第70話 兄弟神の絆




「兄さん……。ボク、悔しいよ。苦しいよ。どうして、姉さんが犠牲ぎせいにならなきゃいけなかったの?」


 くしゃりとしゃくり上げながら、ボクは泣き続けた。

 そんなことをしていても、姉さんが戻ってくるわけもないのに。



 兄さんはそんなボクの頭をなでながら、くちびるを噛みしめた。


 兄さんもまた、悲しみにさいなまれていたんだ。

 ボクだけが悲しんでいる訳じゃないと、そのとき初めて知った。



 兄さんもまた、悲しんでいる。

 だったら、ボクに賛同さんどうしてくれるかもしれない。


「姉さんを取り戻そうよ!」

「そんなことをしたら、地上が崩壊ほうかいを迎える。あいつはそれを食い止めるために自らを犠牲にしたんだ」

「そうだよ、姉さんはいなくなった! やつらを助けるために」


 姉さんのやりたかったことを理解していた。

 けれどやっぱり、辛いものは辛いわけで。


 本当は、地上の奴らが感謝していたら、我慢がまんするつもりだった。



「……でも、やつらは当たり前のようにその上に立っているじゃないか!」


 指をさす先には、地上の様子が映った水鏡みずかがみがあった。

 ボクには姉さんの犠牲の上に成り立つ世界が、憎らしくて仕方がなかった。


 当たり前のように繰り返す地上の営みを見て、姉さんの犠牲とは何だったのか。

 そう思わずにいられなかった。


「なんで……こんな奴らに希望なんか……」


 どうしても分からなかった。


 姉さんが人間のどこに希望を見出していたのか。

 どうして兄さんが人間をおそけものを作っただけで、奴らが踏みとどまれると思ったのか。


「やつらは、いずれ繰り返す。……だったら」


 泣きすぎて赤くはらした目は、かつては輝かしい金色だった。

 けれど今、その瞳には黒い炎が宿っていく。


 兄さんはそれを見て、ひどく慌てた。



「ボクは行くよ。全部、一からやり直そう?」


 全部一から作り直す。

 そのためだったら、ボクは……。



 そこからの記憶は酷く曖昧あいまいだった。




 痛い。寂しい。苦しい。悲しい。

 誰か、助けて。



 そんな感情ばかりに飲み込まれていた。

 地上に降り立つころには、ただ姉さんの元を目指していたように思う。



 それでもおぼろげな意識の中、進んでいった。

 そしたら……。


「姉さんを奪った奴らを、なんで守ろうとするの?」


 兄さんが、前に立ちはだかった。

 ひどく悲しそうに、ボクを見ていた。


 なんで、そんな顔をするの?

 ボクが間違っていたの?

 姉さんを失って、悲しくないの?


 だとしたら、そんなの……


「お前なんか……。お前なんか、兄さんなんかじゃない!!」



 ドロリ、と黒い涙が流れた。

 神のきずなを疑ったから、罰が当たったんだ。


 輝く様な赤髪も、金色の瞳も、気がついたら黒に染まっていた。

 ボクは、完全に堕ちてしまった。


 、消えていくのが分かった。


 全身がひどく痛い。

 熱い。苦しい。辛い。


 そんな感情に呼応するように、体からは黒い炎が上がった。


 やがて黒い炎から吹き出る様に、瘴気しょうきが生まれた。

 瘴気は兄さんの作った獣に移って、魔物まものになった。



 彼らはただ、人を襲う。

 怒りと悲しみだけを持って、地上を終わらせるために。



 あぁ、でも。

 それで姉さんを助け出せたとしても、ボクはもう、元には戻れないね。



 ボクに課せられた罰は、この苦しみに、この悲しみに、苛まれ続けることみたいだから。

 いずれ理性りせいも、記憶も消えていくのだろう。


 後に残るのはきっと、悲しさと苦しさだけだ。


 それが――ボクへの罰。ボクのごうだ。






 それからどれだけの時間が経ったか。


 再び意識が浮上するのを感じた。

 兄さんの封印が壊れたんだ。


 あぁ、でも。

 もう、終わらせてほしい。

 もう終わりたい。


 でも。

 悲しみも、怒りも、消えそうにないんだ。


 ねえ、兄さん。

 いるのなら助けて。


 ボクは兄さんの気配けはいに手を伸ばした。


 でも、ボクは言っちゃいけないことを言った。

 兄弟に、のろいの言葉を投げかけてしまった。


 だから兄さんももう……ボクを弟とは思っていないだろう。


 伸ばしかけた手を引っ込める。


「そんなことないよ」


 そのとき、懐かしい何かに抱きすくめられた。


 温かい。

 ボクより大きくて、けれども優しい手だ。


「兄……さん?」


 兄さんの気配だった。

 強くて優しくて、温かい。


 大好きな、温もり。



 心のよどみが、晴れていく。

 ボクに張り付いた黒が、がれ落ちていく。


 元のボクに、兄さんと姉さんの弟の「ボク」に戻る。


「……あぁ、ありがとう。まだボクを弟だって思ってくれていたんだね」


 温もりは、自分の温度を分け与える様にぎゅっと力を強めた。

 きっと、分かっているんだ。


 ボクはもう、兄さんたちと一緒にはいられないということを。

 このまま、消えていくということを。


 神を呪った魂は、元には戻らない。

 だから。


「兄さん。いとし子を通じて、見ているんだろ?」


 そう言って離した温もりは、やはり兄ではなく、聖女と呼ばれている人だった。

 そして、姉さんにとてもよく似た人。


 彼女は悲し気に目を伏せていた。

 ボクまで救おうとしていたのだろう。


 本当に、そう言うところは兄さんにそっくりだ。

 それがなんだか面白くて、わらってしまった。


「ありがとう。最期までボクを忘れないでいてくれて。もう一人で大丈夫だよ。だって、最後に兄さんの心を知ることができたから」


 うそだ。


 本当は寂しい。

 けれど、もうこれ以上、迷惑はかけられない。


「愛してるよ。ずっと」


 だから一人で光になろう。


 ボクは後ろをむいた。

 くらい闇の中へと足を向ける。



 だけど、ふいに肩を叩かれて立ち止まる。


「……え」


 振り返ると、そこには――


「姉……さん」


 氷神ひょうじんの姉さんがいた。

 あのとき確かに地上で消えたはずの……。




 どうして、だとか、なんで、とか。

 そういう言葉は出てこなかった。


 ただひたすら姉さんを追いかけて光の中へと駆ける。

 姉さんは、ただ優しくほほえんでいた。


「姉さん!」



 その手を掴む。

 涙があふれた。


 体が光の粒になっていくのも構わずに、ただ泣きじゃくる。

 ボクは、いつの間にか幼い子供の姿になっていた。


 とても温かい。

 これなら安らかに眠れるだろう。


 ボクはようやくまくを降ろせたのだ。


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