第196話 今晩はご馳走

 早朝。山むこうに隠れた朝陽の白ませる空が、目覚める前のバルドル城を、ほの明るく照らし出している。


 眠たい目をこするメイドたちが洗顔に向かっている頃、回廊にならぶ、ふたつの人影があった。


 視線の先には、板塀でかこわれた離れと小さな井戸がある。



「あれが、イエリナ姫です」



 と、井戸の水で水垢離をする少女を指差したのはカリュであった。



「ほう……」



 ジョルジュが、モシャモシャの顎ひげをなでた。


 ふたりは尾根から姿を見せる朝陽に顔を向けた。盆地にのびていく山岳の影が鮮やかで、玄妙な景色をおりなす。


 平野にそだったふたりには珍しい風景に目を奪われている――、ような風情で空を見つめ続ける。


 通りかかったメイドたちも、微笑ましげに頭を下げて過ぎてゆく。


 ジョルジュが表情を崩さずにささやいた。



「……アイカ殿下とは似ても似つかぬが」


「外界との接触を好まない《山々の民》のことは、あまり知られておりません」


「ふむ……」


「私どもでは理解できませんが《精霊のいとし子》と呼ばれる王家の子女は、皆、生まれたときは銀髪なのだとか」


「ほう」


「成長するに従い、精霊から受ける恩寵によって髪色が変化する……」


「なるほど、それは理解できぬ」



 視界のはしに認める少女の髪色は、すこしくすんだ緑色をしている。



「6歳で行方不明となったイエリナ姫の現在の姿かたちを、しかと定めるものは何もない……と、いうわけです」



 カリュが空を横切る大きな鳥を指差した。


 あくまでも景色に見惚れているを崩さないカリュにあわせて、ジョルジュもほそめた目で鳥を追う。


 鳥の名を問うような調子で、カリュが話を続けた。



「すでに、豪族のうち数名には、あの娘をイエリナ姫として会わせておるようです。……先ごろ寝返った《ヴィツェ》を治める豪族にも」


「……それは、慌てたことでしょうな」


「はい。……本当に王家の血をひいているのか、いずれ精霊による《審判》を受けなくてはならない。しかし、その前に豪族からの支持を集め、既成事実化しておくつもりだったようで」


