合わせ鏡より来たる

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合わせ鏡より来たる

 学校の昼休みのベルが鳴り、クラスメイトがいっせいに食事と移動を始めた。

 廊下を行く生徒の数がいつもより多いのは、天気が良くて暖かいからだろう。

 女子達が弁当箱を手に、窓から日の射している廊下へ飛び出していく。教室に残っていた男子達も、席を立って仲間と食堂へ向かい始めた。

 そんな中、サンドイッチを口にしながら文庫本を読む少年がいた。

 心が遊離する感じがした。

 髪が美しい。

 サラサラとした細い髪は風の囁きを聞くことなく、空を旅するように流れた。

 整いすぎた顔には冷淡な印象があり、その眼差しは遠くを見つめるのではなく、まるで自分の中に閉じこもっているような寂しさを感じさせた。

 彼の外見は美しかった。

 それは、女性的な美しさではなく、男性的な美であった。

 だが、彼を見た人はみな女性と間違えるだろう。それほどまでに、彼は中性的で、見る人を魅了した。

 名前を御堂みどうれいと言った。

 麗は一人、文庫本を読みふける。

 周囲の喧騒がどこか遠い出来事のように感じ、彼はただ自分の内側にある世界の中に埋没していた。

 そんな彼に話しかける生徒がいた。

「御堂君」

 麗はクラスメイトから名前を呼ばれてようやく、自分が呼ばれていることを知った。顔を上げ、視線を巡らせる。

 少年の名前は藤堂とうどうとおるという。

 透は明るく元気な快活な男子だ。

 人当たりの良い笑みは、見る人を楽しい気分にさせる。

 いつも笑顔を浮かべているので、人懐っこい印象を周囲に与えた。

「何だい藤堂君」

 麗が言い返すと、透は手にしていたフードパックに入ったサンドイッチを差し出す。

 照焼チキンと卵、レタスのサンドイッチだ。

 コンビニで見られるような既成品ではないが、手作りでありながらもキレイな作りは商品であることを示していた。

 事実、パックに貼られたシールには《サンドリシャス》という店名とロゴが描かれていた。

 透は笑顔のまま言った。

「御堂君って、昼はいつも食べてないだろ。だから、あげる」

 麗は首を横に振って見せる。

「……別に空腹じゃないから。それは君が食べるといい」

 しかし、透は納得しなかった。

 笑いながら拒否する。

「そう言わないで。僕の家は《サンドデリシャス》ってサンドイッチ屋をしているんだけど、新作を作ったから味見をして欲しいんだ」

 麗が教室を見渡すと、あちこちで弁当とは別にサンドイッチを試食する生徒たちの姿が見えた。

 特に女子の間では好評のようで、笑顔と感想を交えながら会話に花が咲いている。

「この新作は、僕のアイデアが入っているんだ。忌憚きたんのない意見が聞きたいから、ぜひ食べて欲しいな」

 透の笑顔には一切の裏がなく、純粋に自分の味を楽しみにして欲しそうだった。彼は、更に以前から思っていたことを口にする。

「それに御堂君は、いつも昼を食べていないだろ。僕は、昼はちゃんと食べた方が良いと思うよ」

 透は、麗にサンドイッチを押し付ける。

「……オレが昼を食べないのは、あまり空腹を感じないからだ」

 そう主張しながらサンドイッチを押し返そうとするが、透は受け取ろうとしなかった。

 それどころか、麗の手を取り、サンドイッチを持たせる。

「昼を食べないとエネルギー不足を引き起すんだ。次の授業は体育だよね。運動するんだから、少しは食べたほうがいいって」

 そこまで言われては仕方ないので、麗はサンドイッチの封を開けた。

 中から照焼チキンと卵の甘い匂いが立ち上る。見た目が美味しそうとは思ったが、匂いだけでも食欲をそそられた。

 麗はサンドイッチを手にすると、一口かじった。

 ゆっくりと咀嚼をする。

 レタスのシャキシャキした歯ざわりが心地よい。甘辛いチキンの味と、それに馴染んだマヨネーズとマスタードの風味が、食欲を刺激した。

 複数の味わいが口一杯に広がれば、口の中が幸福に包まれた。

 麗はサンドイッチを飲み込むと、味を確かめるように言った。

「おいしいな」

 麗の反応に、透はニッコリと笑った。


 ◆


 翌日の朝。

 麗は、通学中に《サンドリシャス》に立ち寄った。

 外観は明るいミントグリーンと白のペイントで塗られた店舗件住宅といった出で立ちだ。店の前には黒板が置かれ、チョークで今日のおすすめとサンドイッチの種類が書かれている。

