第4話 息子のたたかい方

「いや、全然大したことじゃなくないでしょ!」


 聞いている時は黙っているのに必死だったけれど、口を開けばそんな言葉しか出てこない。

 きっと谷口くんは、息子がはっきりと主張するようになり、どんどん明るくなっていくその姿に焦ったのだろう。

 最近の息子は毎日が楽しそうで、輝いていたから。

 そんな息子に攻撃する理由が見当たらなくなり、そうなれば今度狙われるのは谷口くんだと思い、危機感を募らせたのかもしれない。

 だから『トロいから迷惑』に固執し続け、執拗にそのイメージをクラスに植え戻そうとした。

 けれどもはやこじつけでしかないそんな武装は今の息子には通用せず、何を言ってもクラスのみんなも息子も変わらない。

 そこに息子から一番聞かれたくないことを問われ、逆上してしまったのだろう。


 これは推測であって、実際に谷口くんがどう思っていたかはわからない。

 けれど、とにかく息子はよく頑張った。そのことだけはよくわかる。

 平和主義で、のほほんとしていて、隠し事が下手で正直で、優しくて、だからこそ強い態度に出られないところがあった息子が、自分の考えを持ち、しっかりと反論したのだ。

 何より、相手に合わせずに自分のポリシーに従ってよく戦ったと思う。

 私だったらやられたらやり返す。何倍かなど計算できないほどがむしゃらに徹底的に。――と思ったけれど、自分が子どもの頃を思い返せば全然やり返すなんてことはできていなかった。

 やはりその世界で生きていると善悪もその中で決まってしまい、客観的に何が悪いというのが見えにくい。

 だから自分に悪いところがあったのだろうと探してしまうし、だから仕方ないと納得してしまうのだろう。

 けれど息子は親が見ていない所でしっかりと成長してくれていたのだと身に沁みた。


「うーん……。痛かったし、今も痛いけど、体育祭の時ほどじゃないというか。僕にとっては、僕が悪いんだって思ってた時のほうがしんどかったから。心が痛いほうが辛かった」


 そう言いながら頬をつんつんして、「あ、イタッ」とかやっている。

 そりゃ痛いわ。


「そうね。それもわかるけど、それだって心の傷は残るかもしれない。殴られたのも、歯が折れたり……ってことはなさそうだけど、頬骨とか鼻とか骨折してるかもしれないじゃない」


 言ってて、そうだよ、何をぼんやりしていたのかとはっとする。

 転んだんだろうが、殴られたんだろうが、理由がどうあれ昨日のうちに診てもらうべきだったのに。

 親としてどうあるべきかなんてことばっかり考えて、冷静じゃなかった。


「たぶんそこまでじゃないよ」

「いいえ! 一回病院行きましょう。骨は目に見えないんだから」

「だって、骨が折れてたらきっともっと痛いでしょ?」

「骨折したことないんだから、そんなの比較できないでしょ」

「そういえばそうか」


 これだもの。

 いや、私も私だが。

 そんな思いから、つい責任転嫁するようなことを言ってしまう。


「しかし、先生も頼りにならないわね……」


 頭では「先生だって難しいのはわかっている」と言い聞かせていたものの、感情は全く納得していないのだと自覚する。

 しかし守は予想外のことを言った。


「そんなことないよ。体育祭のこと、みんなにもう一度考えてみろって言ってくれたのは先生だと思うから」

「え……? 先生は知ってたの?」

「ううん。僕がみんなに囲まれて……ってことは見てなかったはず。だけどさ、みんなの気持ちが一つだと思うと、人って気が大きくなるっていうか、緩むっていうか。こそこそ陰で言うんじゃなくて、普通にそういう話が出るようになっててさ。それで廊下を歩いてるときとか、『あーあ、あいつのせいで負けちゃったからつまんねー思い出だわ』とか言う人もいたから。そういうのを何回か先生も聞いたんだと思う」


