第237話 王国史にのこる悪女

 王都ヴィアナの第3王子宮殿――いまは皆が《摂政正妃宮殿》とよぶ、その貴賓室で、ペトラは大隊商メルヴェの使いの女と面談していた。


 ペトラは近侍の者をさがらせると、女をバルコニーに誘った。


 王都にひしめく神殿街を見下ろすペトラが、懐旧の情をおびた声音でちいさく囁いた。



「久しいの……。あのころは、まだ肌寒かった」


「はっ。踊り巫女に扮し、両内親王殿下と駆けました。得難き経験をいただきました」


「はは。それは、わたしにしても同じことよ」



 ペトラに並び王都を見下ろすのは、リティアの侍女クレイアであった。


 隊商に扮し、リティアの密使としてペトラのもとに訪れた。



「とはいえ、まだ一年と経たぬのか……」



 ペトラのまなざしは、中空に一点を見つめた。


 自分の知らぬ間にバシリオスが移送されたことに激怒したペトラ。


 帰順したアスミルとロドスが、バシリオスと結ぶことを危惧したサミュエルの差配であった。


 しかも、参朝を求めるふたりに「王国南方、アルナヴィスの動きを警戒せよ」と、ラヴナラにとどまるよう厳命した。


 事態を利用して妹ファイナを王都から逃がしたペトラであったが、無力感も募らせていた。


 そこに届いたリティア帰還の報せ――、



「……ようやく、リティア殿下に討ってもらえるのう」



 安堵のひびきがするペトラの呟きは、クレイアの耳には『リティアがリーヤボルクを討つ』と聞こえる。



「ペトラ殿下の王都脱出を援けるよう、主君リティアから申しつかっております」


「……お気持ちはありがたいが、私はここを動かぬ」


「それは……」


「リティア殿下が討つべきは私である。《聖山の民》を裏切り、リーヤボルクに加担した。父ルカスを傀儡に追いやり、摂政を僭称するサミュエルめを閨で籠絡し、王都を思うままに牛耳った。……まこと、王国史にのこる悪女である」



 間諜を警戒しささやくような声で淡々と語るペトラ。


 その表情に浮かんだ微笑みに、クレイアは返す言葉を失った。


 王都で孤塁を守り続ける、可憐で優美な姉内親王。そのふかい覚悟に胸を打たれる。しかも、みずからが悪名を引き受けることで、父ルカスの名誉さえギリギリのところで保とうとしていた。



