第60話 リハビリと胸の谷間

 3日が経過した。


 天気は快晴。

 風もなく、穏やかな日。


 今日もヴァイスは、ナタリアが経営する洋服店の裏庭でトレーニングを続けている。


 「おや、何だい?そのゆっくりとした動きは。まるで踊りみたいね」

 「あっ、ナタリアさん。これは太極拳みたいなものです」


 裏口から出てきたナタリアに話しかけられても、彼は大振りな西洋剣を右手だけで握り水平に保ち。

 前に突き出した鞘を持つ左手をゆっくりと、大きな孤を描くようにして動かしかしている。


 同時に後ろに引いた右足に少しずつ力を込めて行き、これまたゆっくりとした動作で剣を水平に維持したまま突き出してく。


 「太極拳?」

 「はい。え~っと、遠く離れた国の武術みたいなものです」


 会話をしているが、彼の視線は仮想の敵の上から動いていない。


 転生者であるヴァイス自身も太極拳をした事はない。

 ただ、試行錯誤をした上で辿り着いたのが、このの~~~んびりとした、剣の型をなぞるトレーニングなのである。


 突き出し終えた剣を、焦ること無く、始めはゆっくりと引き戻し、徐々に速度を上げて元の位置へと戻していく。

 ただし戻し終えた時に腕が衝撃で震えないように、ゆっくりと滑らかに減速しなければならない。


 傍目には簡単に見えるかもしれないが、これを休みなく3時間続けるのは至難の技であった。


 「ふ~~ん。そんなことよりも、干し葡萄入のクッキーを焼いたみたわよ」


 一方、魔法を使えるものの、冒険者ではないナタリアにとって。

 淀みのない剣筋や、徹底的に無駄が排除された足運びなどは関心の外である。


 しかし寒空の下だというのにシャツを脱ぎ。

 薄っすらと汗ばんだよく鍛えられた筋肉は、まさに関心の的である。


 冒険者嫌いのナタリアが彼に引かれ始めたのは。

 着替えを持たない彼のために洋服を作ってあげようと採寸した時であった。


 あのバキッと割れた腹筋に指が触れただけで、身体の芯が火照ってしまい。

 つい魔が差して魔法で眠らせてしまったのだ。


 それに今では、あの見た目よりも硬い大胸筋と上腕二頭筋にギュッと抱きしめられると。

 たったそれだけで、フライパンの上に落としたバターのように身も心もとろけてしまう事を知っている。


 「お、いいですね。なんか、居候いそうろうの分際ですいません……」


 そして会話をしている間も、じれったい程の時間を掛け。

 ヴァイスがバスタード・ソードにしては長い刀身を、左手に持っている鞘へと音もたてずに収めていく。


 なお、このトレーニングには呼吸も重要で、出来る限りゆっくりと、細く長く息を吐き出し。

 動作に区切りがついた所で吸い込み始めるのだが。

 意外と動作中に会話をしても問題がないらしいと、たった今判明した。


 どうやら、まだまだ不明な点や改良点があるようである。


 この3日間で分かった事。


 まず体に力が入らなくなる原因は、急激な動作にあると判明した。

 車で言うところの急アクセル、急ブレーキがそれにあたり。

 急な方向転換などをしても、腕や足を操る糸が切れてしまう。


 だから新幹線のように、走り出しはゆっくりと、それでいて着実に滑らかにスピードを上げていけば、かなり早く走る事も出来る。

 ただし止まる時も同じように、ゆっくりと減速しなければならないので、どうしても動作時間が長くなってしまう。


 あと同じ原理で、ゆっくりと剣を握りしめれば、怪我をする前と同じ握力で剣を握ることも出来た。

 だから今は、ドワーフ用の重いバスタード・ソードを、片手で扱う事だって出来る。


 かなりの進歩と言えよう。


 ただし、そのような説明を洋服屋の店主にしても分からないので。

 ヴァイスは頭の中で考えを整理しながら、ナタリアが差し出してくれたタオルで顔と上半身の汗を拭っている。


 「あれ?そう言えば、クラリッサは今日もギルドですか?」

 「お昼を食べてから見かけないから、そうじゃないかしら。ん?ということは、今は二人っきりって事よね?」


 明るい声を出し、ナタリアが嬉しそうに腕を絡めて来る。

 しかも今日はお店の定休日である。


 「いや……、流石にそれは……」

 「おやおや~、お姉さんはまだ何も言ってないけど~~?」


 あの高級ポーションをヴァイスに飲ませてからというもの、恋人であるサーラは一度も姿は見せていない。

 だからか、年上の女性であるナタリアの行動が、日に日に大胆になっていた。


 「あまり、からかわないでくださいよ……」

 「なら、そのイケナイ目は何処を見ているのかな~?」


 顔を赤くした彼が、まだ思うように動けないことをいいことに。

 ナタリアが柔らかな身体を、しっかりと密着させていた。


 しかも、今日の彼女は胸が大きく開いたドレスを着ていて。

 これ見よがしに、大きな胸を彼の腕に押し付ける事で、乳房を押し潰して谷間を強調していた。


 男である以上、ヴァイスも嫌いではない。

 しかし彼の思いは、何処に居るのかも分からない聖女、ただ一人に向けられている……はずであった。

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