歌舞伎町、廃ラブホテル

 ベッドの上に片膝を立て、足首まであるスカートのレースの裾を手繰る。キャンドルのはかない明かりが揺れる薄闇に、白い脚がぼんやりと浮かぶ。骨のかたちが浮き出た膝や、腿に残る幾つもの切り刻んだ痕も、無残に外気に晒される。

 傷痕は幾重にも重なり、酷い箇所では網目模様になっていた。比較的カンバスが空いている部分を見定め、モリヤは銀のナイフをすうっと走らせた。引かれた紅い線からたちまち血が滲む。

 不安な要素は山のようにあった。籍がまだあるのかも不明な大学の新年度がもう始まっている。未遠の成長が日ごとに早くなっていく。そしてあの男のことだ。月曜日の夜、モリヤはここで一夜を明かして、翌朝昼の光のなかで建物の様子をチェックした。開けられる部屋は全部開けて男の形跡を調べたが、結局あの晩男がどの部屋を使ったのかはわからずじまいだった。鍵も無事だった。あんな得体の知れない男にこの場所を教えてしまったのは途轍もない失敗だった、という激しい後悔を夜まで振り払えず、火曜日は睡眠薬を大量に飲んで無理矢理眠ってしまった。

 切った皮膚から流れる血を見ていると、そういうことごとを束の間忘れる。つくったばかりの傷に対して直角にナイフを使い、クロスを描いた。赤い液体は脚をつたって踝へと垂れ、床に滴り落ちて絨毯の染みを増やした。

 何故こんなことをするようになったのか、モリヤは自分でもわからない。中学生の頃、父に会いたくてこっそり通っていたD’ARCのライヴで、ファンの黒服たちと仲良くなった。年季が入ったバンドだけにファンの年齢層が高く、皆モリヤより十歳以上年上だった。十代の客などほとんどおらず、物珍しさも手伝って、モリヤは妹のように可愛がられた。その中に、いつも手首に包帯を巻いている人がいて、モリヤはその人を随分好きだったので、それが格好良く見えて真似をしたかった、とか、初めて手首にカッターナイフを当てた動機はその程度だと思う。

 ライヴハウスで会うたびその人はモリヤに良くしてくれたが、あるとき思い切って父のことを打ち明けたら、掌を返したように避けられるようになった。当時は何が起きたのか理解できなかったけれど、今ならわかる、ユヅルに憧れるあまり頭のネジがとんだ可哀想な子だと思われたのだ。死んでしまいたいほど恥ずかしい。

 そうしてD’ARCを聴かなくなって、自傷癖だけが残った。六、七年前、バツやヒアゼアやh.ナオトに身を固めてライヴ会場を意味もなくうろうろしていた時には、包帯を勲章か何かのように見せびらかしてさえいたものだが、ゴシック・ロリータファッションを好む人たち、とりわけ「ノスフェラン」のメンバーはリストカットの痕を罪人のスティグマを見るような目で見た。ロリータはともかく、ゴス・ファッションは、明るく健康な人間「ではない」というある種生きにくさの記号ではないか、体を切るほど切羽詰まっているからこそ社会的な服を着られないということがわからないのだろうか、とモリヤは思っているものの、出来たのは痕が目立つ手首はやめてレッグカットに移行するという遠慮だけだった。

 くだらない思考が脳内を占拠し始めたので、もう一箇所、大きく斜めに切った。痛みは感じない。面白いように血が出るのを見て、ああ、生きているんだなあと感心するだけだ。

「……吸血鬼を前にして、自ら……血を流すとは」

 ふいに暗闇に声が響いて、心臓が止まりそうになった。背の高い男の影が、揺れるキャンドルの向こうに浮かぶ。いつからそこにいたのだろうか、全く気配を感じなかった。部屋のドアには内側から錠を下ろしてある。音も立てずに侵入するのは人間には不可能だ。

