皇帝の椅子

@bunbuku123

第1話 生まれ変わったあなた

 もしも生まれ変われるのならば、鳥になりたい。

 東に聳える山々の頂の上をはるばると高く飛んで、朝日を誰よりも早く見たい。西に広がるぎらぎらと輝く水平線を切り裂くように低く飛んで、夕日を誰よりも長く見たい。

 私たちが出会った頃より随分と大きな背中をしたあなたが、空を仰ぎながらそう言った。




 「お、お前、誰!?」

 「昨日さくじつ皇子のジュエリー・メイドを仕りましたエスリンにございます。随分お早いお目覚めでございますね」

 

 扉を開けて一番に投げかけられた言葉に怪訝そうな顔をして、エスリンはそう答えた。彼女の目の前に立っている少年は、目を真ん丸くして驚いたような表情をしている。エスリンが呆れた顔をしながら少年に近づくと、彼は近づかれた分だけ後ろに下がった。

 エスリンは自身の仕える主をじっと見つめた。寝癖が付いたままのぼさぼさの黒色の髪に、現皇帝の持つ瞳と同じ水色の澄んだ瞳。上質な記事で出来た寝巻の上はボタンがかけ違えられている。エスリンと同い年の若干十歳の少年は、この帝国の皇子である。例え名目上の地位であっても。

 何かあって変な噂を立てられてはかなわない。


「お前たち、部屋から少しばかり離れて立っていなさい。聞き耳を立てたら厳罰と処します」

 

 険しい顔をしたエスリンは振り返って、部屋の様子を伺う近衛兵を顎でしゃくって追い出した。そのまま胡桃の木でつくられた両開きの扉を静かに閉めると、目の前の主に向き直る。


「どうされました?タイロン様」

「た、たい、ろん……?俺の名前はタイロンというのか」


 なんだか面倒くさいことになった気がする。エスリンは心の中でむすっとしながら、タイロンに近寄って行った。タイロンはじりじりと後ずさりするも、後ろのタンスに背中をつきへなへなと座り込んでしまった。エスリンは自身の身に纏うメイド服の裾を手で整えながらしゃがんで、タイロンに目線を合わせた。混乱している、と顔に描いてあるようだ。これではポーカーフェイスのポの字もない。


「ご観念されましたか」

「なにが、なんだか……」

「皇子は何故そんなに混乱されておいでなのですか」


 エスリンがそう聞くと、タイロンは押し黙った。何か考え込んでいるように視線がせわしなくゆらゆらと揺れている。エスリンにもタイロンがこのような状態になった理由は分からないが、彼としても意図せずこうなったのだという事は分かった。

 数分ほど経っただろうか。エスリンが黙ったままじっと待っていると、タイロンが恐る恐る口を開いた。


「俺は……どうやら、記憶喪失になったらしい。今までの全てを覚えていないんだ」

「記憶喪失、ですか」


 エスリンは目を丸くした。何を言うかと思ったら、突拍子もない。タイロンは震える手でエスリンの後ろを指さした。


「あ、あそこのベッドの端に頭を打ち付けたんだ。お前が誰なのか、ここが何処なのか、自分の名前すらも……何もかもを思い出せない。俺のことについて教えてくれ」

「頭を打ち付けて記憶喪失……あまり状況が芳しくありませんね」

「芳しいどころか最悪では……?」


 タイロンはエスリンの悠長な口調に眉を顰めた。

 エスリンは今度は堂々とため息を吐くと、再び自らの主を見つめなおした。


「皇子が嘘をおっしゃっておられるとは考えておりません。嘘にしては冗談が過ぎます。ですが、記憶喪失が周りの人間に知られると皇子のお立場が危うくなります」

「皇子……さっきから俺のことを王子と呼んでるが、俺は皇子なのか?」

「はい。この国の皇帝陛下と側妃そくひであるダフィーヌ様の間にお生まれになった、第十三皇子様にございます」

「そ、側妃?」

「はい。側妃についてはご理解いただけますか?」


 タイロンは首を横に振った。本当に何もかもを覚えていないらしい。エスリンは少しだけ唸った後、人差し指を一本立てた。


「この国の皇帝陛下には数多くの奥方様がいらっしゃいます。まず、皇后。陛下の対となる方で、式典などにはこの方が出席されます。奥方様たちのお過ごしになる后宮こうきゅうで一番地位と権力が大きいのはこのお方です」


