第224話 計り知れない懐
ノルベリの瞳に、曇りも濁りもない。
まっすぐにバシリオスを見つめた。
「我らが主君と仰ぐは、バシリオス殿下をおいて他にございません。どうぞ、殿下の私兵とお思いになられ、なんなりとお命じくださいませ」
「分かった。……大儀である」
「ははっ! ありがたき幸せ!」
「私は状況が分からぬ。差し当たってとるべき道を献策せよ」
「はっ! 万一、敵襲あればこの小さな砦では支えきれません。ただちにハラエラにお移りください。万全の布陣を敷き、お迎えする準備を整えております。また、ベスニク様を搬送できる荷馬車も用意しております」
「よし。ただちにハラエラに移る」
慌ただしくサグアの砦をあとにし、みなで駆ける。
ファウロスがバシリオスを追放しようとしたハラエラ。しかし、バシリオス自身が足を踏み入れるのは初めてである。
去来する様々な情念を振り払うかのように、馬の手綱をかたく握りしめた。
敵襲を避けるため最速で移動する。
夜を徹して駆けつづけ、到着したときには朝陽に照らされていた。
しかし、アイカはすぐ側に近寄るまで、そこに8000人もの兵士がいることに気がつかなかった。どこまでも草原が続いているかのように、見事に迷彩されている。
ノルベリの《くせもの》ぶりが、いかんなく発揮されていた。
ナーシャとカリトンはバシリオスのもとに行き、案内された天幕ではオレグとふたりになった。
そこで軽く仮眠をとる。
バシリオス救出から、ベスニク救出、そしてハラエラへの強行軍と一睡もしていなかった。
――ナーシャさん……、バシリオスさんに会えて良かったな……。アーロンさんもベスニクさんを救けられて、なによりでした……。私もニーナさんを救けられそうな気がしてきました……。
と、幸せな気持ちで眠りに落ちたアイカが目覚めたのは、昼過ぎのことであった。
となりでオレグはまだ泥のように眠っている。初めての本格的な戦闘に参加したこともあって、身体の芯から疲れているのだろうと、アイカは、
――しっかし、眠っているお顔も美形ですねぇ~。
と、起き抜けから全開に愛でた。
バサッと天幕の入口がめくられる音に、あわてて居ずまいを正したアイカ。見ると、ノルベリが膝を突いている。
「おはようございます、アイカ殿下」
「あ……、おはようございます」
愛でているところを見られたかな? と、顔色をうかがう。
しかし、ノルベリは頭を垂れたまま動かない。
「昨夜はアイカ殿下が、リティア殿下と
「いやいや……、充分でしたよぉ?」
「気付いたときには既にお休みで、お起こしするのも申し訳なく、お詫びするのが遅くなりました」
「え……、あっ!」
と、オレグがまだ寝ていることを思い出したアイカは、ノルベリを促してそっと天幕から出た。
そして、バシリオスの天幕に案内されると、となりにベスニクも座っていた。
アーロンとリアンドラが両脇からそっと支えて座るベスニクは、やはり痩せ衰えており目にするだけでも痛々しい。
かつて総候参朝の際、王都のヴール神殿での宴に、リティアと一緒に招いてくれた。
妃のウラニアは《ロリババアの実在限界》で、孫娘ロマナの《お姫様スマイル外面バージョン》は美しく可憐だった。
そこに並んでいたベスニクの威厳に満ちた堂々たる姿が、いまや鋭い眼光にしか残っていない。
まずはベスニクが口を開いた。
「かいつまんで状況の報告は受けました。このたび、アイカ殿下にご助力いただいたことに報いさせていただきたい」
「い、いやそんな……、気にしないでくださいよぉ……」
「ここにおりますアーロンとリアンドラ。リアンドラは私の無事を報せるため急ぎヴールに走ります」
「あっ! ロマナさん、すごく喜ばれると思います!」
「ええ……。そこで、残るアーロンをアイカ殿下にお預けしたい」
「ええっ!?」
「聞けば《草原の民》に助力して、リーヤボルク本軍に挑まれるとか。アーロンもヴールが誇る剛の者。ぜひ、お連れ下さいませ」