 その度に注意してくれたのか、どこかでまとめて話をしてくれたのかはわからないが、数の正義があったのに、自然にみんなが謝ってくれるなんてことはありえない。そう考えているようだった。

 私もそう思う。

 そこまでの自浄作用は自然には働くまい。


 だって、輪になって誰かを悪として叩くことは、気持ちのいいことでもあるから。

 みんなの共通の敵だと思うことで、絶対的な悪で自分たちが正しいと思えて、罪悪感が湧きにくくなる。

 いっそ自分を正義のように感じる者もいただろう。

 そういう、ネットの炎上や叩きと似たような側面があったのではないかと思う。

 そこにたとえ誰かがふと客観視できたとしても、「ねえ、本当は私たちがしていることって……」と最初の一滴を垂らすのは難しかっただろう。

 連帯感が生まれると、それが壊れるのが怖くなるから。

 だからこそ先生でなければ難しかったことで、みんながどこかで感じていたことだからこそ、その一言は大きな力を持ったのだ。


「そう……」


 やはり先生も先生なりに、クラスのことを見てくれていたのだろう。

 何度かくれた電話も、息子の様子を伺うためだったのに違いない。

 先生にとって不思議すぎる息子の行動の理由を知りたかった、というのも多分にありそうだけれど。

 それでも先生はいつも、息子の様子を語って聞かせてから、さりげなく様子を聞こうとしていた。それは私に心配をかけないようにとの配慮だったのだろう。

 何でもストレートに事を運ぶのが最善なわけではない。

 なんとか事態の解決を図りながらも息子がその後もクラスに居づらくなったりしないよう、私が息子に何があったのかと問い詰めて心を閉ざしてしまったりしないよう、先生なりに言葉を選び、行動してくれていたのだろう。

 わかっていたはずなのに、一瞬でも責めてしまったことが申し訳ない。


「今日も、僕の顔を見て『どうした! 誰にやられた!』って、大騒ぎだったよ。僕が大したことないって言ったら、『そうか、じゃあ休み時間に職員室に来い!』って。全然信じてないよね」

「いや、そりゃ先生に同感よ」

「そっか。僕は自分じゃずっと顔が見えてるわけじゃないから、痣のことは別に気にならなかったから」


 痛みがあるだろうに。

 だがすっとぼけているのではなく、息子は本当に気にしていないのだろう。

 こういう子は一度抜けると本当に強い。


「それで谷口くんは? 昨日のことを言うなって釘を刺してきたりはしなかったの?」

「うん。それどころか、寄らず触らずで、今日は何もされなかったってのはさっきも言った通りで、何もなく終わったよ。それに谷口くんもお母さんに正直に話したんでしょ? だったらやっぱり、もうこういうことはないんじゃないかな」


 確かにそう思いたい部分はあるが、息子が言葉で反論しても聞き入れなかったのだ。人間ってそんな簡単に変わるだろうか。

 答えられずにいると、息子は「心配しなくても大丈夫だよ」と笑った。


「谷口くんも全部わかってたはずだよ。だけど一生懸命見ないふりしてきたんだと思う。他に方法がわからなかったから。だけど、大人が一緒に考えてくれるなら、そこから抜けられるんじゃないかな。今後は注意深く見られてると思えば、悪い言動も収まるだろうし」