 今度は人差し指と中指を立てた。


「次に、夫人。現在陛下には第一夫人から第五夫人までいらっしゃいます。この方々が后宮では二番目に地位をお持ちです。数の大小による力関係の差などはございませんが、第四夫人と第五夫人の後ろ盾はあまり権力がお強い方ではございません」

「夫人は五人ね」

「はい。このようなお話は出来る場所も限られてございますので、率直に申させていただきます。ご無礼をお許しくださいませ」


 部屋の外にいる近衛兵を気にしながら、エスリンは小声でそう捲し立てた。構わないという風にタイロンは細かく頷く。

 エスリンは最後に、三本の指を立てた。


「最後に側妃。所謂めかけというものです。此方が三番目……というより、后宮ではあまり力をお持ちではございません。皇后、夫人のお心次第では地位の剥奪、最悪極刑もあり得ます。陛下の気に入った召使や諸国の貴族の家から人質として送られてきた方々がこのような形で后宮に住まわれます。タイロン様のお母さまのダフィーヌ様も、この帝国の属国である西方の国、マチェタの第二王女であり、陛下に見初められて后宮にいらっしゃいました」

「つまり、そのマチェタ?から人質としてやってきたというわけか」

「深く勘ぐればそういうことになりましょう。しかし数ある側妃の中でも皇子をお産みになられておいでですし、陛下からの寵愛も受けております。お立場が危うくなることはあまりございませんでしょう」


 一息に話したエスリンは、一度大きな深呼吸をした。


「タイロン様には上に十二人のお兄様がいらっしゃいます。お母様は側妃。この意味がご理解いただけますでしょうか」


 タイロンはちらりと鋭い目線をエスリンに向けた。


「つまり、俺の立場は薄氷の上ということか」

「誠にその通りでございます。それ故、記憶喪失などという事実が漏れれば、最悪皇子という立場を破棄され辺境に幽閉されるやも分かりません。……皇子、記憶を失われた割には、どこか以前より賢くなられましたか?」

「ま、まあな。打ち所が良かったかもしれん」

「良かったら記憶喪失などにはなりませぬ」

 

 ジト目で見てくるエスリンから、タイロンは視線を逃がした。額にはどことなく汗が滲んでいる。

 嘘をつかれている、という感覚はエスリンにもあったが、いったい何に対しての嘘なのかは勘の良い彼女にも分からなかった。


「お、お前は俺のメイドなのか?」


 タイロンが露骨に話題を変えた。


「俺などいう乱暴な言葉遣いはお辞めください。私という主語で。はい、もう一度」

「え?」

「もう一度私めにお聞きください」

「……お前は私のメイドなのか?」


 めんどくせえ、こいつ。タイロンは心の中でそう思った。待ってましたとばかりにエスリンはニヤッと笑って、まるで内緒話をするようにタイロンに顔を寄せた。端正な顔が近づき、タイロンが若干たじろぐ。


「ふふ、私はただのメイドではございません。后宮が筆頭上級使用人、ジュエリー・メイドにございます」

「ジュエリー・メイド」


 タイロンは呆気にとられたようにそう呟いた。


 皇帝の直系の血を引く人間に仕える筆頭上級使用人。通称、ジュエリー・メイド。

 容姿端麗頭脳明晰であれば、人種や出自は不問。主人の手足となることが求められる、通常の使用人とは一線を画すメイドのことである。


「ジュエリー・メイドはその昔、皇族の方々の大事なものジュエリーを守るためのメイドにございました。宝石箱の鍵の管理から大切な文書の保管など、その業務の重大性や主からの信頼の厚さなどにより、その役割は変容してまいりましたが。基本的に私は命に変えましても皇子の味方にございます」

「お前は私と同じくらいの歳だろう。そんな大切な役目が務まるのか」

「ええ、私は皇子と同じくよわいは十でございます」

「じゅっ……」

「ジュエリー・メイドは主に一生お仕えいたします役職ですので、先に死ぬことも、後に死ぬことも許されません。主に一番近い存在となるため、幼いころにこうして選抜され、長きを共に歩むのでございます。幼少ようしょう故何かと不手際もございましょうが、ご容赦ください。成人になるころには立派な傍仕えとなりましょう」

