、先に日本で舞台化されていたのを俳優目当てで見に行って、それから原作の映画にもドはまりしたらしい。

 正直あらすじだけ目を通してもあんまり惹かれなかった。

 それどころか、『ゲイ』だとか『ダウン症』だとか単語があって、積極的に見るには少し勇気がいるな、とまで思っていた。

 思っていたはずなのに、私はその映画を見ながら泣いていた。

 主人公はどこかのバーで歌っていた。

 力強いのに、とてもきれいな声音で歌っていた。

 その希望に満ちた歌声が悲しくて、私は気がついたら泣いていた。

 きっと、私の涙には嫉妬も混じっているんだと思う。

 どうして、辛くて辛くてたまらないはずなのに、微笑んでいられるんだろう。

 どうして私はこんなに泣いているのに、あなたは涙を落とさずにいられるんだろう。

 いつの日か、私もそんな風に笑えるようになったのかな。

 そうだったらいいな、とまるで他人事みたいに思った。



 最後のパスタソースはトマト仕立てのミートソースだった。

 もちろん手作りなんかじゃなくて、どこにでも売っている市販のソースだったけど、十分おいしいからとくに不満はない。

 それに今日は食後のデザートもある。

 スーパーで安売りしていたドーナツのうち、なんとなくチョコレートドーナツを買った。

 それだけで少し気分が上がっている私は、私が思っているよりもずっと単純なんだと思う。

 こんなことなら、デザートひとつくらい毎日買えばよかったかもしれない。

「ごちそうさまでした」

 ドーナツをさっさと食べ終えてしまったら、食器を洗って、歯を磨いて、薄く化粧をして、お気に入りの服に着替えて、二ヶ月前に買っておいた練炭に火をつけて、睡眠薬をいつもより多めに飲んで、ベッドにもぐった。

 ワンルームとは言え、ガムテープで窓枠やドアの隙間を埋めていくのはなかなか大変だった。

 そういえば、この部屋はいわゆる事故物件になってしまうのかな。

 その分の損害賠償とか、たぶん遠方に住んでいる両親に請求されるんだろうな。

 まぁ、いいか、それくらい。

 真っ暗な海を落ちていくみたいな眠気が来る。

 

 それじゃあ、おやすみ。

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