「……わが主君リティアは、そのようなペトラ殿下を討つことはできないでしょう」


「それは困ったのう……。いいかげん、サミュエルの閨をつとめるのも苦痛になってきた。はよう終わらせてほしいのだが」


「お言葉、しかと主君に伝えます」


「頼んだぞ。リティア殿下に討たれる日をペトラは楽しみに待っておると、くれぐれも伝えてくれ」


「いえ……。わが主君はペトラ様の想いも満たし、おのが想いも叶える、天衣無縫の奇策をきっとひねり出されます」


「ははっ。踊り巫女に扮したようにか? あれをもう一度着せられては、さすがに恥じらう乙女に戻ってしまいそうなのだが?」


「それ以上にアッと言わせていただけるものと信じております」


「……そうであるか。それはそれで楽しみじゃのう……」



 ペトラは空を見上げ、まぶしそうに目をほそめた。



「すでに夢も希望もついえた身……。なにも期待はせぬが、久しぶりに胸が躍った。礼を言う」


「はっ」


「リティア殿下にはよしなに伝えてくれ」



 と、ペトラは身を翻し宮殿の奥へと姿を隠した。


 その背中に、打ち震えるほどの妖艶さを見たクレイアは、ふかく頭をさげた。



  *



 サーバヌ騎士団を率いラブナラから出兵したアスミル。


 息子ロドスが懸念するほどに上機嫌であった。


 齢50をこえる父が、馬上で子供のようにはしゃいでいる。



「見よロドス! われらの前途を祝福するように、よい天気ではないか! ルカス陛下も逆賊リティアめを討てば我らのことをお認めになろう!」


「はあ……」


「ん~? なんだ、暗い顔をして。まさかリティアごときが砂漠で掻き集めた烏合の衆に、我らのサーバヌ騎士団が敗れるとでも思っているのではあるまいな!?」


「……そうではありませぬが」



 カリストスの策謀めいたやり方にも付いていけなくなったが、父アスミルの能天気さにも危うさを覚える。


 その、ロドスからみて祖父のカリストス、また息子のアメルは依然として行方不明であった。


 妃のアリダも自分のもとを去った。


 感情の起伏には乏しいが、ともに家庭を築いた愛妃であった。



「妃のことを案じておるのじゃな?」


「……いえ、まあ」



 ロドスは眉をしかめた。


 こんなところだけカリストス譲りの察しの良さを発揮する父も疎ましい。



「叛太子バシリオスの娘のことなど忘れよ。お前はまだ若い。33? 34であろう? 妃は新しくとればよい。狂親王とまで悪評のたつアメルのことも忘れて、子もあらたに儲ければよい。そうじゃ! ルカス陛下の下の娘、ファイナ殿下が敗残の万騎兵長に嫁いでおると聞くが、あれを離縁させて妃にもらえ!」


「いや、そのような勝手なことを」


「勝手なことがあるか。我らはテノリア王家の者ぞ? お前の妃にもらってやれば、陛下もお喜びになろう。おお、そうじゃ、そうじゃ! きっと、そうに違いない」


「ははっ……」



 勝手なのは自分に対してであると、父に指摘する気力さえなくして黙り込むロドス。


 アスミルは《王国の黄金の支柱》とも呼ばれた父カリストスの圧倒的な才覚に抑圧されて育った。その重石がとれて浮かれる気持ちは、ロドスにも理解できない訳ではなかった。


 しかし、リティアもまた亡き偉大な国王に最も気性が似ていると評された《ファウロスの娘》である。


 プシャン砂漠に退いたかと思えば、3万人もの募兵を成功させ《聖山の大地》に帰還した。


 侮ってよい相手とは到底思えない。


 もし自分たちが反逆するのが遅れ、いまだカリストスが健在であれば、リティアと連携して王都に攻め上ったとも考えられる。


 舞い上がったまま嬉々として馬をすすめる父を尻目に、ロドスの表情から翳が去ることはなかった。



  *



 その頃、アイカはベスニクを乗せた馬車を護りながら、ゆるゆると南下していた。


 目には新緑がまぶしく、ときには狼の背をおりて歩いた。


 まだ万全とはいえないベスニクの体調を考慮し、極力馬車の揺れが抑えられる平坦な道を選んで進む。


 開け放たれたままの馬車の窓からは、ガラの弟レオンの声が聞こえる。



「王様は~、食べものは何が好き?」


「ふふっ。レオン、何度も言っておるがわたしは王ではない」


「ええ~? でも、ベスニク様、王様みたいだよ?」


「そうか、……褒め言葉として受け取らせてもらうかな」


「うん! でぇ~、好きな食べ物はなに?」


「そうだな。オリーブのピクルスが好きだな。あれが一粒あれば、幸せな気持ちになれる」


「へぇ~!? 王様なのにふつうの物が好きなんだね!!」


「ははは。食べ物は身分を選ばぬよ」


「ふ~ん!」



 廃太子アレクセイや国王侍女ロザリーと旅したレオンは相手の身分に物怖じしない子どもに育っていた。


 ロマナの近衛兵アーロンと、西南伯軍のチーナは、その様子を微笑ましく見守る。


 馬車の窓を開け放っているのは暑さのためだけではない。ながく幽閉されたベスニクは密閉空間に拒否反応を示すようになっていた。


 その傷んだ精神を癒すのに、レオンの無邪気さが役に立つのではないかと考え、好ましく思っていた。


 ときには皆でリュシアンの歌声に耳を傾ける。


 王国でも比類なき吟遊詩人の奏でる調べは、みなの心を魅了した。



「……わたしは世にも情けない方伯として名を残そうな」



 と、自嘲するベスニクにも、リュシアンはいつもの飄々とした笑みで応える。



「いえいえ、ながく囚われながら鋼の意思を貫いた、不屈の西南伯と謡われることでしょう」


「ふふっ。だと良いがな」


「すべては、この後の事績が決めることにございます」


「言うではないか。吟遊詩人殿はこの病躯を押してまだ働かせようと言うのだな?」


「いまにご回復なさいますよ。健常な身体を取り戻されても、そのような枯れた心境のままでいられる西南伯閣下ではございますまい?」


「そうかもしれぬな……」



 と苦笑で取り繕ったベスニクであったが、心身の回復にあわせて、身体の奥底から煮えたぎるような復讐心が湧き上がってくるのも感じていた。


 しかし、その後背から新たな敵――ペノリクウス軍が忍び寄っていることに、ベスニクもアイカもまだ気が付いていない――。

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