日は沈み月が昇る

春夏秋冬

第0話

――日は沈んでも生きている

月が陽の恩恵を持って生きているのだから――




「貴方は何をしているの?」

 ボクは戸惑っていた。彼女から先にその事を言われるとは思ってもみなかったことだからだ。ボクは木偶のように立ち尽くしていた。この普通には起こりえない現実に不意をつかれた。まさか。そんな事をボクは思う。

 目の前に、柵から身を乗り出し、今にも飛び降りそうな少女がいた。人の形を模しただけの作り物のような存在が、この世の終わりかのように思える真っ赤に燃える落日を背にして、そこで立ち尽くしていた。そして、ボクを冷酷なほどに見つめていた。

 ここは最近ボクが見つけたお気に入りの場所。郊外のハイキング向けの山にある展望台。ここはボクが住む橋里町きょうりちょうが一望できるいい場所だ。夕方のこの展望台には人の姿がない。

 ボクは一人になれる場所を欲していた。だからここはうってつけの場所で、ボクはここが好きだった。

 なぜなら。ここはボクの心を唯一落ち着かせられる場所だから。

 だが、今日は珍しく先客がいた。それが彼女だった。彼女はボクと同じで、帰宅途中にここへ立ち寄ったのだろう。彼女はボクの通う中学校の制服を着ていた。彼女はボクと同い年のように見えた。でも、雰囲気は大人のようだった。彼女の達観したその佇まいからは、並々ならぬものが感じ取れた。ボクは彼女がただの中学生には見えなかった。

 それぐらい、彼女は美しかった。そう。たとえるなら薔薇のようだった。あの血のように紅く咲く妖美な花のように魅力的だった。しかし。薔薇には棘がある。人々をその美しさでかどわかし傷つける。彼女の美しさにはそんな危険がはらんでいるような気がした。

 ボクは彼女の不思議にただただ魅せられている。妖艶な彼女に目を、心を、奪われてしまっていた。予想の遙か外にあった衝動がボクを襲う。それは電流のように一瞬にしてボクの全身を駆け巡る。ボクはそれに焼かれた死に人のように硬直していた。

「何も答えないのね。どうやら、私にとっても、貴方にとっても、互いが互いに邪魔をしているようね。私は去るわ」

 彼女は淡々に言った。感情は一切ない。言葉は素人が台本を読むかのように、その一つ一つに力がこもっていなかった。なんというか生きてはいなかった。

 彼女には死がまとわりついているような気がする。雰囲気。表情。言葉。彼女の全てに死が蔓延していた。だけど、彼女は話している。つまり生きている。

 なぜボクは彼女にこれほどまでの死を感じているのに、彼女は生きているのだろうか。

 ボクは彼女には死がないからだ、と決めつける。ボクが彼女に感じた死は、ただ彼女の周りにあるだけで、きっと身体の奥底にまで死が染み付いていないのだ。つまり、表面上だけの死。それだけでは、彼女を死なすまでには至らないということなのか。

 いや……? そもそもボクの言う死とはなんだ? 今使っているこの死という定義は何なんだ? 何かがしっくりとこない。

 彼女は柵を跨いで、ボクと同じ世界に降りたつ。ボクは彼女を近くに感じた。彼女は何事もなかったかのように歩き、ボクの横を通り過ぎようとした。ボクは彼女の動向を見守る。

「キミは……なにを……?」

 ボクはようやくここで言葉を出せた。強張っていた喉がようやくゆるんだようだ。

「自殺よ」

 彼女は平然と言ってのけた。あまりにも自然にいうものだから、ボクはその言葉に納得してしまいそうになった。

 弱い風が吹き、彼女の直毛の長い髪の毛が踊った。髪で隠されていた彼女の肌白い首筋が露出した。彼女は遊ぶ長毛をなだめるように抑える。ボクはわずかにのぞかせたその細い首筋に見惚れてしまう。だが、気に入らないものがそこにあった。その綺麗な首筋には似つかわしくない痕が首にしるされていたのだ。ボクは眉を潜める。

「そ、その首筋に……刻まれている一線って……アレなの?」ボクはしどろもどろに彼女に尋ねた。

「……」彼女はボクが指摘したその個所を指先でなぞる。そして「そうよ」と顔色を変えることを一切せずに静かに答えた。隠すつもりはないようだ。

「今日こそ、死のうと思っていたのだけど、貴方が来てしまったから、やめたわ。驚かせたわね。ごめんなさい」それから彼女はため息を一つ漏らし、背景である飴色の空を虚空でも見つめるかのような目で眺めた。そして、「あの陽は止まったままで、未だ沈まないのね」と、ぼそりと呟く。

 ボクは彼女の言いたいことが、まったく分からなかった。彼女は止めていた足を動かし始める。

 彼女が怪訝そうにボクを見つめて「何?」

「あっ……」

 どうやらボクは、無意識のうちに、立ち去ろうとする彼女の腕を掴んでいたようだ。ようやくボクは自分の行いに気がついたのだ。

 ボクは謝り、すぐに手を離す。そうしたあと、自分の行為を恥じた。自分でもなぜこのような事をしてしまったのか理解できなかった。

「キミは何者なんだい?」

「私の名前は、神谷かみや弥月やづき

 ボクの瞳孔が開いていく。

「これで、わかるでしょう? 分かったのなら、関わらないでね。どうなっても知らないわよ」

 彼女は眉を下げ、目を落とし、冷めた表情で言った。

 彼女は踵を返し歩きだす。ボクは彼女の正体に衝撃を受けていた。混乱した頭を落ち着かせるのに時間と労力が必要となった。だから、また呼び止めることができなかった。

 ボクは失望した。彼女の正体を知ったボクは果てしない消失を経験した。だけど、不思議と心地が良くて、不快な感じがしなかった。ボクの心はまるでつきものが落ちたかのような穏やかさだった。

 そう。彼女の事を考えると、胸の鼓動が早くなり、胸が熱くなる。ボクは初めて体感する感情に感動をおぼえた。ボクの頭から彼女が離れなかった。もう一度会いたい。そう強く思った。

 ボクがこの感情を体感するのは初めてだった。

 ボクはしばらくの間その場にたたずんでいた。時間がいくら経ったか忘れてしまった。ボクは静かに、彼女が見つめていた夕陽を眺めた。陽はゆっくりと落ち始めた。

 これが、ボクと神谷弥月との出会いだった。ここからボクたちの止まった時は進み始めたのだ。それはボクだけが知っている。

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