第4話 私と彼の物語
「ねえ。久しぶりに少し話さない?」
ソファに座り、テレビをザッピングする夫に私からそんな風に声を掛けたのはいつぶりのことだろう。
いや。そんな改まったことは一度もなかったかもしれない。
けれど夫は、それが日常であるかのように「ああ、お茶でも淹れようか?」と自然とソファから立ち上がった。
予想外だった。
「どうぞ? 何の話?」とテレビに顔を固定したまま生返事をするか、リモコンを忙しく操作しながら「んー? 後でな。このテレビが終わってから」と永遠に終わりのこなそうな断りを入れるかのどちらかかと思っていたのに。
ダイニングにぼてぼてと移動してきた夫は、電子ケトルでお湯を沸かし、二人分のカップを用意し始めた。
どうした。
何故こんなにもテキパキ動く。
「紅茶でいい?」
「うん。ありがとう」
一体この男の体の中に何が入り込んでいるのか。
ついそう怪しむ私の前で、夫は手際よくお茶を淹れた。
「ほい」
そうして私の前にカップを置き、ダイニングテーブルに向かい合って座る。
気付けばテレビもきちんと消されていた。
「いや、別に何を話すってわけでもないんだけど」
「まあ、そんな時もあるよ。守ともこの間、試験勉強に疲れて下りてきたからこうやってお茶を飲んだな」
またも予想外な言葉に、私は「え?!」と大きな声を上げてしまった。
「まあまあ、静かにしてやらないと守が勉強に集中できないよ」
「あ、ごめん。でも意外だったから」
「そうか? 時々そうやって話してたぞ」
嘘だ。
「いや、本当だって。まあ、お母さんは寝るのが早いからな」
「ごめんなさい、うっかり声に出てたわ」
夫の帰りを待つ従順な妻もとっくの昔にやめてからというもの、お肌のゴールデンタイムが夜十時だというから、大体はそれくらいに寝ていた。
まさか我が家にその先の物語があっただなんて思いもせずに。
「最近守は明るくなったな。なんていうか、生き生きとしてる」
「私もそう思うわ」
ちゃんと見ていたのか。
お茶を飲んだと言っても、ただ黙って向かい合っていただけかもしれないと思ったけれど、何か話でもしたのだろうか。
男同士とは何を話すのだろう。
「まあ、守はいい友達を持ったよなあ。無理に追い出さなくてよかったよ、うん」
「そうね」
頷いてから、耳元を過ぎていった夫の言葉をひっつかまえて反芻した。
『無理に追い出さなくてよかった』――って、どういうこと?
「まあ俺の家族に何かあったら宇宙の果てまで追いかけてブラックホールに投げ込んでやると釘をさしたら神妙に頷いてたから、滅多なこともないだろうとは思ったが」
「……え? え?」
「それでもなあ、倫理観が違えば善悪の判断も違うからな。悪気なくってこともありえたわけだし」
「だから、え? え、え、何? ノイバスティのこと気づいてたの?」
「ノイバスティクルードサンザムンドエボニーギエルだろ? ずっと押し入れにいたな。たまにパソコンを持ち込んでたみたいだが」
こんなに予想していなかったことが明かされることはあるだろうか。
頭が全然ついていけていない。
っていうか何故フルネームで言えるのか。
どうやって覚えた。
「いつから知ってたの?」
「ゴキブリ退治をした時だな」
「その名前を言わないで」
っていうかそんなに前????
っていうか私よりも前に気づいていたの?
