便利な便利な調理器具
蟹場たらば
1 便利な包丁
いい加減、自炊するか。スーパーの弁当を食べながら、俺はそう思い立った。
以前にも――大学進学をきっかけにアパートで一人暮らしを始めた時にも、似たようなことは考えた。しかし、「大学生活に慣れたら」「バイトの内容を覚えたら」「夏休みになったら」……と、どんどん先延ばしにした結果、結局ほとんどキッチンに立たないまま卒業を迎えることになってしまったのだ。
ただ、中小企業とはいえ就職したことに変わりはないと、この春から親からの仕送りがなくなった。加えて、原油高やら何やらの影響で、このところずっと物価の上昇が続いている。そのせいで、月々の食費もバカにならなくなっていた。それで節約のために、今度こそ本当に自炊をしようと決心したのである。
けれど、これまではカット済みの食材を買ったり、キッチンバサミを使ったりしてきたせいで、俺の部屋には包丁がなかった。いや、前に使ったような記憶はあるから、なくしてしまったのかもしれない。
どうにか安く買い直せないかと、スマホのフリマアプリで検索をかけてみる。すると、一覧の中に気になる商品が見つかった。
『便利な包丁』
写真を見るかぎり普通の包丁のようだが、一体何がどう便利なんだろうか。切れ味がいいのか。それとも食材が刃につきにくいのか。詳しいことを知りたくなって、個別のページを開いてみる。
『切るのが楽になる便利な包丁です』
説明欄にはその一言しか書かれていなかった。
他の出品者たちは、材質や刃渡り、メーカー、使用回数など、さまざまなことを書いている。買ってほしいなら、普通はそうやってアピールするだろう。どうも怪しい気配がする。
しかし、それでも価格の安さは魅力的だった。他が安くても1000円はする中、ワンコインで買える値段だったのである。「節約のために自炊をするんだから、調理器具に金をかけたら本末転倒だ」と、俺は『便利な包丁』とやらの購入を決めた。
後日、約束通り出品者から包丁が届いた。俺は早速、夕食に野菜炒めを作ることにする。
やはり切れ味がいいという意味だったのだろうか。生のニンジンにも、すんなりと刃が通った。これなら料理に不慣れな俺でも、すぐに半月切りにできるだろう。
だが、思わぬ形で作業は遅れることになった。スマホに上司からの電話が掛かってきたのだ。包丁を置き、手を洗うと、俺はリビングへと急ぐ。
「ミスをやらかしてるから今すぐ会社に戻れ」……などと怒鳴られる展開も想像したが、そんなことはまったくなかった。今日の業務について、ちょっとした確認を受けただけだった。
安心したような拍子抜けしたような気持ちで、スマホをテーブルに置く。続きをやろうと、リビングからキッチンへ戻る。
その時、俺は強い違和感を覚えた。
切りかけだったはずのニンジンが、すべて半月切りになっていたのだ。
俺の記憶違いということはないだろう。「電話がもう少し遅かったら、キリがよかったのに」と思ったのをはっきりと覚えている。間違いなく、まだ作業の途中だったのだ。
『切るのが楽になる便利な包丁です』
出品者が書いた説明文がふと脳裏をよぎる。
まさか『便利な包丁』というのは、そういう意味だったんだろうか。
そのことに気づいた瞬間にも、俺は冷蔵庫を開けていた。中から豚肉を取り出すと、まな板の上に並べ、さらにそばに包丁を置いてみる。
俺の推測が正しければ、これで包丁がひとりでに動いて、勝手に豚肉を切ってくれるはずである。
しかし、どれだけ待っても、包丁が動き出すことはなかった。
それでも、やはり自分の記憶違いだとは思えない。条件を変えて、実験を続けることにする。
『便利な包丁』は、俺がリビングにいる時は切って、キッチンにいる時は切らなかった。もしかしたら、人の目がある状況では動かないのかもしれない。そこで俺は、豚肉をまな板の上に置いたまま、しばらくリビングで過ごしてみることにした。
けれど、キッチンに戻ってきた時、包丁は元の位置からまったく動いていなかった。
『便利な包丁』は、食材がニンジンの時は切って、豚肉の時は切らなかった。もしかしたら、食材の種類によって切れるかどうかが決まっているのかもしれない。そこで俺は、冷蔵庫に入っていたものを、手当たり次第まな板の上に並べてみた。
けれど、一度は切ったニンジンでさえ、包丁は切ることはなかった。
『便利な包丁』は――
そう
『便利な包丁』は、俺が途中まで切ったニンジンは切って、手つかずの豚肉は切らなかった。もしかしたら、どんな風に切ったらいいのか、最初に見本を見せてやらないといけないのかもしれない。
半月切りにしたニンジンを、俺はさらに半分に切ってイチョウ切りにする。それをひとかけらだけやったあと、包丁から手を離す。
あたかも透明人間か幽霊がそこにいるかのようだった。
包丁はひとりでに宙に浮いたかと思うと、さっき俺がやったのと同じように、他のニンジンを半分にし始めたのだ。
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