薄明を告げる鐘の音 ~未来を繋ぐ出会い~

桐谷瑞香

第1話 先輩との出会い

「戻ってきてくださいよ。もっと教えてくださいよ」


 他に誰もいない部屋で、青年が一人、片づけられた机を見下ろしていた。

 明かりは外から射し込んでくる夕日の光のみ。この部屋に人がいるとは思えないほど、中は暗かった。

 青年は綺麗に拭かれた机の上に、そっと手を乗せる。そして歯を噛みしめて、手をぎゅっと握りしめた。


「先輩……!」



 * * *



 人々の動きが少しずつ活発になり始める朝、リュックを背負った少年がわき目もふらず、全速力で走っていた。あまりに焦っていたため、先を歩いていた人たちは、彼が進む道を急いで空けていく。


「すみません、すみません、ありがとうございます!」


 走りながらも律儀に礼を言う姿を、人々は微笑みながら見ていた。

 二十歳に満たない漆黒色の髪の少年が、仕事が始まる前の時間帯に走っていたら、彼が遅刻しそうだということを、薄々察することができる。


(あの建物の角を右に曲がって、すぐに左に曲がれば――)


 走りながらも無駄のない道筋を頭の中に描いて、十字路の角を曲がる。その時、背後から女性の助けを呼ぶ声が聞こえた。

 とっさに振り返ると、ニット帽をかぶり、くたびれたダウンジャケットを着た男が、女性用のカバンを持って、こちらに向かって走ってきていた。


「ひったくりか!?」


 舌打ちをしつつ、足を止めた。男がナイフを取り出して、突っ込んでくる。


「邪魔だ、どきやがれ!」

「盗人に道を作るなんて、できるか!」


 突っ込んでくる男に対し、青年は左手を前に出し、右手を少し後ろに下げて、軽く拳を構えた。

 退かないと察した男は、さらにナイフを強く握りしめて迫る。

 少年はそれを鋭い瞳で睨みつけ、ナイフの軌跡を逃さないようにした――。 



「えーっと、確認だけど、君の名前はマチアス・ポアレでいいんだっけ?」


 栗色の髪の青年が、手帳に書いた文字と座っている少年の顔を交互に見た。マチアスと呼ばれた少年の頬にはガーゼが張られ、服は土で汚れている。

 年齢的に少し上の青年に声をかけられたマチアスは、目を大きく見開いた後に、勢いよく立ち上がって、頭を下げた。


「こ、この度は申し訳ありませんでした!」

「なんだ、突然。別に謝られるようなことはされていない。むしろ感謝しているんだよ?」


 青年は目をぱちくりする。彼が羽織っている、紺色のダウンジャケットの左胸には、公的機関を表す、紋章が縫いつけられていた。そこから、彼がある団に所属しているということが一目でわかる。


「君は女性のバックを奪い、ナイフを持った男を、体を張って捕まえてくれた。何ヶ所か切られたみたいだけど……。大丈夫?」

「あ、大丈夫です。といいますか、そうではなくて……」

「今日から来る新人にも、その勇姿を見せてあげたいよ。未だに来ないなんてさ」


 青年が緩めたネクタイをいじりながら、口を尖らせている。マチアスは耳を疑った。

 その時、青年と一緒に来た、同じダウンジャケットを羽織った、さらに年上の男性が、彼の頭に軽く手刀を下ろした。


「いてっ」

「ギルベール、もう少し頭を働かせろ。昨日、何を聞いていたんだ?」


 男は頭をさすりながら、眉間にしわを寄せる。


「痛いですよ、ヤン班長。どういう意味ですか?」


 班長はマチアスを指した。


「この人の名前は?」


 ギルベールは手帳を見て、名前を繰り返す。


「マチアス・ポアレ」

「じゃあ、今日来る新人の名前は?」


 手帳を一枚、手前にめくった。


「マチアス・ポアレ」


 ギルベールははっとし、そのページを食い入るように見る。そして手帳越しから、こちらを見てきた。

 マチアスは姿勢を正して、頭を下げた。


「改めまして、マチアス・ポアレといいます。今日からこの地区の警備団に配属されることになりました。本日はこのような事態があり、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。以後、気を付けますので、よろしくお願いします」


 本当は遅刻寸前であったが、それは伏せた。

 奮闘の末、ひったくり犯をどうにか捕らえた。だが、そのまま放置しておくのは気が引けたため、他の人に警備団を呼ぶよう頼み、遅刻は覚悟のうえで、自分はこの場に残ったのだ。何かあれば、自分であれば対処できると判断してのことだった。