 麗が立ち寄ろうとしている間にも、何人もの生徒や社会人が出入りしていた。彼はガラス張りのドアを潜り、店舗の中に入った。

 明るい店内には、パン屋によくあるような焼きたてのパンの香りが充満している。その香りを嗅ぐだけで空腹を感じた。

 店内に入ると、カウンターにエプロンと三角巾をした透の姿が映る。

 透は、麗の姿に気づくと笑みを浮かべた。

「御堂君」

 その声に、会計をしていた透の母が反応した。

 そして、すぐにカウンターから出てくる。

 透の母親は、おっとりとした雰囲気の女性だった。

 全体的に仕草が緩慢で、どこか小動物を思わせるような可愛らしさがある。

「こんにちは、透がお世話になってるそうね」

 その言葉に、麗は首を横に振った。

 彼のほうが世話になっているので、こちらが挨拶をしなければならないほどだった。

「藤堂君からサンドイッチをご馳走になりました。ありがとうございます」

 麗が頭を下げると、透の母親はニコニコと笑みを浮かべて頷く。

「いいのよ。子供なんだから、しっかり食べないとね」

 という言葉が続くような軽い口調だった。

 だが、麗はそれ以上に言葉を重ねることはしなかった。彼はもともと饒舌じょうぜつではないため、会話を続けることができないのだ。

 麗はサンドイッチを手にすると購入し、《サンドリシャス》を後にした。

 昼食を食べない麗だったが、やはり一度おいしいものを食べれば、それを欲してしまう。

 家庭のような温かさのサンドイッチ。

 その味をまた味わいたかったのだ。

 毎日購入することはなかったが、週に1、2回ほどの頻度で、サンドイッチを昼食として購入していた。

 そんなある日、店が閉まっていることに気づいた。

「休業日?」

 麗は首をかしげた。

 学校にて透に会うと、店が閉まっていることを訊いた。

 透は、肩を落としており、いつもの明るさはない。

「実は、食中毒があったんだ……」

 透が悲しそうに答えると、3日前のことを口にした。

 《サンドリシャス》のサンドイッチを口にした客が押し寄せると、食べたせいで発熱したと苦情をつけたらしい。

「3日前って。オレも食べているぞ」

 麗の言葉に透は反応する。

「そうだ。僕も毎日、母さんの作るサンドイッチを食べているけど、そんな症状は出ていない。保健所にも調べてもらったけど、原因となる菌は検出されなかった」

「なら、それは食中毒じゃない」

 麗は透に安心して欲しくて言ったが、透は頭を抱えて、つらそうに語った。

「そうだよ。けど奴らは、家のサンドイッチが原因だと言って治療費と慰謝料をよこせって怒鳴り始めたんだ」

 その言葉に麗は目を細める。

 奴らは透の母が作るサンドイッチが原因と主張をしていたらしいが、透の母によれば、そいつらが店に来たのを見たこともないと言っていた。

 派手な服を着て、金髪にした若い男達は、間違いなくこの店で買って食べた物だと言い張った。

 透の母は困惑するしかなかった。

 真偽を確かめる為にレシートや診断書の提示を求めたが、男達は怒鳴り散らしたあげく店のサンドイッチを床に叩きつけて踏みにじった。

 そして、こうののしったのだ。

 こんなクソ不味いものを食べさせておいて、金まで払えっていうのか。ふざけるなよと。

