新宿通り、十三階

 彼は忍耐強かった。理性を手放して欲望に身を任せるよりは飢えと渇きに苛まれても自我を保っていたいと、耐えられる限界までは「狩り」はせずに済ませたいと、百年を経ても思っていた。こんな体になった以上、痩せ我慢などするだけ無駄だ、と彼のあるじ主はいつも彼に言い聞かせていたが、彼はどうしても主のようには割り切れなかった。長い年月のうちに彼は欲望をやり過ごす方法をおぼえ、同族の他の者に比べてずっと少ない回数の食事でもつようになった。味にもこだわらない。

 ただ、年に一回、聖ジョージの前夜だけは、然しもの彼も自分を抑えられない。凶暴なまでの飢餓が内側から彼を突き動かすのだ。この夜ばかりは、冷えて鮮度の落ちた糧ではしのげなかった。生きた獲物が必要だった。気が狂わんばかりの激しい渇きを抱えて、彼は教えられた場所にやってきた。

 十三階、と装飾文字で描かれた看板の下に、「クリムゾン・ヘヴン」と赤で大きく記されたフライヤーが貼られている。地下へ階段を下りていくと、分厚い防音扉の奥のフロアに、先日食卓を共にした少女たちと似たような、奇抜で派手な服装の客がひしめいていた。ここにいる人々の服装は不思議だな、と彼は思う。彼が人間として生きていた時代を想起させるデザインに、色々な国や物語のイメージがごてごてとアレンジされて、どの時代のどの国にも属さないファッションが出来上がっていた。様式があるようでなく、しかし全体としてはある方向性を示しているように見える。

 ステージでは、宇宙服を思わせる質感の、あちこちにチューブが飛び出た蛍光色の服に派手な緑色のウィッグをかぶったDJがプレイ中で、びっしりと付けまつ毛をつけたドラァグ・クイーン達が踊っていた。少女たちはショウを楽しんだり、飲み物を手に笑いあったりしている。ビスチェのストラップがくいこんだ肉づきのよい背中が目の前にあり、つやつやと血色よく火照った肌が彼の食欲を刺激した。

「……でも、それちょっとなりきりすぎて痛くない? 飲み物に何か入れて『血です』って。そこまでやられると引くよ」

「そうなんだけど、でもホントにいい顔なんだもん。あれだけルックスが良かったら、多少の言動は許せる」

「そんなにー?」

「そんなにだよ! そのへんの気持ち悪いブサイクが勘違いして、全身似合わないモワティエで固めたあげく『吸血鬼の貴族です』とか言ってるのとは違うんだから! ヴィジュアル系にもちょっといないような美形だよ」

「皇と付き合ってた女がよく言うよ……」

 聞きおぼえのある声に近づいてみると、このイベントに来るよう熱っぽく言っていた女がクルーカットの連れと話していた。ミシンと言ったか。

「……あ、ディイさん!」

 ミシンが彼に気付き、同時に連れも振り返って驚いたように彼を見た。彼は今夜、正装の夜会服にマントを纏っている。ベラ・ルゴシやクリストファー・リーが銀幕で演じた、ドラキュラ伯爵の衣装を意識した。マントはモワ・メーム・モワティエというフランス語の名前の店で手に入れた。裏地が深いブルーで、気に入っている。

「嬉しい、来てくださったんですね! しかも一段と素敵です」

 ミシンは胸が大きく開いたジャケットを着ていた。ボーンの入った下着でウエストを締め、バストを寄せているらしく、豊かな胸が目の遣り場に困るほど強調されている。足首まであるタイトスカートのスリットから、網タイツの太腿が覗いている。

「あなたに……またお会いしたかったので……、来てしまいました」

「ああ、そんなこと言われたら好きになっちゃう」

 ほろ酔いなのか、ミシンの目もとや首がうっすら朱い。彼は身をかがめ、朱く染まった耳朶に口をよせた。人目を憚らず、状況も顧みず今すぐここでやってしまいたいという衝動を何とか抑え、囁いた。