「別に攻撃すること自体が目的じゃなかったんだから、ってこと?」

「そう。全然楽しそうじゃなかったよ。いつもイライラしてた。自分で自分の矛盾に気づいてたからだと思う」


 谷口くんもまた、ままならない自分を抱えていたのだろうか。

 わからないが、谷口くんのことは谷口くんのお母さんと、坂崎先生がなんとかするはず。

 そう自分の中に区切りをつけようとしたのだが。


「だからさ、僕のやり方って完璧に間違えてたんだなーと思った」

「――うん? 何が?」

「僕は谷口くんがむしゃくしゃして僕に八つ当たりしてるのかなって思ったんだ。ほら、よくあるでしょ? 『むしゃくしゃしてやった。誰でもよかった』ってやつ」


 犯人が動機としてよく語るあれをニュースで聞く棒読みで再現しながら、息子は続けた。


「だからさ、自律神経を整えたり、リフレッシュしたり、そういうので変わってくれたらいいなーって思ったんだよね」


 自律神経……なんだか最近の会話で聞いた気がする。

 そしてはっと思い当たった。


「ヨガ……?」

「うん、そう」

「ラベンダー?」

「それそれ」


 それらを一体どうしようとしてあんなことになったのか?

 まださっぱりわからないでいる私に、息子は続けた。


「ヨガをやってって言ったら余計怒ると思って」

「そうだろうね」

「だから、体育の授業でちょうど創作ダンスがあって、それに組み込むことにしたんだ。それを見て興味を持ってくれたら、家でこっそりやってくれないかなーって」


 なるほど?


「ほら、SNSとかでバズるとみんなも試すじゃない? そんな風になったら谷口くんも流行の波にのまれてくれないかなって」

「なるほどね」


 実際に突拍子もないと思えるようなことをノイバスティは流行らせたのだ。

 息子だってその波を作れるかもしれない。誰にだって可能性はあるのだから。


「うまくいくと思ったんだけどなー。同じグループの子は面白がって僕の案にのってくれたし。実際、学校の中ではプチバズってるんだけどね」

「そうなの?!」


 いつの間に。

 これだから学校の中のことはわからないのだ。


「でもほら、体育の授業はスマホ持ち込めないし、動画なんて撮れないでしょ? それに僕たちのグループが考えたダンスだから、真似はしてもそれを動画に撮ってSNSにあげるのは著作権違反になるんじゃないかって、誰も投稿しないみたい」

「みんな良識があって偉いわね」


 安心なような気はするが、この場合息子の作戦は失敗ということになるのだろうか。

 しかし小さな社会とはいえバズったのだからすごい。

 ノイバスティの影響ではあるかもしれないけれど、息子と、同じグループの子たちの力だ。 


「それとラベンダーも、リラックス効果が高くて、ストレスの緩和に効果的だって書いてあったからさ。匂い袋にして渡そうと思って」

「谷口くんに?! 渡したの!?」

「ううん。真正面から渡したって怒られるよ」

「そうよね」

「だから、谷口くんの家に寄って、ポストに入れておこうかなと思ったんだけど」


 それはちょっと迷惑になるかもしれない。

 他の郵便物に匂いが移ってしまうことになる。


「っていうか、よく家の場所を知ってたわね」

「谷口くんが、学校の近くに住んでるってよく自慢してるから。教室の窓から見える赤い三角屋根がそうだって言ってて、僕にもすぐわかった」


 これだから子どもは怖い。

 どこでどんな個人情報が漏らされているかわからないし、息子にも思わず切々と言い聞かせたくなったけれど、今はまず話を聞こう。


「それで谷口くんの家に行ったら、ちょうど弟くんが出てきたから、お兄ちゃんに渡して欲しいって頼んだんだけど。もしかしたら面倒くさくて谷口くんの通学鞄の中にポイって投げ入れちゃったのかも。その日谷口くんが登校してきてから、だんだん教室にラベンダーの匂いが広がっていっちゃって」


 ということは、移り香だったのは谷口くんの家まで持ち運んだ息子のほうだったのか……?