 透は、母の泣き崩れている姿に例えようもない無力感を感じていた。

 店の営業を始めると、男達が店外でたむろし、客が入って来れないように営業妨害を始めた。

 警察に通報しパトカーが駆け付けると、男達は一斉に逃げ出すが、居なくなると同様の行為を繰り返す。

「その事は相談したのか?」

 麗は訊く。

「伝えたさ。でも、警察はパトロールを強化するとしか言ってくれない」

 透は、やりきれない思いが表情に現れていた。彼は頭を抱えて想いをつづった。

「みんなに、おいしいサンドイッチを食べて喜んでもらいたいだけなのに、どうしてこんな目に遭うんだ……」

 透の訴えは悲しみに満ちていた。

 麗は、透の言葉に胸を打たれた。

 自分が満たされるだけならよかったのだが、彼は他者の喜ぶ姿が見たいと願っている。それは美しく気高い精神だ。

 自分の利益のために行動するのなら理解できるが、誰かの幸せを願うというのは素晴らしいことだと感じたのだ。

 そして、麗は《サンドリシャス》のサンドイッチの味に愛情が含まれているのを感じていた。

 この味を守る為には、透とその家族を守らなければならないと思った。

 麗の表情には決意のようなものが見て取れた。


 ◆


 授業の間にある休憩時間。

 そんな短い合間に、人通りの少ない渡り廊下でスマホを触っている少女がいた。

 日差しが強くなった気がする。

 そう感じてしまうものが、少女にはあった。

 見ているだけで明るく元気な気分になるような気がするのは、少女の持つ豪快な情緒からであった。

 ポニーテールの髪をオレンジのリボンで結い、頬にかかる左の後れ毛を長めに、右の後れ毛を少し短めにすることで、アンバランスに見せる髪型をしている。

 健康的な肌の色をした腕や脚は細く引き締まり、スレンダーでありながらメリハリがあった。身長は高くはないが、スタイルの良いモデル体型の少女だ。

 名前を葛原くずはら加代かよと言った。

 彼女はスマホをチェックすると、フフと笑みを浮かべる。

 そこには友人から送られてきたメッセージが表示されていた。

 内容は放課後に新しいアイスクリームショップに行こうという誘いのメッセージだ。その文面を読むだけで期待感が高まるのは、それが加代にとって好きなことだからだ。

 しかも、場所が繁華街なため女学生には人気のスポットであり、最近できた店で美味しいと評判なのだ。そこに友人の美月と一緒に行くことを考えると、表情が自然と明るくなるのを感じた。

 しかし、そんな幸せ気分もすぐに陰りが訪れる。

 そこに御堂麗の姿が映し出されたからだ。

「加代。調べを聞かせて欲しい」

 麗が求めると、加代は楽しい気分が途端に冷めていくのを感じた。それは麗のせいではない。自分が調べた情報によるものだ。

「《サンドリシャス》に脅しをかけている連中は、最近イキってきた不良連中よ。リーダーの名前は大畑正人。障害と暴行で少年院を出所するものの、更生施設から抜け出てきたクズよ」

 加代は冷たく吐き捨て、続ける。

「最近の悪さは飲食店への恐喝ね。食中毒になったから慰謝料を寄越せと言っているわ。ざっと調べただけでも10件はあるわね。応じなければ経営者の子供をいじめたり、女の子の服を破って恥をかかせて親に脅しをかけているわ。それが原因で、閉店に追い込まれたお店も……」

