先手
「倒れたって……。お母さん、大丈夫なの?」
新井は眉尻を下げて、聞いてくる。
「外部の医療機関で精密検査するらしい。結果は追って報告する、だと」
「そ、そっか……。お母さん、何にもないといいね!」
「……なぁ、新井。随分と段取りがいいと思わないか?」
「だ、段取り?」
呆けた顔で、新井は聞いてくる。
「お袋が収監されているのは、国内でも最大規模の刑務所だ。医療設備なんて、他の刑務所と比較にならないほど充実しているはずだ。……なのに何で、いきなり『外部で精密検査』なんて話になるんだろうな。ただ倒れたってだけなら、まずは自前の医務課で診るだろ」
「へっ? ……な、何が言いたいん?」
「完全に先手を打たれたな。新井。俺は……、どうやら取り返しのつかないことをしちまったらしい……」
「と、取り返しのつかないって……。アンタ、一体何したん!?」
新井はおずおずといった様子で問いかけてくる。
……が、俺にはもはやその問いに、まともに答えるだけの思考力すら持ち合わせていない。
迂闊だった。
こうなることは十分に想定出来たはずだ。
USBが田沼さんの手元にあったからと、完全に高を括っていた。
こうしている今も、『最悪の事態』がより具体的に脳裏に浮かんでくる。
後悔、などという一言では生温いほどの業。
コレは……、相当に堪える。
初めから仕組まれていたとは言え、手を下したのは間違いなく俺だ。
俺自身だ。
俺だ。俺が。俺は。俺の、俺の手で。お袋は……。
「オギワラァッ!!!!!」
俺を呼ぶ叫声とともに、バシン、と鈍音が店内に反響する。
一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。
気付いた時には、新井の端正な顔が、目と鼻の先まで近付いていた。
抵抗しようにも、彼女の両手に両頬をがっしりと抑えられ、身動き一つ取れない。
彼女のその鋭い視線は、『絶対に逃さない』と言わんばかりに、俺の目を射抜いていた。
「イイ!? オギワラサトル!! まずはアタシの質問に応えなさいっ!! じゃなきゃ協力出来るモンも、出来ないでしょ!?」
新井は、店中に響き渡るほどの大声で言い放つ。
その尋常ではない様子に、客席に座る誰もがこちらを振り返る。
『痛み』とはまた違う妙な感覚に、俺の意識は徐々に引き戻されていく。
俺は至極冷静な彼女を前に、視線を逸らすことしか出来なかった。
「ちょっと〜? カナエちゃんたちぃ〜? イチャコラするのは大変結構なんだけど、他のお客様もいるんだから、もう少〜しだけボリューム下げてくれるかな〜?」
騒ぎを嗅ぎつけた新井の母親が、厨房の陰からそそくさと俺たちのテーブルへやってくる。
すると、新井はハァと大きく溜息を吐き、周囲の客に軽く会釈する。
「……ごめんなさい。あと、お母さん。『イチャコラ』って死語だから」
「ちょっとぉ!? そういう残酷な現実突きつけてると、たとえ娘でも出禁にするよっ!?」
「あー、はいはい! 分かったから、サッサと行った行った!」
「もうっ! サッくん! 何かよく分かんないけど、あんまり一人で思いつめちゃダメだよ! 何かあったらカナエちゃんのこと、遠慮なーく使っちゃっていいからね!」
新井の母親はそう言ってウィンクすると、キッチンの方へ捌けていった。
「……あのさ、オギワラ。アンタが今何考えてんのかは知らないけどさ。少し、落ち着きなよ。まだ分かんないじゃん? 何があったのか、なんてさ!」
新井は優しく諭すように、語りかけてくる。
「それにさ。アンタ、忘れてない? 今は、アタシの依頼中だってこと」
「そ、それは、確かにそうなんだが……」
「そ! だからさ……、何かあったら、アタシも一緒に背負うって」
新井はそう言って、小さくはにかむように笑う。
彼女のその穏やかな笑みを見て、少しずつ自我が舞い戻ってくるような感覚がした。
「それにさ! お母さんだって、言ってたじゃん! アタシのこと、遠慮なく使えって。そうじゃなくてもアタシ、アンタのアシスタントでしょ?」
「……俺の、ってワケじゃねぇけどな」
「イチイチ揚げ足取らないの! で、どうなん!?」
新井はダンと軽くテーブルを叩き、目を釣り上げ、睨みつけてくる。
一度こうなってしまったからには、話すまでは許してくれないのだろう。
俺は意を決して、ゆっくりと口を開く。
「まぁ、まず言うとだな。お袋は……、死ぬかもしれない」
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