「押し入れから物音がしたって言われて、一緒に見に行ったら空振りだっただろ? 本当に何かいるかもしれない。薬剤を撒いたら逃げ出してくるかもしれないと思って、窓の下で張ってたんだよ」
「嘘……。そんなこと、ノイバスティは一言も」
「ああ、ノイバスティクルードサンザムンドエボニーギエルには口止めしてたからな。ゴキブリであんなに錯乱するお母さんが」「その名前を出さないでってば!」「地球外生命体のことを知って正気でいられるわけがないと思ったし、俺が知ってて黙ってたって知ったらそれこそ頭振り乱して頭突きされそうだったしな」
「んなことしないわよ!」
いや、正直胸倉をつかみかけていた。
まだこんな荒々しく若々しい自分が生きていたのかと驚く。
「俺だけは甘い顔をせず、嫌われ役になってでも安全だけは保障したかった。ノイバスティクルードサンザムンドエボニーギエルも悪い奴じゃなさそうだなとは思ったが、俺は何より家族を守るのが使命だからな」
だらしのない腹なのに。脳天の髪が薄くなっていることに気が付いて育毛剤を買い始めたのに。そんな夫に四十二歳にもなってキュンとくることがあるとは思いもしなかった。
まだ私の中の乙女は死んではいなかった。夫の毛根と同じように、ひっそりと身を潜め、生きていたのだ。
「あなたがそんなことをするとは思いもしなかったわ。だって、ずっと空気だったもの」
「俺が空気のように居られたのは、みどりがこの家を平和に保ってくれてたからだよ」
父親なんて息子にとっては目の上のたんこぶなのだから、空気くらいでちょうどいい。
そんな名言っぽい言葉にうっかり感心するところだったが、いやいやいやいや、騙されないぞ。
久しぶりに名前を呼ばれたって硬化しきった構えを解くなんてことはしない。
「そんなの、空気よりしっかり存在感をもってこの家にちゃんと居てくれたほうがいいに決まってるじゃないの!」
「そうか? なんか、邪魔かなと思ってさ」
「父親であり夫であり家族なんだから、そんなこと考える必要ないの! 堂々とこの家に帰ってくればいいのよ」
そうか、と言って夫は照れたように笑った。
なんやねん。
うっかり住んだこともないのに関西弁になるくらい調子が狂う。
「仕事にかまけてるうちに、家族への関わり方がなんだかわからなくなってしまってなあ。逃げるようにテレビを見たり、昼寝をしたり。いつのまにかそんな風になっていた。そのほうがお母さんも守ものびのびしていられるのかなと思うようにもなって、それが当たり前になってしまったな」
それは確かに私のせいでもあるだろう。
小学生から中学生に上がる時は特に神経を使っていたし、頼りたい時に夫はいない。相談もできない。それなら自分一人で勝手に決めて行動した方がシンプルで早い。そう考えるようになっていたから。
そうして夫を切り離して進めたほうが楽だった。
「ごめんなさい」
「いや、謝ることはないよ。大事な時に力になれなかったことはわかっているし、その分お母さんが何もかも一人で頑張ってくれたこともわかってる。それで息子があんなに立派に育ってくれたことも」
だからこれでいいんだって思ったんだけどな。
そう言って夫は、どこか遠くを見るようにして微笑んだ。
「ノイバスティクルードサンザムンドエボニーギエルに言われたんだ。諦めるということは、期待があったということですよ、ってな。そして期待はそう簡単には諦められないものなのですよ、と。漫画とドラマから得た知識だそうだ。そう聞いて、やっぱり俺もちゃんと家族に戻りたいって思ったんだよ」
「うん……」
だから。
だから、これからは。
「あなたが守のことを、家族のことをそうして守ってくれていたことを知れてよかった。私はやっぱり、家族は家族で支え合って生きていきたい。一人だって思うと強くなれる。だけどそれは寂しいことよ」
「そうだな……。本当にすまなかった。これからはそれぞれに考えて動くんじゃなくて、ちゃんと話をして、一緒に考えていこう」
「うん」
ノイバスティ。
あなたの言った通りだった。
私は確かに夫に期待をしていて、ずっとこんな風に話をしたいと思っていた。
息子のこと、いろんなことを共有して、一緒に考えたり、話し合ったりしたいと思っていた。
ノイバスティ。
もう私は一人じゃない。
昼間この家に一人でも、私は二人の帰りを待っているのだから。
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