第246話 日は沈まぬ

 エカテリニは駆け寄って膝をつき、サラナの手をつよく握った。



「そんなこと……」



 と呟いたエカテリニ。気持ちがたかぶり続きが声にならない。


 目には涙が浮かび、思うように言葉が出てこないエカテリニは、立ち上がってサラナの顔をその胸に抱きしめた。



「いいのよ……、いいの……。ありがとう……、バシリオス様を守ってくれて」



 バシリオスの伽をつとめた。


 それも何度も。


 そのことを詫びるサラナの衷心に、エカテリニは感動し打ち震えた。


 しかも、薄暗く石床の冷たい地下牢で、リーヤボルクの下卑た蛮兵の視線に晒されながらだという。


 なんとむごいことをするのか。


 なんたる仕打ち。


 人のすることとは思えぬ。


 しかし、サラナはその非道な仕打ちに耐え、女性の尊厳を踏みにじられながらも、バシリオスの命をつないでくれた。


 献身――、


 という言葉では表しきれない行いを重ね、バシリオスを回復させ、王位にまで導いてくれた。


 いまは自分の胸の中でかすかに震える、小柄で歳のわりに幼い顔立ちをした童顔の侍女。


 自らの《功》を誇るでなく、妃の地位を求めるでもなく、伽をつとめるは侍女にあらずと、


 バシリオスのもとを去った。


 なおかつ、正妃に対して申し訳ないと、自分に心からの詫びを述べる。


 聖山神話に登場するどんな女神よりも気高く神々しい。



 ――王国の侍女。



 そのを、エカテリニは初めて思い知った。


 カリュに促され、サラナの横に腰をおろすエカテリニ。


 自分と共にサラナをはさんで座る侍女カリュの姿もまた、つい先程までとはガラリと変わって見える。



「カリュ……。傷んだサラナの心を、よう支えてくれた」


「いえ……」



 ふたりは、それぞれにサラナの手をつよく握りしめている。


 うしろに控えるリアンドラが口をひらき、北離宮幽閉中のバシリオスとサラナの様子を淡々と語ってくれた。


 商人に扮し、北離宮への潜入に成功していたリアンドラ。


 サラナがいかに献身的にバシリオスを支えていたか、その姿を垣間見ていた。


 そしてサラナの口からは、リアンドラとアーロンの差し入れてくれた肉や果物に甘い菓子、それらが如何にバシリオスの身体を回復させ、心を癒やしてくれたことかと語られた。


 また、それを許したロマナ。


 ベスニク救出のために潜伏させた側近であるにも関わらず、王国の誇りのためと躊躇わずバシリオスに手を差し伸べてくれた。


 外界と隔絶されたバシリオスとサラナが、リアンドラたちの存在にどれほど勇気づけられたことか。



 すべてを聞きおえたエカテリニは、リアンドラも近くに寄せ、カリュも一緒に、サラナのことをつよく抱きしめた。


 4人の女性が、ひとかたまりとなってソファの上で震えた。



「……ようやってくれた、サラナ。……誰が褒めなくとも、私はサラナを誇りに思う」


「エカテリニ様……」


「誰に知らせることでもない。知られるべきことでもない。……だが、私がこの世の生を終え、目を閉じる最後の瞬間まで、そなたのことは忘れぬ。最後の瞬間まで感謝して過ごす」


「……も、もったいなきお言葉」



 サラナの声に嗚咽が混じる。


 エカテリニは、つよく抱く手にさらに力を込めた。



「サラナ。私に誇れ」


「……」


「生涯、私に誇れ。わが幸福は、すべてサラナの功績である。必ず誇れ。この《聖山の大地》にひとり、そなたへの感謝を忘れぬ者がおる。そのことを誇って……、生きてくれ」


「はい……」


「わが故郷チュケシエの主祭神農耕神チェルメーデに契誓する。わたしは生涯、サラナに感謝して生きようぞ」



 サラナは、ふっと肩の力がぬけるのを感じ、つよく押し当てられていたエカテリニの胸に、身体を預けた。


 ス――ッと、ひとすじの涙がながれる。


 エカテリニは、みなを抱きしめたまま動かない。



「……だから、みなで幸福にならねばならぬ。サラナも、カリュも、リアンドラも。きっと幸福にならねばならぬ」



 ヴール公宮の一室。


 4人の女性は涙が枯れるまで抱きあい、空が白んでくる頃、笑顔で別れた。



   *



 朝陽が昇り、目覚めたベスニクは、



 ――帰ってきたのだ。わがヴールに。



 と、おおきな感慨に包まれた。


 居室を飾る調度品のひとつひとつが愛おしい。陽がさしこむ窓からは、たかいヴールの空を雄大に飛ぶクロワシの影が見えた。


 ふと、自分の左手を握ったまま、ベッドに突っ伏して眠るウラニアに気がついた。


 アイカやロマナたちとの大浴場での密談を終えたあと、やはり夫のことが気になり、様子を見に来たまま眠ってしまったのだ。


 ベスニクが右手でウラニアの透き通るような銀髪をなでると、ピクリと顔をあげた。



「……お目覚めでしたか」


「うむ……」


「ふふっ。……お帰りなさいませ」


「ああ……。苦労をかけた」


「こういうときは、まず『ただいま』ですわよ?」


「そうか……。ただいま、ウラニア」


「はい。お帰りなさいませ、旦那様」


「いや……? やはり、『おはよう』ではないかな?」


「ふふっ。ほんとう! ……おはようございます、旦那様。ヴールの夜明けでございますわよ」


「ああ、おはよう。もう、日は沈まぬ」



 微笑みあう夫婦。


 朝の陽ざしが燦々とかがやき、静かな部屋のなかで抱擁を交わした。



 ヴールの味付けで朝食を済ませたベスニクの前に、ウラニア、ロマナ、セリムがそろった。


 端正な顔立ちを蒼白に、背筋を伸ばして祖父の寝台のまえに立つロマナ。


 ウラニアとセリムの表情も堅い。


 ながい不在の間に、西南伯家を襲った悲劇をベスニクに伝えなくてはならない――。

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