歌舞伎町、廃ラブホテル
上りの終電車は空いていたが、目的地の新宿は深夜零時を回っても人の気配が絶えない。東口に出て新宿通りを一本入ると、途端に繁華街らしい猥雑な闇が深くなる。ガーゼ素材のレイアードワンピースに、大きく開いた肩と背中を隠すためコットンニットのボレロを羽織ったモリヤは足早に歩いた。アナスイのドクターズ・バッグには、持ち重りのする銀色のナイフを忍ばせている。
新宿区役所の重々しい建物の前を通り、区役所通りを歌舞伎町の奥へと進む。横目でゴールデン街の入り口を見た。人ひとりがやっと通れる細い路地の両側いっぱいに、小さな店がぎっしりとひしめいている。いつか、知人とゴールデン街に繰り出して常連さんと意気投合したと、ミシンが自慢げにオンライン日記に書いていた。中上健次も江戸川乱歩も寺山修司も読んだことがないくせに、と今思い出してもいまいましい。けれどあの路地に入っていって、民家のそれと変わらないドアを叩く勇気は、モリヤにはなかった。きっと狭いカウンターで、隣の人と腕がぶつかり合うような距離に座って、見知らぬ客やマスターとも会話しなければならない空間に違いない。そんな密なコミュニケーションをとれる訳がない。ついでにモリヤは体質的にアルコールを受け付けない。
またミシンのことを考えていることに気付いて、モリヤは苛々と頭を振った。ミシンとオンラインで接触すると、きまって身体の奥からどす黒くドロドロした感情がせり上がってくる。うわべだけの馬鹿女、取り巻きにちやほやされて調子に乗って、「貴族」になりきって痛々しい、気取っておかしな文語調で日記書いてるけど基本の「てにをは」が間違ってるんだよ、恥ずかしい……、と自分のブログサイトの隠しリンク先のBBSに書き殴って収まればいい方で、体調が良くないときにあたると涙が止まらなくなったり、わめかずにいられなかったり、寝込んでしまうことさえあった。そのくらい神経に障る女だった。
黒いものはなす術もなく胸のうちに広がり、脳内を支配した。ストロベリーのiMacをシャットダウンし、枕に顔を埋め息を殺してやり過ごそうとしても、好き勝手に巡る思念は煮詰まる一方だったので、仕方なく家を出てきたのだ。
アダルトグッズのショップ、ガールズバー、ホストクラブなどのけばけばしい看板がひしめくコマ劇場付近のギラギラした空気と比べると、その先のラブホテルが建ち並ぶ一帯は嘘のように静かで、住宅街のようでさえある。洋風の瀟洒な外観だったり、南国リゾート風だったり、余計な装飾をなくしてスタイリッシュにしていたりと、それぞれに趣向を凝らしているホテル群に紛れて一軒、あきらかに時代遅れな寂れた建物がひっそり建っていた。どこともつかないヨーロッパの古城を安っぽく下品に模したその建物の前でモリヤは足を止め、衝立のようにめぐらせた壁の内側に回ろうとして、立ち竦んだ。
通りからは目隠しされている入り口の前に先客がある。黒い服を纏った長身が闇のなかに溶けている、夜の影のような人影。皮膚と長い髪だけが白い。暗くて顔がはっきり識別できないが、流石にサングラスはかけておらず、切れ長の瞳がやけに紅く燃えていた。どこのメーカーのカラーコンタクトだろう、こんなに綺麗に色が出るなんて、と場違いなことを考えて、モリヤははっとした。この男は、先日、未遠とふたりで遭遇した男だ。
回れ右して引き返すか、男の存在を無視して中に入るか逡巡しているモリヤに、男は低い声で話しかけてきた。
「あなたは……此処の、オーナーですか」
夜更けの新宿で不審な男と関わり合いになるのは御免だが、仕方がない。モリヤは声のトーンを落とし、なるべく冷たく聞こえるようにぶっきらぼうに言った。
「こんなところに何の用」
「宿を……探しているんです。此処には泊まれないのかと、思って……」
男が指差した看板はところどころ電飾が落ちていたが、かつては「HOTEL」というネオンが点っていたことは辛うじて見て取れた。不機嫌の固まりのようなモリヤの顔に、微笑が浮かんだ。口の端が歪み、瞳には小馬鹿にしたような光がある、嘲笑のような微笑。彼女はこのようにしか笑えなかった。
