大久保、メンタルクリニック

 微睡みから覚め、モリヤは放り投げてあった携帯電話を手探りして時刻を確かめた。始発は動いている。怠い体を起こして立ち上がり、散乱しているナイフやペットボトルや燃え尽きたキャンドルがこびりついた絵皿をドクターズ・バッグに突っ込んで、部屋を出た。太腿が鈍く痛む。深く切りすぎたかも知れない。脚、とくに太腿の内側を切ることを覚えてから、傷が人目につく危険が限りなくゼロになったので、油断して大きく派手に切るようになってしまっている。

 非常用の外階段を下りて、ほとんど自動操縦の状態で新宿駅に向かった。都営十二号線の改札を抜けて地下深くのホームへ延々下るエスカレーターで、見知らぬ男を建物に入れたまま、エントランスを外から戸締まりしてきたことを思い出し、モリヤは天を仰いで舌打ちした。面倒なことになった、と思ったが、戻って男を叩き出す気力もない。エスカレーターの手すりにぐったりと凭れ、溜息を吐いた。

 今日は金曜日なので、病院に行かなければならない。そのことを考えただけで、モリヤのまわりだけ重力が倍加するような気がする。気が滅入る。

 医者にかかるように言ったのはまなみさんだ。自室で左の手首を切っているところを見られた。まなみさんはその場で泣き崩れてしまい、黎ちゃんそんなことしちゃ駄目よ、女の子が、お父さんとお母さんにもらったきれいな体を傷つけるようなことしちゃ駄目なのよ、ね、黎ちゃん、お医者さんにかかろう、と懇願するような口調で言った。十二、三歳しか齢が違わず、頼りなく可愛らしい義母を母として慕うことは難しかったが、モリヤは彼女を嫌いではなかったので、困らせ、悲しませることはしたくなかった。

 まなみさんがインターネットで調べてきた歌舞伎町のクリニックに、モリヤは言われるままに通った。ウェブサイトだけは立派なそのクリニックの診療は極めていい加減で、山のような薬を処方された。処方箋どおりに薬を服むとふらふらになり、ベッドから起き上がれなくなった。薬の服みすぎで半ば朦朧としながら手首を切り、血まみれになって倒れているところを今度は未遠に見つかってから、病院を変えさせられた。それが現在かかっている、一時間につき一万円以上とられるカウンセリングつきの心療内科だった。

 誰も起こさないようそっと家に入ったが、階段を上がると踊り場に未遠が待ち構えていた。パジャマ姿で、目を赤く腫らしている。

「おはよう。あたしはこれから眠るけど」

 疲れたように笑うモリヤの左腕を、未遠が無言で手にとった。青白い、かさかさの皮膚にうすく残った傷痕を、撫でて、それが古いことを確かめる。未遠は真剣な顔つきでモリヤの左腕を検分し終えると、右手もとった。モリヤは両腕を肩からぶらりと垂れ下がらせ、棒のように突っ立って、未遠に好きなようにさせていた。

「……大丈夫だよ。未遠」

 未遠の頭に手を載せて、そのまま抱いてやると、未遠は思いきりモリヤにしがみついた。おねえちゃん、と消え入りそうな声で言う。未遠の体は細く、薄い。ちょっと力をこめたらばらばらに壊れてしまいそうだ。

「相変わらず痩せてるね。いつまでもそのままでいてね」

「おねえちゃんが……黎が居てくれるなら」

「いるよ、あたしはどこにも行かないよ。行けないもの」

 モリヤは優しく未遠を離し、おやすみ、気をつけて学校へ行きな、と言ってやった。未遠は頷いて自室へ戻る。その背中を、モリヤは幾分和らいだ気持ちで見送った。そして自分も部屋に入り、スチール製の無機質なパイプベッドに倒れ込んだ。


 午後いちばんでクリニックに行くために三時間程しか眠ることが出来ず、目覚めたときには倦怠感が増していた。

 クリニックは大久保にある。クリーム色を基調に淡い色調で統一された、応接間を思わせる診察室には、さりげなく花が飾られた大きな南向きの窓から、日差しがたっぷり差し込む設計になっている。清潔で、ゆきとどいた部屋だった。精神に爆弾を抱えてやってくる患者を、脅えさせたり刺激したりしないための気くばりだとわかっているものの、これはこれでモリヤには居心地が悪かった。何しろ明るい部屋の中にあって、モリヤのブラウスとスカートだけが黒いのだ。

 予約の時間に十分ぐらいは遅れるのが常なのだが、この日は二十五分も遅刻した。準備を整えて待ち構えていたカウンセラーの榊と、モリヤはいつも以上に居たたまれない思いで向き合った。

「どうですか、調子は。昨日はよく眠れた?」

「別に、いつもどおりです」

 眠れないからハルシオンをもっと頂戴と言ったところで、榊は僕には権限ないからねえ、の一点張りで取りあってくれない。薬の処方に慎重なのは主治医も同じだ。

 落ち着いた物腰と柔らかい声の持ち主の榊は、赤のメタルフレームの眼鏡が似合うことも相まってクライアントには人気があるようだった。しかし、初対面のときモリヤはパニックを起こしそうなほど緊張した。男、それもまだ若いと言っていい年代の男と一対一で話をするなんて、冗談ではない。警戒のあまりモリヤはほとんど口を開かず、始めのうちはカウンセリング以前に会話が成り立たない有様だった。

「何か、変わったことはありましたか」

「…………」

 ゆうべの出来事が回想された。試着室から忽然と消えた謎の男に潰れたラブホテルの前で会った。成り行きで中へ入れてしまった。そのまま鍵をかけて閉じこめてきた。それを話すのはさすがに躊躇われ、モリヤは記憶を溯ってトピックを検索した。

「……ああ、J・G・バラードを読みました」

「へえ、何を読んだの?『結晶世界』?」

「いえ、『残虐行為展覧会』です。凄くよかったんだけど、タイトルだけで、義母に何だかひどい悪書を読んでるみたいに言われて……」

「『石油化学工場が噴き上げる青白い炎が濡れた敷石を照らし出す。ここでは誰に会うこともない。色褪せた飛行服を着て車を運転する爆撃機パイロットと、放射能炎症を負った美しい女のふたりの同乗者は彼にひとことも喋らなかった』……いいよね。僕も好きですよ」

 第一章に出てくる〈連続的死〉の一節をよどみなく暗唱してみせた榊に、モリヤは目をみはった。

「凄惨だったり、病的だったりするイメージの集積なんだけれど、美しいよね」

 想定外の場面での肯定に面食らってモリヤは言葉を見失った。榊は楽しげに付け加えた。

「バラードなら、『結晶世界』や『時の声』も面白いですよ。あと、『太陽の帝国』もおすすめです。スピルバーグの映画ですが、原作はバラードなんです。いい映画だから、是非見て欲しいなあ」

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