 加代の言葉に麗は眉を寄せた。

「クズが」

 嫌悪感を露にする。

 御堂麗は正義感が強い少年だ。犯罪行為が行われていることに怒り、憤りを感じていた。

「大畑の詳細や、仲間の顔写真は後でメールするわ」

 麗は頷き、それから声を低くして加代に尋ねた。

「構わない。それで、どこに居る?」

 麗の表情を見ると、加代はスマホを操作して地図を見せた。

「ゲームセンターGランド」

 麗の表情は氷のように冷たいものとなり、その目には鋭い光が宿る。

「麗。手伝おうか?」

 加代は静かな声で呼びかける。

「いや。オレ一人で充分だ」

 麗は、その言葉を拒絶する。

 その答えに加代は、ため息を漏らす。

 麗の本気になった冷酷さを知っている。

 人の生き死にを何とも思わないどころか、命を奪うことにためらいもないことを知っているのだ。

 それは日常生活の中で表に出ることはないが、ふとしたきっかけで分かることがある。

 その引き金となる言葉を麗は言ったのだ。

《オレ一人で充分だ》

 と。

 去っていく麗の後ろ姿に呟く。

「お達者で」

 その呟きは、クズ共への未来を示していた。


 ◆


 麗は加代から渡された情報をもとに、ゲームセンターGランドに向かった。

 Gランドとは大型商業施設の一角に出来たゲームセンターであり、VRなどの人気アーケードゲームが充実している施設だ。

 Gランドに集まる若者達は不良やチンピラがたむろする場所として有名だ。その中には大畑正人もたむろしている。

 ゲームをすることだけでなく、リアルマネーによる賭け事や、女漁りに来た者などが主な客層だ。

 麗は学生服のまま、レーシングゲームに興じていた。

 彼は幾度もゲームオーバーになるが、席を立つこと無く何度もコインを投入してのコンティニュープレイは周囲の注目を引くことになる。

 見るからに未成年の麗がゲームをしている姿は、不良達の心をくすぐるものがあった。

 大畑正人達が、麗に目を付けるのは自然な成り行きだった。

 正人は2人の仲間を連れ、麗の隣の筐体を囲むように立つと脅すように声を掛けてきた。

「景気がいいな。俺に寄越せよ」

 正人を含めた仲間は、目つきの悪いだけでなく人相も悪い。

 ケンカによって前歯が欠けており、耳や鼻にはピアスをしている者が多い。着崩した服は袖をまくり上げていた。その腕に入れ墨があり、明らかに堅気には見えない連中だ。

「何でオレが、貧乏人に恵んでやらなきゃならねえんだ」

 麗は冷たく言い放ち笑う。

「何だと……」

 正人の言葉に、仲間達は美少年の顔がピカソの絵になるのを想像して笑う。正人の凶暴性は相手が弱ければ弱いほど、いたぶろうとする。

 ケンカが弱いと思った者には、自分の強さを見せつけることで恐れを抱かせる。そういう暴力の演出が好きだった。

 そんな彼らの期待を麗は裏切ったのだ。

 麗は笑みを崩さなかった。むしろ楽しそうに唇を歪めて続ける。

「貧乏だから金が欲しいんだろ。這いつくばってオレに乞えよ。そうしたら恵んでやる」

 麗の挑発に正人は、仲間に指示をしてゲームセンターのトイレに麗を連れ出した。

 トイレで正人達に囲まれると、麗は洗面所前の壁に叩きつけられる。

「有り金だけで済ませてやろうと思ったのによ……。よっぽど死にたいらしいな」

 正人達は、麗を取り囲むように立つ。

 麗は動じることなく、学生服の内ポケットからはがきサイズのプラスチックプレートを取り出した。

 それは人の髪の毛よりも薄い超薄型ガラスを使った折り畳み式の鏡で、広げればA4サイズになる。麗は、それを開くと壁に押し当てて傷を付けないようにゆっくりと展開させた。

 洗面台にある鏡と向い合せになった手鏡は、合わせ鏡の原理で鏡の中で無限に広がりを見せる。

 そして、手鏡を覗き込むと麗は妖しい笑みを浮かべた。

「合わせ鏡って不思議だよな」

 麗の言葉に正人は顔をしかめた。

 何を言い出すのか理解できなかったのだ。

 その反応を他所に、麗の笑みは嗜虐的なものに変わる。

「鏡を2枚向き合わせると、そこには無限に続く不思議な世界が出現する。無限回廊に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。そこは、どこに繋がっているんだろうね」

 麗は淡々と言葉を紡いだ。

「は? 訳分かんねえこと言いやがって……」

正人は、麗が何を言っているのか理解できていなかった。そんな中、正人達3人は麗の持つ鏡の中で何かが動いているのを見た。

 鏡の奥から漆黒の影が、跳ねるようにして鏡を一枚一枚を乗り越える。正人は、背後にある洗面台の鏡を振り返るが、そこには漆黒の影はない。

「本来は13日の金曜日、真夜中の12時じゃないとできないが。そこはオレの魔力と儀式で実現したよ」

 麗は顔の前で右手を立て呪文を口にする。

「バズビ バザーブ ラック レク キャリオス……。暗きもの、闇の淵。鏡の中の迷宮に迷い込みし者よ、今こそ我が呼び声に応じ、この鏡越しに我に姿を見せん」

呪文の響きが終わる頃には、トイレの照明がロウソクの様に、少しずつ明滅し始める。

 漆黒の闇から湧き上がるような邪悪な気配が、合わせ鏡の奥から臭うように漂ってきた。

 その気配は不気味な静寂をもたらし、空気自体が凍りつくような感覚を男達に感じさせた。室内であるにも関わらず、極寒の地で窓を開け放ったように冷たい風が鏡の向こうから吹き抜け、部屋中に冷気を運んでくる。