 ギルベールは注意されたことなど忘れたかのように、歯を出して、にかっと笑った。


「そうか、そうか。俺はギルベール・ミュルゲだ。これからよろしくな、マチアス」

 出された手を握り返した。豆がつぶれて固くなった、ごつごつとしている手であった。



 * * *



 都市アスガードの警備団は、治安維持を目的としている公的な集団である。定期的に巡回をしているだけでなく、何か通報があれば、今回のように駆けつけるのが常であった。

 地区ごとに警備団の出張所があり、その中でさらに複数の班で分かれている。ある班は窃盗や器物損壊の犯人を捕まえ、揉め事があった場合にはその仲裁役など、様々な面倒事を対処していた。また別の班は、事故死の追及や、殺人の犯人探しなどもしていた。

 危険と隣り合わせの職業であるが、治安維持のためには必要とされている存在でもあり、都市でも一目置かれているため、志願者は一定数以上いるのだった。


「まずは地図を使って説明しよう」


 警備団の出張所に連れてこられたマチアスは、ギルベールに都市の全体像がわかる地図を見せられた。

 中心に都市全体を見渡せる鐘塔があり、そこから四方八方に道が伸びている。さらに都市全体を外側に取り囲む壁が一つ、そして鐘塔付近にある中心街を囲む壁が一つあった。それらの壁は通称、外壁と内壁と言われており、内壁は外壁よりは低いが、中に入る場合は厳しい検問を通らなければならなかった。

 外壁と内壁の間にある、南西側の地域を指で示す。


「この辺りが、俺たちが管轄している地域だ。都市内でも真ん中くらいの治安の良さだな。――もし、中心街、いわゆるゼロ街で警備をしたいと考えているなら、こっち側で経験を積んだ後に、試験を受けることになる。給料はいいが、だいぶ仕事内容は違うらしい」

「犯罪の内容が政治的な部分も絡んできて、複雑だと聞いています」

「ああ、そうだ。知り合いが少しいて聞いたことがあるが、色々と気を使うだけでなく、かなり頭を悩ませる、厄介すぎる案件ばかりらしい」


 ゼロ街には地位的に上の人間が多くいる。都市の中での方針を決めたり、税金を徴収したり、道や外壁などの整備を取りまとめたりと、公の事務を取り扱っている人間たち。各種方面の商工会の会長たち、そして富裕層の人間などが多数住んでいると言われている。

 都市の外には魔物と呼ばれる危険な生物がうろついているため、万が一、襲撃にあった場合に備えて、重要な機関や人間は町の中心にいるようにしているのだ。


「とはいっても、こっちもそれなりに面倒な仕事が増えているがな。最近、開かれた都市にしたいらしく、外からの人間を結構入れているんだ。それは悪い事じゃないし、むしろ良いことだ。けどな、都市の物価の高さについていけなくて、金がなくなる場合がある。そうなった人間の中に、金を得るために窃盗をしようと考える奴らが出てくるのさ」

「確かにここ数年で人が増えた気がしますね……」


 マチアスはアスガードの出身だ。最近、見慣れない服を着た人間をよく見る。観光客も増えているが、定住している人間も徐々に増えているように感じられた。


「説明はそんなところだ。さて、今日は事後報告書の作成だ。当事者だし、是非頑張って作ってくれよな」


 ギルベールはそう言うと、マチアスの前に紐で閉じられた紙の束、複数枚の新しい紙、そしてインクとペンをどさっと置いた。

 突然置かれて、目が点になる。


「この紙の束が、他の人たちが書いた報告書だ。参考にしながら、報告書を作成してくれ」

「は、はあ……」

「それじゃあ、俺はちょっくら外に――」


 彼が背を向けた途端、背後にいたヤンに頭部から拳骨を食らっていた。ギルベールは頭を抱えながらしゃがみ込む。ヤンは仁王立ちで、ぎろりと彼を睨みつけた。


「おい、お前はマチアスの教育係だろう! ちゃんと教えてやれ!」

「いてて、本当に力だけは強いんだから。俺、他人に何かを教えるとか苦手なんです……」


 ぶつぶつと不満を漏らしていると、ヤンは口元に笑みを浮かべた。


「そんな姿を妹さんが見たら、さぞ幻滅するだろうな?」

 ‟妹”という単語を出された瞬間、ギルベールはすっと立ち上がった。そしてマチアスの前に立つと、紙の束をめくり、あるページで手を止めた。


「この内容が、今回の事件と一番似ているやつだ。報告書には、日にちと時間、事件の概要、そして関係者と犯人の名前を――」


 さっきまでの緩んだ雰囲気とはがらりと変わって、てきぱきと教えていってくれた。その変貌に驚きつつも、彼の言うとおりに書類を書き進めていった。

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