新宿三丁目、アリスアウアア

 レイ、と細い声で名を呼ばれて、モリヤは顔を上げた。濃紺のセーラー服姿の未遠ミオが所在なげに立っていた。

 幼稚園から大学まで一貫の、私立の名門中学の桜の校章を胸に縫い取った未遠の制服姿を見るたび、モリヤは野暮ったい丈のプリーツスカートを残念に思う。どうせセーラーのブラウスなら、半ズボンと膝丈のハイソックスを合わせたい。靴下どめも付けさせたい。少なくとも未遠にはその方が似合う。陽に透けると焦茶色だとわかるくせのない真っ直ぐな髪をショートボブにして、ちびで、痩せっぽちの未遠は、発育のよい同い年の少女たちと比べてひどく幼い印象を与えた。大きな瞳と長いまつ毛、ぽってりした唇の人形のような顔立ちをしていたが、ローティーンの少女の持つはつらつとした可愛らしさはなく、未分化なものの危うさだけがあった。

「お帰り。早かったね」

「だって、黎と約束してたから」

 その日は、次の日曜日のお茶会に着てゆく服を新調しようと、以前からきめてあった。

「服、出してあるから。着替えな」

 モリヤは顎で、緞帳のように重い臙脂のカーテンを昼でも下ろしたままの窓の方を示した。襟元に黒いサテンリボンを結んだドレスシャツにベスト、半ズボンに縞の靴下まで、一式揃えてハンガーに吊してある。未遠は素直に頷き、衣装を持って自室へ戻った。

 モリヤも立ち上がって、黒い服、それもアリスアウアアのタグの付いたものしか入っていないクローゼットを開く。未遠に着せたい洋服なら幾らでも思いつくし、何時間でも考えていたいのだが、自分のことは面倒だった。着慣れたロングスリーブのカットソーに、布をたっぷり使ってあるロングスカートを合わせた。常に裾を引きずらないように神経を使っていなければならないが、それでもモリヤのワードローブではいちばん気を張らないで着られる組み合わせだ。

 着替えた未遠が戻ってきた。思い描いていたとおりの貴族の子息のような雰囲気に、気難しげに引き結ばれたモリヤの頑なな口許が緩む。手招きして未遠を呼び寄せると、櫛で前髪をととのえ、瞼と唇に簡単に化粧を施してやった。未遠は目を閉じて、モリヤの為すがままになっている。モリヤは満足げに未遠の頭を撫でた。

「完璧だよ、お人形さん。さ、出ようか」



 彼は寝台の上で目を覚ました。昨日……一昨日かも知れないし、一週間前、もしかしたら一年前かも知れないが……最後に夜明けとともに眠りについたときは、地下深く秘密裏に建設中のまま日の目を見ることなく閉ざされた鉄道駅の、錆び果てたコンテナの中だったはずだが、目覚めた場所は室内のようだった。

 自分の体を検めた。晒の、簡素な衣装を着せられている。肘の裏にちょうど針を刺したような小さな穴がある。枕許に線香が一本供えられて、細い煙が一条立ちのぼっていた。独特の香りに、彼は顔をしかめた。かつての彼の信仰とは違うものだから脅威ではないが、異教のものであれ祈りが側にあることは不快だ。

 霊安室か、と彼はようやく状況をのみ込んだ。遺体だと思われ、ここまで運ばれてきたのだろう。あの忘れられた地下壕が暴かれたということか。そんな事態になったら、土砂に埋もれて更に深く眠るか、白日太陽の下に引きずり出されて灰になるかするだろうと思っていたのに、人間に救い出されるとは。

 体内に新たな血を感じる。眠りから覚めたときには強い空腹感が襲ってくるものだが、今はそれほど飢えを感じない。まさか、人間は自分に輸血を施してくれたのだろうか。何の工事だか知らないが、本来あるはずのない空間に、いるはずのないものがいて、脈も呼吸もないくせに死者とは思えない瑞々しさで横たわっていたら、さぞや驚き困惑しただろうに。

 元々身に着けていたトレンチコートと、常に持ち歩いている小型のトランクは寝台の側にまとめてあった。彼は身支度をして部屋を出た。鍵はかかっていなかった。

 廊下に出ると蛍光灯の白い光に目が眩んだ。薬液の強い匂いと、隠しきれない死と病のにおいがした。やはり彼は病院に搬送されたのだ。苦笑がこぼれそうになる。彼は姿を変えて建物から脱出した。

 だいぶ長くなった春の日が微かに残光をとどめていたが、すでに宵闇が街をすっぽり包みかけていた。もっとも、建物の灯りやけばけばしいネオンサインで、街は昼のように明るい。しばらく漂っているうちに新宿駅を見つけ、地理の見当がついたので元の姿に戻って通りにおりたった。まだ完全に夜の支配下に入ってはいない宵の口のこの時間に、気力を使う変身は疲れる。