 谷口くんは自分の近くからありえない匂いがして、同じ匂いが強くする息子のせいだと思い込んだのかもしれない。

 いや、思い込みも何も、息子のせいで間違いないのだが。まさかその所在が現在自分の元にあるとはつゆほども思わなかったに違いない。


「次の日はラベンダーの匂いがしなくなってた代わりに、なんていうか、匂いを消し去るスプレーの匂いがしたから、申し訳ないことしちゃったなって」


 帰ってから自分の鞄に入っていることに気が付いたのだろう。

 そりゃあ教室から出ても匂いが付いてくるのだからさすがにわかるか。


「弟くんが心配ね。怒られてないかしら」

「うん。僕も謝ろうと思って次の日また谷口くんの家に行ったら、また弟くんと会って話を聞いたんだけど。『なんでこんなものが入ってるんだよ?!』って怒ってたから、『今朝渡しに来た人がいて、兄ちゃんがトイレに入ってたから後で言えばいいやと思って鞄の上に置いといたら、入っちゃったのかも。ごめん』って説明したんだって。そしたら、自分を好きな子が指に針を刺しながらせっせと作ってくれた贈り物だって勘違いしたみたい」


 そりゃあまさか自分がいじめをしている相手がわりと器用で指に針を刺すこともなく縫ったものだとは思うまい。被害と言えばその親がつり下がっているドライフラワーに腰を抜かしたくらいのことで。


「嘘は、言ってないものね」

「うん。なんか、すごく大事にしてくれてるみたいだから、僕からだとは言い出せなくなっちゃって……。でも明日、ちゃんと言うよ。指に針は刺してないってことも」

「いやいや、黙っておいてもいいんじゃないかな? どっちも」


 両方とも受け止めきれるか谷口くんの心が心配になる。


「でもさ、誰かの血がついてるかもしれない物って、ちょっと気持ち悪くない?」

「なるほどね? そういう考え方もあるわね?」

「だからさ、ちゃんと全部説明する。きっと今の谷口くんならわかってくれる気がするんだ」

「そうね」


 ちょっと傷ついちゃうかもしれないけど、勘違いさせたままよりいいのかもしれない。

 何より息子が決めたことだ。見守ろう。

 とにかく何があったのかわかってよかった。

 結局、力になってくれたのは高橋さん親子と、それから息子自身だ。

 私は心の中でわーわー騒いでいただけで何もできなかったし、長いこと息子が戦っていたというのに知らずにいた不甲斐なさに、谷口さんの言葉を思い出す。

 親がどんな教育をしようとも、受け取るのは子ども自身で、そこからどう育っていくかはわからない。

 だからといって子ども任せにしていいわけでもなければ、無関心でいていいわけでもない。

 結局のところ親にできることは、どんなことがあっても逃げずに子どもをしっかりと見つめていくことなのかもしれない。


「話してくれてありがとう。聞けてよかった。お母さんはね、守のことを心から誇りに思うわ。守なりに向かい合って、自分の言葉で思いを伝えて、毅然とした態度をとって、それは誰にでもできることじゃない」


 以前は自分の気持ちをはっきりと言葉にするのが難しい子だった。

 けれど息子は変わった。

 さらには嫌なことをしてくる相手の自律神経まで心配し、かつ行動まで起こせる人なんて、そうそういないだろう。


「友達のおかげだよ。僕が悪いんじゃないんだって思えたから」

「うん。いい友達をもったわね。けど実際に行動に移したのは守自身よ。もっと自信を持ちなさい」

「ん。ありがと」


 私がやるべきなのは、照れるのに構わず息子の強さと勇気をこれでもかと褒め称え、それからきちんと親としての役割を果たすこと。


「よし。じゃあ病院行くわよ」

「え? 病院やだなぁ……」

「何言ってんのよ。別に注射をするわけでもなし、せいぜいレントゲン撮って診てもらうくらいのことでしょ」

「そうかもしれないけど、なんか病院って行きたくないよね」

「ハイハイ。今なら受付時間内に滑り込めるから。ほら、行くわよ」


 まったく。

 そういうところはいつまでも子どもだ。

 思わず笑いが浮かぶけれど、きっとこんな風に呆れて笑うのなんて、もうあと少しのことなのだろうと思った。

 子どもなんて、あっという間に成長してしまうのだから。

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