第二章 03 猫にはお見通し

 月のきれいな夜のこと。ラティエルは黒猫セレに叩き起こされ、母の研究室へ忍び込んでいた。起こされたといっても、フレデリックの言葉が気にかかり、眠れなかったからちょうどいい。

 窓際にある作業机にランタンを置き、一脚だけ備えられた椅子に座る。机の上には、大きくて浅い銀の皿に水が張られていた。よく見れば、隣にあった花瓶が倒れているではないか。きっとセレがやったのだろう。ため息をつきながら花瓶を起こす。


「ハァ……、剣を振りまわしてたら、結婚できないのかな?」


 そもそも、復讐しようなどと考えている人間が幸せを望んでいいものか。普通に考えれば、結婚などするべきではないだろう。

 しかしだ、結婚のとのは天と地ほどの差がある。そしてラティエルに訪れる未来は、後者のような気がしてならない。


「どう思う? セレ」


 猫に相談するという不毛ふもうな行為がやめられない。母の研究室にこもるたびに、ラティエルはセレに愚痴ぐちをこぼした。賢くとも猫はやはり猫なのだ。ラティエルの言葉に耳を傾けることなく、机の上にいろんなものを集めていく。猫にも犬のような収集癖があるとは知らなかった。


「ねぇ、聞いてるの?」


 ナァ~と気のない返事をよこしたセレが、高い所にある棚からガラス瓶を落とした。あっと声をあげたときにはもう遅く、ガラス瓶は上部が砕け、中にひとつだけ入っていた花のツボミが転がった。


「も~っ!! 何やってるのよ」


 腰に手をあてすごんでみたが、ラティエルには目もくれず、セレはツボミをくわえて机に向かう。ため息をつきながらガラスを片づける。細かく飛び散るタイプではなかったのが幸いだ。

 セレは机の上に座り、ジッとこちらを見つめてくる。よく見れば、ひらかれた母の手記の上に足が乗っていた。


「本の上に乗ってはだめよ! お・り・て!」


 ラティエルがずいっと顔を寄せると、肉球でそっと頬をなでられた。さらにその前足で、足もとの本をポンポンと叩く。セレが叩いた箇所の文字を、ラティエルはなぞるように読みあげる。


「我は月をあおぐ者なり。女神シンシアの小舟を浮かべ、今宵、月のうたげなんじいざなわん?」


 ラティエルが読み終えると、セレは花のツボミを銀の皿にポチャンと落とす。固く閉じられていたツボミがふわりと花弁を広げた。――途端に花からは光があふれ、机に置かれた小物たちが魔法陣を描き出す。光はセレを包んで、さらに輝きを増した。


「なっ、なに⁉ ――セレ?」


 まぶしさに閉じていた目をゆっくりとあけてみれば、懐かしい女性の姿があった。夜の女神も嫉妬するであろう黒髪に、スミレ色の瞳。三十代半ばとは思えない美貌。


「お……お母様⁉」

「ラティエル」


 名前を呼ばれて目もとに熱が集まる。歪んでしまった視界を手で擦りながら、やわらかな胸に飛び込んだ。


「生きていたのね! よかった……本当によかった!」

「あの魔法で術者は死んだりしないわ。だけど、思ったより魔力を消費したから、猫の姿になったのよ」


 ――なぜ、魔力を消費したら猫になるのだろう?


「はっ! もしかして、お母様って本当は猫だったの? しんの姿に戻ったの?」

「……さすがわたくしたちの娘ね。そんなところは受け継がなくてよかったのに」

「え?」

「なんでもないわ。前に教えたでしょう? 魔力を消費しすぎると気を失うって」

「う、うん」

「そうなったときに、人間が……しかも女性が行き倒れていると、その……、おそろしいことが起こったりするのよ。だから、魔力が底をつきそうになると、動物に姿を変える魔道具があるの」

「へえぇ……」


 聞きたいこと、わからないことがたくさんある。なのに口をひらこうとしたラティエルのおでこを指で押して、母は机に向かった。猫のときにやったことへの意趣返いしゅがえしだろうか。紙に何やら書きつづり、封蝋の代わりに魔法で封をしたものをラティエルに渡す。


「――これを。そのペンダントと一緒に、ポラリス魔宝伯まほうはくに送ってちょうだい」


 母が指差したのは、灰色になってしまった石のペンダントだ。ラティエルはあれからずっと首にかけている。


「お母様、住所がわからないわ」

「その方には宛名だけで届くから、必要ないのよ」

「ふぅん?」


 そういえばポラリス魔宝伯とは、高名な魔道具師の名前ではなかったか。そんな人にいきなり送りつけても大丈夫だろうか。


「お母様、あの――」

「ラティエル、時間がないからよく聞いて。わたくしがいつも身に着けていた指輪を探してちょうだい。それがあれば人間の姿に戻れるわ」

「えっ、今の姿は――?」

「これは魔法で一時的に見せている幻覚のようなものよ。月の光が隠れてしまえば猫に戻ってしまうの」

「そんな……」

「ラティエル、愛しているわ。あなたは剣も結婚も、捨てなくていいのよ」


 含み笑いをする母を目にして、猫の前で愚痴を吐きまくったことを思い出した。

(ひゃあぁぁ――!! ぜんぶ聞かれてた⁉)

 真っ赤になったラティエルは、あたふたと話をそらす。


「そっ、そうだ! お父様に会って話を――」

「いいのよ。もう、いいの……」


 ひどく切ない声が部屋に落ちる。「お母様……」労るように見上げれば、月明かりの逆光のせいか、顔には影が差し、スミレ色の瞳が爛々らんらんと光って見える。


 母は――笑っていた。


 それは魔女――いや、悪魔もかくやといわんばかりの凄絶せいぜつな笑みだった。悲鳴をあげなかった自分を褒めてやりたい。

 聞いたこともない低い声が頭上から降ってくる。


「あの浮気者……、半年と待たずに後妻を迎えるとはいい度胸だわ。今に目にもの見せてやる。――いいこと? あの人には、わたくしが生きていることは内緒です」

「っ……で、でも」

「それに少し、気になることがあるの。だから、このことは誰にも言わないで。ラティエルとアデルには寂しい思いをさせるわね。ごめんなさい」


 先ほどとは打って変わり、眉尻を下げて見つめられては、もう何も言えなかった。頭をなでられてうれしいのに、心がざわつく。


(そうだわ。お母様は生きていたのに、ラティエルは消えてしまった。そんな……そんなことって! ……言わなきゃ)


 ラティエルは自分に体を与えていなくなった。記憶は受け継いだけれど、自分はラティエルであってラティエルではない。


「お母様、わたし……、わたし本当は――」


 ――あなたの娘ではないの。そう告げようとしたとき、サッと部屋に影が差し、母は猫の姿に戻ってしまった。ニャーンと響いた鳴き声は、嘆いているようにも聞こえた。


(猫の姿だけど、話は聞けるはず。言わなきゃ……でも、返事ができない状況で一方的に知らせるのはこくなんじゃ? だって娘が……死んだのよ)


 娘といえば、星乃も死んだはず。両親は悲しんでくれたのだろうか。愛しているなんて、直接的な言葉を避けるのが日本の美徳だけど、言わなきゃ伝わらないことが多すぎる。その点、セレーネはハッキリと言葉にしてくれた。


(ラティエルは愛されている。だからこそ……)


 セレーネが生きていた今、ラティエルが早まったことが悔やまれる。石に願ったりしなければ、このまま幸せだけをいだけただろうに。

 母が元の姿に戻ったら、そのときにはちゃんと告げよう――そう心に決めたのだった。

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