アイカが目を向けると、アーロンが力強くうなずいた。
「アイカ殿下には、いつぞやのタルタミアでもお世話になり申した。微力ながら加勢させてくださいませ」
見ればベスニクはアーロンに支えられてかろうじて座っている。
好意を受け取っていいものか迷っていると、ナーシャがそっと横に腰をおろした。
「お受けなされ。ベスニク公にしてもアーロンにしても、リーヤボルクに一矢報いられる機会に、なにもせずにはおられぬのです」
「わ、分かりました! ほんとは、すっごく嬉しいです! 助かります! アーロンさん、よろしくお願いします!」
「ははっ!」
つづいて、バシリオスが口をひらく。
「私はノルベリがまとめてくれていた兵を出そう」
「ええっ!! ほんとですか!?」
「スパラ平原ではリーヤボルクにいいようにやられた。憂さをためこんでいる者ばかりだ。必要なときに呼んでくれ」
「分かりました――っ!!」
「それから……」
と、バシリオスが目くばせすると、アイカの横にカリトンとサラナが膝をついた。
「このカリトンとサラナ。どうかアイカの直臣に加えてほしい」
「はっ……?」
「アーロンはロマナ殿の近衛兵であるから、ベスニク殿といえども勝手に贈るわけにはいかぬので《貸出》ということになるが、カリトンとサラナは私の直臣。ふたりも納得の上のことだ。邪魔でないなら臣下の端に加えてやってほしい」
「じゃ、邪魔だなんて……」
カリトンとは長い付き合いだ。本人が納得しているのなら断る理由がない。
赤縁眼鏡の侍女長サラナとは、ロザリー、カリュと一緒にテーブルマナーを教えてもらった縁がある。しかし、関係性といえばほかにない。
ナーシャがアイカの耳元に口を寄せた。
「……大人の事情じゃ」
「え?」
「イヤでないなら、受け入れてあげてくだされ」
「あ――、分かりました! ありがとうございます!」
「光栄に存じます」
と、カリトンとサラナが頭をさげた。
うしろに控えていたロザリーが、口をひらいた。
「バシリオス殿下のお側には、とりあえず私が仕えます」
「……あれ? レオン君は……?」
「それは、私が送らせていただく。聞けばロマナの侍女になった者の弟であるという。いずれ、ヴールから迎えが参ろう。その際に一緒に連れ行きます」
と、ベスニクが言った。
すでに座っているのが苦しそうである。
アイカが二カッと笑顔をつくった。
「じゃあ、一緒に行きましょう!」
「……ん?」
「私、こっちで《用事》を済ませたら、ベスニクさんも送って行きますよ! ヴールにも行ってみたかったし、
「アルナ……」
と、ベスニクは絶句した。
アルナヴィスは気軽に《遊びに行く》ような地ではない。それに加えて、リーヤボルク本軍との戦闘を《用事》の一言で済ませたことに呆気にとられていた。
バシリオスが、ふふっと笑った。
桃色髪の少女に気宇壮大さを埋め込んだのはリティアの仕業か、それとも、単に能天気なだけなのか。計り知れない懐を持った
「それではアイカの《用事》がはやく終わるよう、せいぜい私も働かせてもらうことにしよう」
悪戯っぽく笑ったバシリオスに、ベスニクもつられて笑った。
「リアンドラ。私はアイカ殿下がお送りくださるそうだ。殿下の《用事》が終わるのと、ロマナの出迎えと、どちらがはやいかな?」
「それでは私は主君ロマナ様近衛兵の面目にかけ、全速力でヴールに報せに走りましょう」
「はっは! なんだ、私が留守にしておる間にも《聖山の大地》は面白いことになっておるではないか!」
痛快そうに笑うベスニクに、その場に集った者たちは少なからず安堵を覚えた。
気持ちが前向きになれば、衰えた身体の回復もはやいだろう。
そして、アイカは《草原の民》たちが待つコノクリアへと帰路を急ぐ――。
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