 ぞくりと背筋が凍るような恐怖を、男達3人は感じた。

 何よりも異臭は、耐えがたいものがあった。

 トイレは狭い空間であり、異臭はすぐに充満する。

 血と糞便が混じり合ったような刺激臭であり、鏡の奥に広がる無限の世界から漂ってくるのだ。その臭いの濃度は鏡の中から近づいて来る存在の姿が、はっきり見えて来るとより強さを増した。

 人間ではない、獣の臭いが鼻をついたとき、鏡の奥に鋭い牙を持つ獣の姿と唸り声を、男達は、はっきりと見たのだ。


【合わせ鏡】

 2枚の鏡を、平行に向かい合わせに置いたもの。

 互いの鏡に互いが映した像が映り、あたかも無限に続くかのように見える。

 その不思議さから、様々な伝承や都市伝説がある。

・日付が変わる0時ごろに合わせ鏡をすると1分間だけ幽霊が出てくる。

・夜中の0時33分に鏡を4枚使って中の空間が15センチの正方形となるように配置し、真ん中にろうそくを灯す。夜中の1時になると口では言い表せないほどのとても恐ろしい光景を目の当たりにするとされ、あまりの恐ろしさに見た人は発狂して奇行に走ったり自殺を図ったりする。

・合わせ鏡を夜の2時頃にすると、自分の死に顔が見える。

 また夜中の2時に合わせ鏡をして立つと前方の鏡に未来の自分が、後ろに過去の自分が映るとされる。

・鏡を2つ向かい合わせに立て、蝋燭をつけて鏡の奥に見入る。そうすれば未来の夫の姿が映る。

・午前3時33分に合わせ鏡をすると自分の死に顔が見える。

・4枚の合わせ鏡をすると悪魔や死神が現れる。

・合わせ鏡で異世界に連れていかれる。

・過去や未来の世界に行く。

・13日の金曜日、真夜中の12時行うと悪魔が鏡を1つずつ乗り越えてこちらへ来る。悪魔が一方の鏡から向かいの鏡へ飛び込もうとする瞬間、聖書を閉じると悪魔の尻尾が聖書に挟まり、悪魔を捕まえることができる。

 捕まえた悪魔はその人に服従するため、思うがままに使役することができる。願いを叶えたり、誰かを呪ったりすることができる。

 合わせ鏡には、この様な話が様々にある。

 風水では、合わせ鏡は避けられる。

 古くから鏡自体が1枚でも気を反射する強い力を持っているとされているうえ、合わせ鏡は風景を繰り返し反射させ性質に関係なく映し出すために気の乱れを生じさせ悪影響を及ぼすとされている。 

 それは人間関係にも同様の反射が起こり、摩擦やトラブルが生じるとされる。


 麗の持つ鏡から悪魔の腕が突き出す。

 その肌からは瘴気が煙のように昇る。

 筋肉が不気味に盛り上がる腕の先には、爪は尖りすぎていて凶器といってもよいほど鋭く見えた。指は、それぞれが独立した生物であるかのように蠢き、獲物を求めて荒れ狂っている。