「確かにね。ホテルだけど、ラブホテルだよ」
「ああ」
「ひとりで来たって意味がないんじゃない」
「あなたもひとりで来た、しかも……こんな夜更けに。……随分、勇気がおありですね」
男の話しかたには不自然な間と奇妙な抑揚があった。外国人なのかも知れないとモリヤは思った。
「あたしの事なんかどうだっていいでしょう。死んだって構わないと思っているから何も怖くないだけ。それに、あたしは此処の持ち主みたいなものだから」
「……やっぱり、オーナー……ですね」
男が微笑んだ。柔らかく、感じのいい微笑だった。
「よかった。お会いできて」
「……ねえ、何の用? あんた、この前アリスアウアアの前であたしと妹とすれ違った人でしょう。あのあと、試着室から消えたって聞いたけど? 何者なの? まさか幽霊?」
ドクターズ・バッグを引き寄せ、手を突っ込んでナイフの冷たい感触を確かめながら、モリヤは刺々しく詰問した。男はモリヤの剥き出しの警戒心など全く意に介さず、笑みを浮かべている。
「さあ……どう思います」
「自分で言っておいて申し訳ないけど、あたし霊感はない方なの。お化けを信じてるほど純粋でもないし」
「ええ、霊体では……ありません」
不意に男がモリヤの左手首を掴んだ。体を引く間もなかった。生ぬるい春の夜に、男の手は氷の冷たさだった。モリヤは震えた。
「ねえ、……中に……入れてください」
枯れ枝のような手首を離さないままで、男はモリヤの瞳を覗き込んで、囁いた。低く、掠れた声が何故かひどく甘く耳を打って、耳朶が熱くなる。鮮やかな、血のような真紅の瞳に間近で見つめられているうちに、モリヤは男に抗う気力を失った。
「……離して。今、鍵を開けるから……」
男はモリヤを解放した。モリヤは二、三歩よろめき、絶対者に命令されているような心もちで、財布から鍵を取り出した。鍵を南京錠に差し込んで回す、それだけのことが上手く出来ず、錠を解くのに時間がかかった。力をこめて曇り硝子のドアを押すと、耳障りな音を立てて軋った。
ふらふらと一歩入りかけてモリヤは思い出したように蹲り、ドクターズ・バッグを探ってジッポーとキャンドルを取りだした。莓のケーキを象ったキャンドルは、二十一歳の誕生日にミシンがくれた。ミシンはアロマキャンドルに凝っているらしく、何かとくれるのだが、モリヤの方ではこんな時にしか使い道がない。まるい小さな絵皿に置いて火を点けると、莓が溶けて流れ出す。
「……入って。早く」
男を招き入れ、モリヤはドアを閉めて内側からしっかり施錠した。真っ暗な中、フロントがあったと思しきカウンターや、触れたら崩れ落ちそうに朽ち果てた観葉植物の鉢、部屋を選ぶための写真パネルなどが、キャンドルの弱く不安定な明かりに気まぐれに現れる。
「言い忘れてたけど、此処、御覧の通りとっくに潰れてるから。多分もう、十年以上前だと思うよ、営業してたの」
「片付けたり……取り壊したりは、なさらないのですか」
「さあ、そのうち壊すんじゃない。知らない、手に入れたのは義父だし、あの人の考えてることはあたしには全然わからないから。買うだけ買って忘れてるのかもね。あと、お化けが出るって噂があるよ。自殺者が出たとか、殺人事件があったとか、まあ全部根も葉もない話だけど」
階段を上り、二階の廊下の入り口でモリヤは男を振り向いた。
「何処でも好きな部屋を使えば」
「あなたは?」
「別の階を借り切ってるからお構いなく。……わかってると思うけど、電気も水道も使えないよ。しかもあたし、自分のぶんしか灯り持ってないし」
「それは問題、ありません。大丈夫です……有り難う。それでは……遠慮なくお借りします」
男を暗闇に残して更に上の階へ上る途中、モリヤは不安に駆られて何度か振り向いた。男が追けてきている気配はなかった。殺されたって構いやしないという捨て鉢な気持ちでいるのに、些細な物音にもびくついている自分が鬱陶しい。いつもの部屋にたどり着き、鍵の壊れたドアを、チェーンと南京錠で内側からしっかりとロックしてようやく、人心地がついた。