「……二人きりで……お話が、したい」

 ミシンが目を見開く。驚きと、期待とおそれが綯い交ぜになって瞳が潤んでいた。彼はその瞳を至近距離から覗き込んだ。操り人形のように首をこくり、と折って頷くと、ミシンは連れに「ちょっと」と断った。人のあいだを縫って、二人はフロアを抜け出した。

 化粧室の奥の個室に彼は引っ張り込まれた。化粧室の蛍光灯はフロアの照明より明るく、白々とした光に彼は一瞬目が眩んでマントで顔を覆った。ミシンがくすっと笑った。

「明るいのも嫌いなの?」

「目が、弱いもので……」

「色素が薄いのかな。色も白いし、だからこんなにカラーコンタクトが映えるのね。きれいな紅」

 ミシンは便器に腰掛けて彼を見上げ、紅い瞳を見つめた。彼はその視線を縛り付けるように見返した。目を逸らせないままミシンの頬が上気し、呼吸が浅く、早くなるのがわかる。暑い、と呟いて彼女はジャケットを脱いだ。インナーはほとんどランジェリーにしか見えない。

「……話って、なに?」

「いえ……あなたが、ヴァンパイアの花嫁になってもいい……と、以前仰っていたので……」

「覚えていて頂けて光栄ですわ」

 ミシンはちょっと拗ねたような表情になった。

「この間お会いしたときは、私ひとりではしゃいでしまって、片想いだわと思ってヘコんでたんです。しかもディイさんは、私よりモリヤさんに興味がおありみたいだったから」

「……モリヤ……」

「そう、あの人本もいっぱい読むし、頭がいいから、私モリヤさんと喋ってるとときどき自分が馬鹿みたいに思えて惨めになるの。実際、あの人は私を馬鹿にしてると思うし。……ね、どう思います、モリヤさんのこと?」

 女と女、人間と人間の関わり合いはいつの日も変わらないのだな、と彼は思ったが、その感慨に浸っている余裕は今はなかった。

「……私は、あなたの話がしたい。あなたこそ、どうなんです……お気持ちに、変わりは……ありませんか」

「え? え、ええ」

「あなたなら……私に血を、下さるかと……。キスを、していいですか」

 言いながら彼はミシンに覆い被さるようにして顔を近づけ、右手で彼女の頭を支え、左手で肩を抱いた。彼女の心臓が早鐘のように鳴っているのが伝わってきたが、それは恐怖ではなく悦びによるものだと彼にはわかっていた。

「……して、ください」

 ミシンがあえいだ。彼はミシンの首すじに唇をつけ、歯を立てた。が、力は入れず、軽く歯をあてるだけにとどめた。彼の唇が離れると、緊張で強張っていたミシンの体から力が抜けた。男は笑った。

「……本当に……血を吸う、とでも思いましたか……」

「……思ったわ。あなたなら」

 彼はミシンの左手をおしいただいて、手の甲に恭しくくちづけた。されるがままのミシンの指を口に含み、舌で擽ると彼女は吐息のような声を漏らした。爪を飾るネイルチップのせいで、やけに人工的な味がする。人差し指、中指、薬指と一本ずつ順に指をしゃぶられながら、彼女の声はだんだん甘く、熱をおびていった。

 奉仕サーヴィスはこのくらいでいいだろう。最後に小指を歯と歯の間から引き抜き、彼はミシンの手首を掴んで引き寄せた。彼に欲情する女はたいてい首すじにキスを欲しがるが、彼自身が最も好むのは頸動脈より手首の脈だった。

 待ち望んでいた瞬間がとうとう来た。鋭い牙が、静脈が青く浮く柔らかな皮膚を食い破り、温かい血が溢れて彼の喉に迸った。普段は、罪悪感と自己嫌悪が勝って味わえないこの快感、この感触こそが今夜渇望していたものだ。彼は夢中で貪った。女の甲高い悲鳴も気にならなかった。どのみち防音扉の向こう、遠い音楽に酔い痴れて踊る人々のところまでは、届くまい。

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