「あの娘自身は、どう思っておいでで?」


孤児みなしごのようで、半信半疑といったところ」


「なるほど……。で、わしに発揮してほしい《賊の本分》とは……?」



 カリュは、景色に満足したような表情で、ジョルジュに顔を向けた。



「もちろん、あの娘を勾引かどわかしていただきます」


「でしょうな」



 苦笑いを浮かべた老盗賊は、水垢離を終えて建屋にもどる少女を見下ろした。



「自分では義賊のつもりであったのだが」


「あら」



 カリュが、あまり見せない可愛らしい笑顔を浮かべた。



「うす汚れた陰謀から少女を救い出すのは、義賊の行いではありません?」


「ふふ。もっともですな」



 いつもの豪快な笑いをこらえるように、ジョルジュはチラリと、カリュに視線をやった。



  *



 カリュとジョルジュが部屋にもどってすぐ、家老のパイドルが訪ねてきた。


 代表してカリトンが応対しようとしたが、パイドルはカリュの前に腰を降ろした。



 ――それなりに見る目はあるか。



 オドオドとした表情を浮かべたカリュが、姿勢をただした。


 この奇妙な一団を主導するのが侍女であるカリュだと見抜いていたパイドルは、さすが西候の謀臣であった。



「聖塔にて祈りを捧げられるイエリナ姫には、まもなく精霊からの許しが降りましょう」



 神妙な表情をしたパイドルは、いきなり本題を切りだした。


 カリュは小刻みにうなずいて見せる。ゆさゆさと揺れる胸に、パイドルの視線が自然と下がる。



「テノリア王国臣下の皆様には、まずは王太后カタリナ陛下にお報せ願いたい」


「……と、仰られますと?」


「いずれイエリナ姫ご即位の暁には、あらためてご挨拶の使者を送らせていただくことになりましょうが、まずは無事に送り届けていただきましたことを、復命いただきたく」


「たしかに陛下もご心配でおられましょう」


「そのことでございます」



 パイドルはグッと身を乗り出し、カリュは深くうなずいた。



「お心づかい、陛下もお喜びくださいましょう」


「いえ、こちらこそ、遠くテノリアより心を砕いていただいておったこと、我が主セルジュも感激しております」


「……差し出がましいことながら」


「なんでございましょうか?」


「ザノクリフ王家に正統がもどるにあたり、テノリア王家の配慮があったと表沙汰となっては、障りがあるのではないかと……、カタリナ陛下も憂慮されております」


「なんと……、そこまで……」


「西候セルジュ公におかれましても、お立場がございましょう。……我らは夜陰にまぎれて立ち去ることにいたします」


「なんと深いお気遣い……、我が主にかわって感謝申し上げまする」



 パイドルは深々と頭を下げた。


 カリュは晴れ渡るような笑顔を浮かべ、おおきな胸の前で手をうった。



「ああっ! 我らも役目を果たせて、感無量にございます」


「……大役、ご苦労にございました。これにて両国の絆はよりいっそう深まりましょう」


「されど、ひとつだけお願いが……」


「なんなりと」



 セルジュとパイドルが、即座にアイカに手をくだせなかった《迷い》の正体。そのひとつがテノリア王国からの介入を恐れてのことであると、カリュはすでに確信していた。


 カタリナが認めるイエリナ姫――アイカを無下にすれば、両国の関係は悪化する。


 混乱しているテノリア王国ではあるが、旧都の祭礼騎士団がバルドルに向かわないとも限らない。


 そのため、カリュたちをバルドル城内で自由にさせていた。


 後ろめたいことなど、なにもないかのように振る舞っていたが、その企みはカリュの手によってすべて丸裸にされている。



「あつかましいお願いですが……」



 と、カリュは上目遣いにパイドルを見上げた。



「この度はカタリナ陛下の命によって貴国の地を踏めた我らですが、おそらく二度はございませんでしょう。特にこちらのジョルジュなどは、老い先みじかい身……」



 カリュが視線をおくったジョルジュが、頭をかいた。



「せっかくの機会ですので、あと数日ばかり、ザノクリフの美しい景色と、美味しい食事を楽しませていただきたく存じます」


「それは……、むしろありがたい申し出……。ぜひカタリナ陛下への土産話をお持ち帰りくださいませ」



 ここ数日、物見遊山の雰囲気でくつろぐ一行を目にしてきたパイドルは、安堵したような笑顔を見せた。



 ――かつて、女候オリガはヴィアナ騎士団を率いてザノクリフ王国を訪れた。


 反発した一部の豪族と武力衝突が起きたが、完膚なきまでに叩き潰した。


 ザノクリフ王は、ファウロスの父であり当時テノリクア候であったスタヴロスの王位登極に、賛意を与えざる得なくなった。


 オリガはその証しとして、息子スタヴロスの妃とすべく、若きカタリナ姫を強奪するように連れ去った――。



 これが、ザノクリフ側から見た、テノリア王国建国の経緯である。


 テノリア王国が《聖山の大地》にしか興味を示さないように、ザノクリフ王国も山々に籠るが、潜在的な恐怖を植付けられる出来事であった。


 西侯セルジュを王位に就けたい家老パイドルとしては、すくなくとも統一前の武力介入は防ぎたい。


 旅行気分で異国を楽しんでいるカリュたちの砕けた風情は、なんの疑いも抱かせていないと、パイドルをほくそ笑ませた。


 カリュたちをテノリアに返してしまえば、あとは替え玉に入れ替えてもバレる心配はない。


 丁重に頭をさげたパイドルは、満足気な表情で立ち去った。



  *



 顔をそむけていたチーナが、カリュに向き直った。


 あきらかに不満そうで、眉を寄せている。



「ほんとうに、アイカ殿下を置いていかれるおつもりか?」


「まさか」



 カリュは、大きな窓辺から外を見下ろした。


 バルドル城の端に位置する部屋からは、城外をも見下ろせる。飛び降りられる高さではなかったが、脱出したいのならどうぞご自由にと言わんばかりである。


 視線の先に、こちらをうかがう黒衣の男が見えた。


 しげみに身をかくしながら、様子をうかがっている。


 カリュは、まだ不満げな表情のチーナを手招きしてそばに呼んだ。耳元で二、三言ささやくと、チーナは矢じりを外した矢を、黒衣の男の足もとに射込んだ。


 その矢を抜いた男は、カリュとチーナを睨みつけ、姿を消した。


 ジョルジュが、のん気な声で言った。



「さて、あと数日。なにをして楽しみますかな」


「名残惜しいかぎりですが、今晩、おいとますると致しましょう」



 カリュが、伏し目がちに応えた。



「きっと、今晩はご馳走をだしてくださいますわよ」

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