新幹線「のぞみ号」

板東英ド

第1話

2023年12月28日木曜日。東京・丸の内。定時の17:00を2時間過ぎても未だに、そしていつも以上に慌ただしく、忙しない雰囲気がオフィス街を包んでいる。多くの会社が今日で仕事納めで、年末年始を気持ちよく過ごしたいという欲望だけがサラリーマンたちのモチベーションとなり、各々の会社で仕事が駆け巡っている。大手出版社の子会社に勤める神谷薫も、今年最後の追い込みの最中であった。

「今月頭からちょっとずつ調整してきたけど、仕事納め当日となるとさすがにそう上手くはいかないよね…」

彼女は今日、どうしても早く帰りたかった。今日帰る場所は吉祥寺のアパートではなく、新大阪に住む彼の家だからだ。大学生の時に知り合い、今年で真剣な交際を始めてから5年になる。

とはいえ、今月のコツコツとした仕事の調整とその努力が功を奏し、計画通り、例年よりも2本早い新幹線に乗れそうだ。

「薫先輩、今年は早めに乗れそうですか?」

後輩の高森恵が顔をのぞき込みながら訪ねてきた。高森は薫が遠距離恋愛をしていることは知っており、例年の薫の様子と比べて、今年は上機嫌らしいことを見抜いたのだ。

「今月はほんっとに頑張ったんやから!なんとしてでも早く帰る!」

「私もいつもより手伝わされましたし、これで先輩の帰りが遅かったら私までムカつきます。」

「今度ご飯おごるから!とりあえず今は邪魔しないで!!」

「うわ、手伝わせた挙げ句、今度は可愛い後輩を邪魔者扱いですか、、、なんでこんな薫先輩に彼氏が居て、健気で愛想抜群の私に彼氏ができないのか不思議です。」

そういうところちゃうの?という一言をぐっとこらえ、薫はとにかく目の前の仕事に全力を注いだ。



20:00。仕事がようやくひと段落し、薫は帰宅の用意を始めた。ただ、タイミングとは不思議なもので、用意を始めた途端、部長から声を掛けられた。

「すまない神谷さん、これを渡し忘れていた。悪いが急ぎで頼む。君が終わらせれば私にも君にも最高の年末年始がやってくるんだ。」

「えぇ今からですか!?」

「今からといってもすぐ終わるから!最終のチェックだけで済むからさ、頼むな!」

そう言い残し、部長は別の会議室へ向かった。幸い片付けは始めたばかりだったし、すぐ済むなら…と椅子に座り直して受け取ったファイルに、薫は目を通し始めた。ぱっと見ではミスも少なく、確認だけならすぐ終わるだろうと腹を括り、着手し出した。だがやり出したが最後、思いの外、資料をめくればめくるほど修正が必要な箇所がいくつも見つかり、その修正を部長に押しつけようとしたが、部長は会議室から一向に戻らない。高森に頼もうにも、これ以上憎まれ口を一層浴びせられることは目に見えているし、実際かなりの働きで手伝ってくれた恩もあり、負担を掛けられない。

「結局こうなるのよね…」

大きなため息をつき、だが効率を最大限に上げて修正業務に取りかかった。すべて終わった頃には、時計はもう21:00過ぎを指していた。


退勤の打刻を神業の如く瞬速で済ませ、急いで東京駅の新幹線乗り場へと向かう。今年から、年末に出ているのぞみ号に自由席が無くなり、すべて指定席となった。そのため、事前に指定席の乗車券を購入しなければならないが、薫は例年より2本早い切符を、万が一仕事の都合で乗車時間を変更できるように、スマートEXで購入していた。部長の仕事を肩代わりした運のツケが良い方に回ったのか、帰省シーズンにも関わらず、2本遅らせるという手続きも淀みなく完了できた。もちろん、この変更手続きは会社から駅までの道で、歩きながら済ませたのである。乗り場すぐのコンビニで、適当に手づかみしたおにぎり2つを鞄に突っ込み、21:24発ののぞみ号に滑り込んだ。おにぎりは2つとも、あまり好きではない昆布味だったが、そのことへの落胆よりも、いつもの新幹線に間に合ったことへの安堵感の方が強かったため、目をつむった。


大きな荷物は予め向こうの家に送ってある。座席に座り、早歩きで上がった息を整え、お茶を飲み、深呼吸した。そしてケータイを取り出し、彼氏にLINEを送った。

“最終に間に合った!12時前にそっちに着きます”

送信ボタンを押したあと、ちょっと素っ気なかったかなと一瞬思ったが、運動不足の丸の内OLが21:00過ぎにダッシュした後に送ったのだから仕方ないと割り切った。割り切ろうとした。している内に気の緩みでこれまでの疲れが薫の身体をドッと襲い、眠気に自由を奪われて、深く眠ってしまった。既読がついたのは彼女が送信してから45分後、次の停車駅が名古屋であることを知らせた車内アナウンスが流れたときである。

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