 さて、これからどうしようか。

 何のあてもなくあたりを見回した時だった。ふいに、彼の目は一人の子どもに釘付けになった。十二、三歳だろうか、ビル群とアスファルトの街景からも、忙しげに行き交う人々の服装からも、かけ離れた格好をしていた。百年以上も昔、海を渡ってこの国に来る前に見たような装いだ。

 人違いだ。あの人のはずがない。

 そう冷静に打ち消しながらも、彼は子どもから目が離せなかった。



 東京の最も深くを走る都営地下鉄十二号線に乗り、都営新宿線に乗り換えて、新宿三丁目駅で下りる。伊勢丹を通って地上に出たところで、未遠が小さく肩を震わせた。

「どうかした」

「……」

 未遠は無言で、新宿通りの対岸、三越のエントランスのあたりを見つめた。未遠の視線を追いかけて、モリヤも目を凝らす。

「変な人がいた……と思ったけど、いなかった」

「変な人なんて掃いて捨てるほど居るでしょうよ」

「瞳が紅く見えた……。見間違いだったのかな」

「変質者が目を血走らせてたんじゃないの。さっさと行くよ」

 モリヤは未遠の背中に手を回して急きたてるように軽く押した。紀伊國屋書店の前を通りすぎ、JR新宿東口の方向へ進むとマルイヤングがある。四階までは普通の若者向けのファッションビルなのだが、五階から上にはかつて別のビルをまるまる占拠していたマルイワンが入っており、黒を基調としたダークな雰囲気にがらりと変わる。

 アトリエ ボズ、ブラックピースナウ、セクシーダイナマイトロンドン、フェトウス、ノーフューチャー、ジェーンマープル、メタモルフォーゼ、ベイビー、ザ スターズ シャイン ブライト、などなどロックやパンクからゴス、ロリータまでありとあらゆる非日常の洋服を売るショップが集まり、その界隈に縁のない者は立ち入りがたい一帯で、おそらくは最も入りにくいショップがアリスアウアアだろう。充満する青く沈んだ空気が足を踏み入れるのを躊躇わせるモワ・メーム・モワティエのさらに奥にあり、店に入るには怪物の口輪を模したノッカーの付いたドアを開けなければならない。客を迎えるのは4ADの陰鬱な音楽、壁に首を拘束されて上半身を仰け反らせながらコルセットをディスプレイしているマネキン、人間の手足を象った脚に支えられたガラスのテーブル、デュシャンの「泉」を思わせる唐突さで置かれた便器、爬虫類の皮などだ。未遠のような十代になったばかりの子どもが来る場所ではないし、手が出る値段のものもない。

 モリヤが未遠の手を引いてドアを開けると、目の周りを真っ黒に塗った異界の住人のような店員たちが、いらっしゃいませ、と囁いた。モリヤは店員たちに一瞥もくれず、天井から長く吊り下げられた電球を無造作に揺らして奥へ進んだ。棚に手を伸ばしては、遠慮のない動作でブラウスやジャケットを広げて眺め、ぽいと戻す。

「このブラウスなんかどう?」

 袖がたっぷりふくらむようふんだんに生地をとった、透ける白地の繊細なブラウスをモリヤは未遠の身体にあてた。

「そのブラウスは新作です。アリスのコンセプトの、『ヴァンパイアの正装』のイメージです」

 少し離れて二人をちらちらと窺っていた店員が寄ってきて、機械的に説明した。モリヤは店員を無視し、未遠に向かって言った。

「ヴァンパイアだって。どう、お茶会はこれでいいんじゃない」

 未遠が云とも否とも言わないうちにそれを買うと決め、主人が従者にするようにブラウスを店員に手渡す。更にブラウスに合わせたジャケット、自分のためのスカートなどをモリヤは次々に選んだ。自分用の服は鏡で合わせてみることすらせず、デザインが気に入ったものを迷わず手に取る。新作を端から買い、いちどに三着、四着と十万円以上平気で買っていくモリヤは、傍若無人で態度が悪くとも上客には違いなかった。

 アメリカンエクスプレスで支払いを済ませ、義父の名前をサインして店を出た途端、未遠が「あっ」と声をあげた。狭い通路を塞いで、男が立ちはだかっていた。長身に、季節はずれのトレンチコートを纏い、背中で束ねた長い髪が銀色に光った。濃い色のついたサングラスをかけていたが、通った鼻梁とかたちの良い薄い唇から、端正な顔立ちであることがうかがえた。

「……失礼」

 嗄れた低い声で呟き、男は未遠とモリヤが出てきたばかりのドアを開けて、店に入っていった。未遠が茫然と呟いた。

「……さっき、瞳が紅く光るのを見たのは、あの人……だった気がする」

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