5 走り去る



 馬車がイグニス邸前に停まったのは、それから数時間後のことだった。




 フレアは馬車から降りて屋敷を見上げ、大きく伸びをした。乗っている間ずっと眠っていたおかげで、だいぶ心が落ち着いている。その直後、屋敷の扉がけたたましい音を立てて開けられた。




 フレアは、咄嗟に近くの茂みに身を隠した。




「あの馬鹿娘を探せ!! 敷地内で嘘泣きしていればいいものを、馬車を使うなんて何考えて――!」




 フレアの実の父親、フェルド・ローズ・イグニス公爵である。刈り込んだ真っ赤な髪、鋭い眼光の目つきの悪い男で、背は高く、熊のような体格をしている。見る者に自然と威圧感を与える風貌だった。その男が、唾を飛ばしながら怒鳴り散らしている。


 やがてイグニス公爵は、屋敷の前に放置された魔法の馬車を見て、血相を変えた。




「あいつ!! やはりこれを使っていたのか!! 最後の一回だったんだぞ!? それをこんなくだらんことに……!!」




 最後の一回、ということはつまり、魔法の馬車は効力を失い、もうただの金ぴかの塊と化してしまったことを指す。


 魔道具というのは便利なものだが、必ず回数制限がある。回数はその魔道具を作った道具士の力量によるところが大きく、場合によってはたった二、三回しか使えないものもあるとか。トラブルの原因になるため、何回使えるかと言うところは、事前に購入者に通知しておくことが義務づけられている。




 魔道具はそのどれもが超高級品であり、そのため日用品として使うことはあり得ない。


 イグニス公爵家は普通の馬車も多数保有しており、ただの移動程度ならそちらを使う。ちなみに今回フレアが使った魔法の馬車は、イグニス公爵が愛人との記念日デートでのみ使う、思い入れの深い特別なものだった。




 フレアは小さく舌打ちした。


 彼女としては、ただ一番豪奢で、一番自分に相応しいと思ったものを選んだだけのこと。反省するつもりはさらさらない。いや、むしろ反省するのは公爵の方だろう、と思っている。


 愛人を身籠もらせ再婚するなど、恥さらしにも程がある。それに自分が屋敷を飛び出した時、すぐ謝りに来ていればこんなことにはならなかったはずだ。




 その時、怒りに燃える公爵に、か細い声が掛けられた。




「フェルド。あまりフレア様を責めないでください」




 フレアはぎょっとして息を飲んだ。




 イグニス公爵に声を掛けた人物は、ソフィア・ローズ・イグニス。


 彼女こそイグニス公爵の愛人であり、もうすぐ新しい妻となる女性だ。赤みがかった長い茶髪を胸まで垂らし、瞳の色は明るいオレンジ色。見るからに優しさそうな、穏やかそうな雰囲気の女性だった。


 フレアは長らく彼女を見かけてこなかったが、成る程そのお腹は隠せようもない程大きく膨らんでいる。妊娠しているのは本当らしい。フレアはげんなりと顔を顰めた。




 しかし今最も重要なのは、ソフィアがイグニス邸から当たり前のように出てきたということだ。


 もう引っ越しを終えたのだろうか? それとも、ただ茶でも飲みに来ただけだろうか?




 イグニス公爵は、彼女を見て慌てて駆け寄った。


 さっきまでの憎しみに満ちた怒鳴り声が嘘のような、何百倍も優しい声を彼女に掛ける。




「ソフィア! なぜ外に? 体に障るだろう。中に入ってゆっくりしてるんだ。さあ」


「私は大丈夫。そんなことより、あまりフレア様を責めないでください。急に新しい母親だと言われても、混乱するのが普通です。今一体どこにいらっしゃるのか……そこに車があるということは、戻ってこられたということですか? 早く保護して差し上げてください。何か事件に巻き込まれていたら――」




 愛しいソフィアの頼みならば、公爵は何だって言うことを聞くのだろうと、フレアは思っていた。


 けれどどうやら違ったようだ。フレアの事となると、イグニス公爵は途端に冷淡になる。




「あいつを心配する必要はない」


「でも――」


「あいつは以前から君を目の敵にしていた。あの娘の横暴な振る舞いは、君もよく知っているはずだ。家ではもっと酷い。発火能力を使って侍女にも八つ当たりをしているんだぞ。あんな娘、聖騎士の風上にも置けない」


「まだ子どもです。十歳ですよ。力のことはよくわかりませんが、これからゆっくりと――」




 イグニス公爵は首を横に振って、ソフィアの言葉を遮った。




「いいか、君がフレアに関わる必要はない。あれは邪悪な娘だ。絶対に近寄らないでくれ」


「フェルド……」


「大丈夫、安心しておくれ。君とルカをこの本邸に住まわせて、フレアは別邸に移らせる予定だからな」


「えっ」




 ソフィアの顔がサッと青ざめる。フレアもまた、茂みの中で彼女と似たような顔色になっていた。


 心臓が凍り付いてしまったようだ。まさか自分が本邸から追い出され、別邸にむりやり移される予定だとは、夢にも思っていなかった。




「さ、君は部屋でゆっくり休むんだ。ほら」




 公爵は、戸惑うソフィアの手を引き、二人で屋敷の中へ入っていった。




 ルカというのは、ソフィアの連れ子である。フレアより二つ年上で、彼女によく似た顔立ちの、内気な男の子。勿論イグニス公爵と血は繋がっていない。実の父親はもう亡くなっている。




 にも関わらず、公爵はルカのことを、まるで自分の本当の息子のように可愛がっていた。


 その溺愛ぶりは凄まじく、しょっちゅうプレゼントを贈ったり一緒に出かけたり、勉学や鍛錬に付き合ったりと、惜しみない愛情を注いでいる。




 実の娘であるフレアには、その一欠片も分けてはくれないのに。




 悔しさのあまり、噛みしめた唇がぷつっと切れて、僅かに血の味がした。フレアは屋敷には戻らず、急いでその場を走り去った。








 屋敷の傍には、大きな森がある。


 苛々しながら散策していると、荒々しい声が聞こえた。




「よーし! もう一回だもう一回!」


「その辺にしておけ、カノン。もう充分だろう」


「いいやまだまだ!」




 小川の近くに、小さな影が三つ。


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