「十歳にしては、かなり優秀だと俺は思うけどな」

「私」

「……私は思うけどな」

「恐れ入ります」


 エスリンは頭を下げた後、少し微笑んで立ち上がった。初めて見たエスリンの柔らかい表情に、タイロンはどっと力が抜ける。エスリンは部屋に入る時に押してきたワゴンを引き寄せて、手早く紅茶の支度をし始めた。ポットの蓋を開け中から湯気が立ち上るのを確認する。


「私がジュエリー・メイドに選ばれたのは丁度昨日さくじつ。后宮にジュエリー・メイドの候補者が五人集められまして、皇子が私めをお選びになりました。紅茶はレモンとミルク、どちらをお入れいたしましょう?」

「……レモンがいい」


 疲れた顔をして、タイロンはよろよろと立ち上がり、ベッドの縁に腰掛けた。上質なシルクのシーツが敷かれ、暗い赤色の分厚いカーテンの付いた天蓋付きのベッド。傍らに置いてあったサイドテーブルを引き寄せると、エスリンはそこに紅茶のカップとサンドイッチののった小皿を乗せた。


「いただきます……」


 おもむろにタイロンは両手を合わせそう呟いた。イタダキマス、という言葉は生憎知らないが、おそらく食事をいただくことについて述べているのだろう。エスリンは少しばかり疑問に思ったものの、特に何も言わず仕事を始めた。


「この国について、ある程度教えてくれないか」

「本当に皇子は何もかもを忘れてしまったのですね」

「ああ、忘れた」

「ではまず、そちらの壁に貼ってある地図をご覧ください」


 クローゼットからタイロンの服を取り出しながらエスリンは口を開く。薄いハムとレタスのような葉が挟まれたサンドイッチをモソモソと食べながら、タイロンは壁に貼ってあったこの世界の地図をはずした。大きな大陸が全面に描かれており、右の方に少しばかり海が描かれている。大陸の真ん中には、歪なY字型の山が縦断していた。


「海岸線を見てください。海岸が大きく凹んでいる場所があるでしょう。そこを河口とする大きな川が見えますか?」

「ああ、見える。ヴァンタム川だな」

「はい。川に沿って真っ直ぐに指を滑らせると、ファナンという都市があるでしょう。それがこのガナ帝国の首都にございます。私たちが居る后宮があるのもそこです」

「この帝国は誰によって治められている?」


 地図をじろじろと睨みながらタイロンが出し抜けにそう言うと、エスリンがぎょっとしたように手を止めた。


「……皇子の口からそのような言葉が出ますと、臣下の心臓に悪うございます。今後お気をつけください」

「はん。俺、いや私がお前を試しているとでも?随分過敏じゃないのか」


 エスリンはタイロンの傍に急いで近寄って跪き、主の目をしっかりと捉えた。驚いたタイロンは思わず地図を握りしめる。

 エスリンの瞳に含まれた緊張を、タイロンはどことなく感じ取った。


「いいですか。私は今から恐ろしいことを申し上げます。一度しか言いませんよ」

「あ、ああ、しっかり聞く」


 タイロンは残りのサンドイッチを小皿に置くと、エスリンのただならぬ様子に姿勢を正した。エスリンが口を開く。


「現在の后宮には、他国をも巻き込んだ複雑極まりない権力争いが渦巻いております。その様子は民にまで伝わっているほどです」


 タイロンはごくりと喉を鳴らした。


「もしも———もしもの話をするだけでも不敬でございますが———現在の皇帝が崩御なされたら」


 エスリンの目が鋭く細められた。


「皇帝の座を狙った、史上最悪の闘争が始まるでしょう」


 バタバタと、窓の外で鳥が羽ばたいた。遠くの方で鐘の鳴る音が聞こえる。雲が太陽を覆って、部屋に薄暗い影を落とした。

 タイロンの心臓がどくどくと音を立てている。


「……朝食をお召し上がりになりましたら、少し外に出かけましょう」


 感情の良く読み取れないような無表情になったエスリンは立ち上がって、今度は主の靴選びを始めた。

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