「ディ……イ……」

「やけに、血のにおいがすると……ずっと、思っていた……」

 男はモリヤの脚の、三すじの赤い線を凝視していた。モリヤは自分のしている格好に思い至り、脚の付け根までたくしあげていたスカートを下ろして脚を覆い隠した。男はなおも、スカートの奥から流れ落ちる血に目を奪われている。血走った紅い瞳に、低い声に、いつもの余裕が感じられない。見れば、毒々しく赤い唇の端に、まだ生々しい血の痕がある。

「……本物の気違いだと思ってたけど、血を吸うのはやりすぎじゃない? 悪いけど、そこまでのごっこ遊びには付き合えない」

 つとめて平静に言おうとしたが、喉がカラカラに乾いていて声がうまく出せなかった。体の震えを、どうしても止めることができない。

「この世界で、生きていたくないと……いつも……思っていたのでは、ありませんか」

「そうだよ、あたしは生きていたくない。不死者になって永遠に死ねないなんて、冗談じゃない!」

 男が一歩近づいてきた。床についていた片足を引き上げ、モリヤはベッドの上で後退った。更に一歩、男が近づく。モリヤも後退ろうとして、背中がコンクリートの壁にぶつかった。

 男がベッドに膝をのせ、体重をかけた。ぎし、とスプリングが悲鳴をあげる。

「来るな! さわらないで!」

 咄嗟に、モリヤは首から提げていたペンダントを引きずりだし、男の眼前に突きつけた。ペンダントトップは大ぶりの十字架だ。男は一瞬怯んだような顔をしたが、次の瞬間モリヤの左手ごと十字架を掴んだ。

「こんな……オモチャを、私がおそれるとでも……?」

 モリヤは叫び声もあげられなかった。歯の根が合わず、がちがちと鳴った。男は紅い瞳を光らせてモリヤの目を覗き込み、憐れみと嘲りが入り混じった微笑を浮かべ、静かに言った。

「私は……生前、人間だった頃には……とても信仰に篤かった。そのぶん、十字架には、おそらく同族の他の者より、弱いです。私の主などは、十字架をそれほど怖れていませんでしたが、私は……怖ろしかった。……けれど、それは毎日、心からの祈りを捧げられた、真の信仰が籠もっている十字架の話だ……。そんな、カタチだけを真似た……オモチャなど」

 男はモリヤの左手を封じたまま、つま先に跪くように屈み込んで、足をつたう血に舌を這わせた。モリヤは何とか男から逃れようと、滅茶苦茶に体をよじり、腕を振り回した。はずみで、右手が男の頬に当たった。

「あ……あああああ!」

 男は絶叫し、よろめいた。血飛沫が飛んで、モリヤは危うく気を失いかけた。

「……銀か……その、ナイフ……」

 男の呻きを聞いて、モリヤは右手にナイフを握ったままでいたことを知覚した。傷つけられた頬を押さえる男の手が真っ赤に染まっている。肉をえぐったという感触が確かにあった。他人に血を流させたという事態に、モリヤは自分でも意外なくらい動転した。血は見慣れている筈で、同じ事を自分にするのは平気なのに、自分のしたことが怖ろしかった。

 男の姿がふ、と闇に紛れた。黒い霧があたりに立ち籠め、モリヤが我に返ったときには男はいなくなっていた。

 ナイフを離そうとしたが、握り締めた右手が硬く強張っていてなかなか手を開けなかった。一本一本、指を左手でこじ開けてようやくナイフは手から離れ、床に転がり落ちた。モリヤはそれを拾い上げて、つくづく眺めた。重さと柄の彫刻が気に入って愛用しているナイフだが、義父が東欧で手に入れたということしかわからない。みやげだと言ってポンとくれたので、由来を質しもしないで貰ったのだ。由緒のあるナイフだったのだろうか。

 銀のナイフを守り刀のように胸に抱いて、モリヤは太陽が昇るのを待った。

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