 細い蜥蜴に似た顔が突き出した。

 大きく裂けた口に並ぶ牙は人間の肉など容易に食いちぎってしまうだろう。鋭利な爪を備えた手は鏡の縁を掴み、ぬるりと鏡の中から姿を現した。

 毛が1本もない頭には灰色の尖った角が覆う。 目は深い真紅の光を湛え、冷たい輝きを放つ。まるで魂を喰らいそうな存在感を持っている。

 その上半身は筋骨隆々の犬とも猿とも見えた。

 悪魔の姿は、まるで地獄の怨念が具現化したかのようだ。

 吠える。

 腐臭を思わせる獣の臭いが充満する。

 その叫びは雷鳴の如く轟き、津波の如く押し寄せる。

 地獄の底から出したような咆哮が響き渡ったとき、大畑正人達の脳ミソには一気に恐怖が流れ込んだ。理性で対応するより早く本能のみで反応するしかないのだ。

 麗はサディスティックな笑みを浮かべると告げた。

「お前らは藤堂のお母さんが作った、サンドイッチを踏みつけてクソと言ったそうだな。オレからすれば、お前らの存在こそがクソだ」

 麗の言葉とともに、その瞬間に悪魔は麗の鏡から飛び出し、正人たちを鉤爪で捉えた。暴走した自動車に跳ねられてかのような衝撃が全身を襲う。

 鋭い痛みが全身を走り抜け、骨が砕かれる音が響いた。

 衝撃は骨折だけに収まらず、内臓までも潰し破裂させる程の破壊力があったのだ。正人を含めた3人は口から泡と血反吐を吐く。

 悪魔は、その腕と爪に正人達を引っ掛けたまま、トイレの鏡へと飛び込んだ。

 正人は顔を歪ませ、カツアゲとリンチを加えようとした麗に助けて欲しくて手を伸ばすが、天地がひっくり返っても彼がクズ共を助けることはなかった。

 そして、男達は悪魔によって鏡の中に引きずり込まれていた。

 麗は手にしていた鏡を折り畳むと、周囲にあった悪臭と気配は消え去っていた。

 同時に周囲が元に戻ったような気がした。

 だが、そこに居たハズの3人の不良の姿はなかった。

「狭い鏡の中で、食の大切さを思い知るんだな」

 麗は吐き捨てた。


 ◆


 清掃員はゲームセンターGランドのトイレに入った。

 不良の利用者が多いことから、その状況は最悪だ。

 トイレは異様な臭いに溢れ、汚れた床にはツバや痰が吐き捨てられている。

 定年退職をした身であるが、昨年までは会社で部長まで勤めた男だ。

 しかし、再就職を探していたものの清掃会社にしか就職できなかった。それだけ世の中の厳しさを思い知ったものだ。

「こんな所、そうじしても意味ねえだろ」

 清掃員は、洗面台にある鏡をガラスクリーナーを吹き付け、雑巾で磨き始めた。力を入れてこする。

「鏡をベタベタ触りやがって」

 文句を言いながらも、鏡の表面に出来た指紋をこすり落としていく。綺麗になった鏡を見た清掃員は満足するが、奇妙なことに気づいた。

 ガラスクリーナーを使って鏡を磨いたにも関わらず、鏡には指紋と手形が付いているのだ。

 清掃員は鏡を見る角度を変えながら目を凝らす。

「何だ、これは……」

 鏡には、無数の手形が付いていた。

 だが、それは鏡の表面ではなく、窓ガラスの様に向こう側から付けられてたもの。

 眼の前にあるのは鏡であるにも関わらず、まるで向こう側にいる人間が、助けを求めて鏡を触り叩いた痕のように感じられた。

 その事実に気づくと、清掃員は恐怖のあまり腰を抜かしていた。


 ◆


 サンドイッチサンドリシャスには、いつもの活気が戻っていた。

 店から出てくる人達が笑顔を花咲かせている。

 あの日以来、店は繁盛していた。

 今朝も開店と同時に多くの客が入っていたのだ。

 その様子を麗と加代が見ていた。

「良かったわね」

 加代が言うと、麗は頷く。

 2人とも嬉しそうな顔をしている。

 店主である藤堂の母と透が笑顔で働いてるのが見えたのだ。

 今までと変わりない笑顔だ。

 麗は安堵した表情を浮かべるが、加代の方は途端に不機嫌な顔になる。

「麗。昼食を取るようになったんですってね。だったら、たまには私と美月と一緒に食べなさいよ」

 加代の言葉に、麗は冷や汗が流れる。

 まるで手負いの獣に睨まれたような威圧感があった。見透かしてくるような視線から逃げることができない。

 麗は静かな読書が好きだ。

 だからかしましい場は、正直苦手だった。

 それでも友人や仲間達と食事をするのは楽しいと思っているので、嫌な訳ではないのだ。

 だが、一人で静かに食べる方が好きだというだけだ。

 そのことを察した加代は口にした。

「貸しがあるでしょ」

 麗は、その一言に絶望を感じた。

「……分かったよ」

 観念したように絞り出した麗の言葉に、加代は嬉しげに微笑んだ。踊るように先に歩く彼女の後ろを、麗は付いていくしかなかった。

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