厚ぼったいカーテンの向こうに布張りのダブルベッドが据えられている。暗くて判りにくいが、カーテンもベッドの布もどぎつい深紅で、絨毯はショッキングピンクだ。壁紙は剥がれ落ち、コンクリートがむき出しになっている荒れた部屋の中で、真っ白いシーツがそこだけ整然とベッドにかけてあった。既に莓もクリームもぐじゃぐじゃに溶け、シュールなマーブル模様の固まりと化しているキャンドルをサイドテーブルに置き、モリヤはベッドに腰を下ろした。甘ったるい香りが漂う。
サークル、コンパ、カフェテリアでのランチ、ゼミの友だち、恋人、旅行など、同年代の大学生たちが明るいキャンパスで送っている学生生活に馴染めないモリヤは、錆びついて開かない窓の向こうに広がる歓楽街に集う、ドロップアウトした夜の住人たちの輪にも入っていけない。モリヤの居場所は、このうち捨てられたラブホテルの一室にしかない。
無意識のうちに同じ位置に座っているのだろう、絨毯の一箇所に黒ずんだ染みが幾つもできている。疲れたな、と思いながらボレロを脱ぎ、ナイフを手元に置いた。脚を大きく開き、幾重にも重なるガーゼの裾を腿の付け根まで捲り上げる。白い太腿に、縦横無尽に傷痕がつけられている。緻密な装飾が彫り込まれたナイフの柄を、モリヤはゆっくり握りしめた。
女が去った後、彼はしばらくじっと耳を澄ませていた。……四階の、手前から四番目の部屋に入った。厳重に錠を下ろしている。精一杯虚勢を張っていたが、怯えていたのに違いない。……やけに、血のにおいのする女だった。真っ黒い髪が重たく目の上に被さり、血色がわるく、不健康に痩せて、美味そうには見えなかったが、妙に気に懸かるのは血のにおいのせいだろうか。
手近なドアを開けてみた。部屋の中央に巨大なベッドが鎮座し、壁にスプレーで極彩色の落がきがあった。次の部屋には何やらスイッチの付いた円形のベッドがあった。どの部屋にも巨大なベッドがあり、何年も放置されていたらしく、荒れていた。結局、彼は最奥の一室を選んで落ち着いた。
トランクから、ここへ来る前にまとめて失敬してきた血液バッグを取り出し、チューブの差込口に口をつけて人間が栄養ゼリーを吸うように吸った。あれは、いつのことだったろう、新宿駅の地下道を歩いていて、「あなたの血液を必要としている人がいます、ご協力をお願いします」という呼び込みに初めて出くわしたとき、彼は思わず微笑んだものだ。それは正しく私のことではないか。鮮度が落ちれば当然味は落ちるが、狩りをせずに糧が手にはいるなら、それに越したことはない。リスクはなるべくおかしたくない。以来、少々寝過ごした目覚めのあとには必ず同じ場所へ行き、あの献血ルームが変わらずあることを確認することにしている。
眠っていたのはひと月くらいだったようだ。あの地下のねぐらはもう使えないだろう。当面は此処に間借りするとして、新しい住まいを見つけなければならない。またインターネット・カフェにでも潜り込んで、色々調べてみなければ。
空になった血液バッグを握りつぶし、彼は額を支えるように手で目を覆った。また、目覚めてしまった。この眠りが永遠であるようにと眠りに就くたび願うのに、黄昏とともに規則正しく目が覚める。身を隠し、誰にも頼れず、右も左もわからない世界を歩く術を探し、秘かに歩き回る。ニュースのチェックも欠かさず、自分を取り巻く全てに神経を尖らせておく。そんなことを、いつまで続ければいいのだろう。
それでもあるじ主と共にあった間はまだよかった。主が……ルカが傍らにいない今、神に見放され安らかな眠りから追放されていることは、終わりのない責め苦でしかない。
彼は頭を振って、主の面影を振り払おうとした。かわりに、かつての主によく似た服装の子どもの姿が脳裡を過ぎった。あの女はあの子を妹だと言った。試着室から消えたことも知っていた。あれは軽い悪戯だった。店員が、「お客様がその服をお召しになったら、本物のヴァンパイアに見えますよ」などと言うので、可笑しくなってしまったのだ。が、悪ふざけが過ぎたかも知れない。
喪服のように黒い服を着た、血のにおいの陰気なあの女の名前を聞き忘れたことを、彼は少し悔やんだ。
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