9 目撃する
屋敷の中は、外観通りボロかった。いや、質素そのものと言おうか。
高価そうなものは一つも見当たらないし、廊下はどんなに慎重に歩いてもギシギシと僅かな軋みを上げる。
しかし、掃除は行き届いている。物も何度も修復して大切に使っているのだろう。
ソフィアとルカが、この家に愛着を抱いて、丁寧に暮らしているのだろうことが、嫌と言うほど伝わってくる。
それに、この風景画。
壁には、等間隔に、素朴で穏やかな風景画が飾られてあった。
額は古くさかったが、画の方は見事なものだ。ソフィアの趣味かと近づいて、そこにルカのサインがあることに気づいたフレアは、ムッと表情を曇らせた。
その才能もムカつくが、この画をわざわざ額に入れて飾っているという点も腹が立つ。
フレアの屋敷には、こんなものは一つもない。
子どもの描いた画を、額に入れて飾る。何てことないようなそんなことすら、フレアは知らずに育ったのだ。
カノンたちの楽しそうな声が、微かに耳に届いた。「すげえ美味い!」「ありがとう、ばあや」「いえいえ、坊ちゃまたちのためなら、これくらいいつでも作りますよ」――……キッチンでクッキーを食べているのだろう。腹の中のどす黒い感情が、一気に膨れ上がるのを感じながら、フレアは気配を消して廊下を進んだ。
突き当たりは階段だった。今のところ、何一つ思い出せそうな事はない。
衝動的に来てしまったようなものだし、収穫がなければさっさとお暇した方がよさそうだ。
そう思いながら、階段を半分ほど上がった時だった。
ゴト、と、音がした。何かが倒れるような、落としたような、鈍い音だ。
嫌な予感が、フレアの胸を過った。更に慎重に足を運ぶ。階段を登り切った先、奥の部屋の扉が、僅かに開いている。息を殺してゆっくりと近づき、中を覗いて、絶句した。
「んーっ! んんーーっ!」
ソフィア・ローズ・イグニスが、口に布を噛まされ縛られて、床に転がされていた。
何が起きているか、一瞬理解が遅れた。ソフィアが拘束されている。
部屋の中には、他に男が二人いた。のっぺりとした仮面をつけた、全身黒づくめの男たちである。二人がかりで、ソフィアの周りに何か液体のようなものを撒いている。嫌な臭いで、油だとすぐにわかった。
「のこのこ戻って来てくれて助かったな」
「ああ」
「殺すには惜しいが……ま、仕方ねえ」
カラン、と空になった油の缶を転がし、男の一人がナイフを手にソフィアに近づく。
ぼそぼそ聞こえてきた会話から明らかなのは、彼らの目的がソフィアの命であること。つまり金目当ての強盗ではない。暗殺者だ。ソフィアの動向を監視し、隙が出来るタイミングでも見計らっていたのだろう。
その時初めて、今更遅いと言う他ないが、小説の内容がザッと蘇った。
ソフィアは、結局公爵と再婚することはなかったのだ。その前に殺されたから。
犯人はわかっていない。遺体はこの屋敷ごと燃やされた。イグニス公爵は、火事を聞いて駆けつけ、ソフィアを助け出そうと燃え盛る屋敷の中に飛び込み、亡くなる。
ルカは屋敷にいたが助かった。……たった一人だけ。
ざっくり小説の内容を思い出せたところで、扉越しにソフィアと目が合った。
驚きに見開かれた彼女の瞳は、真っ直ぐにフレアに助けを求めている。あんなに必死な顔は初めて見ると、フレアはどこか冷静に考えていた。
しかし助けを求められたとて、十歳のフレアに何ができるだろうか?
暗殺を生業にしている男二人を、子どもが何とかできる訳がないだろう。
口の動きだけで、諦めて、と彼女に伝えた。自分に彼女を助ける力はない。
そもそも、大嫌いな女のために、どうして自分の命を危険に晒せようか。
男のナイフが、彼女の首元に当てられる。赤い血の玉が、白い肌に、ぷつ、と浮かぶ。
「んー! んーっ!」
涙が、彼女の頬を濡らしている。フレアは顔を背けた。
(恨むなら、私じゃなくこの小説の作者を恨みなさい)
これからソフィアはその首を搔ききられ、遺体も燃やされる。お腹の子も、当然助からない。それが彼女の運命だ。作者が――喫茶店の女給が、そう決めた。フレアは関係ない。たまたま――いや、小説を断片的に思い出したからだが、たまたま、偶然、この場に居合わせた。それだけのこと。
助ける義理など、欠片もない。
「ん、んんっ……」
何か、悟ったような声だった。フレアは、見てはならないと思いながら、つい視線を向けてしまった。
それがよくなかった。ソフィアは、もう何もかも諦めたような顔をしていた。謝っているようでさえあった。怖いものを見せてすまない、貴方は逃げて、と。
それが、フレアを突き動かした。
次の瞬間、彼女は勢いよく扉を押し開け、手近にあった椅子を掴んで思いきり投げつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます