第九章 山湫哀華
第190話 いまだ愛でる対象
カリュが、テーブルに地図を広げた。
山岳地帯に広がるザノクリフ王国の複雑な地形。地名には「○」や「□」の印が書き込まれている。しかも、何度か書き直した跡があってとても見づらい。
アイカの眉間に皺が寄った。
交易の中継都市タルタミアに到着したアイカたち一行は、町外れの宿屋にいる。
カリュが地図の説明を始めた。
アイラを伴い4日ほどかけて市中で収集した、ザノクリフ王国の情報だ。
「聞き取ったままを見ていただいた方が、実情がよく伝わるかと思い、敢えてそのままお持ちしました」
地図に書き込まれた「○」は東候陣営、「□」は西候陣営をあらわす。
ただ、「○」も「□」も連続していない。混戦のオセロの盤面のように、街単位で互いに入り交じっている。見たところ、両陣営の《境い目》というものが分からない。
「その上に、頻繁に寝返りが起きているようで、聞く者によって言うことが異なるのです」
「……寝返り」
アイカが地図から目を上げると、カリュは苦笑いしている。
「可能な限り最新の状況を書き込んだつもりですが、今日どうなっているかは行ってみないと分からない……といった状況のようです」
「そんなに……」
「ただ……、ここ《ラドラム》の地に東候エドゥアルド公の居城があり、こちら《バルドル》には西候セルジュ公の居城があります。常に互いの陣営に対する調略が行われていますが、その中心はこのふたつの街になります」
王妃アナスタシア――女官ナーシャが、顔をしかめて首を横にふった。
「どこも大変ね……」
皆も神妙な顔付きでうなずいた。
旧都を出た直後、王妃を女官としてあつかうことに慣れなかった一行だったが、アイカの、
「いちばんお姉さんなんだから、敬語でよくないですか?」
という言葉で『最年長として、敬意を払う』という形に落ち着いた。
ちなみに、ナーシャは「こんな、おばあちゃんに、お姉さんだなんて!」と、とても喜んだ。
皆、実年齢は知っていた。
実際、ペトラ、ファイナ、アメルという孫もいる。だが《ロリババアの実在限界》におばあちゃんと思う者はいなかった。
カリュの人差し指が「○」印のついた、ひとつの街をさした。
「この《ホヴィスカ》という街が、クリストフ殿の治めている街のようです」
「むうっ……」
クリストフの名前に、たちまちアイカの口がニュウっと、突き出る。
タルタミアに着いてみれば、ここで待ち合わせと言った当の本人が見当たらなかったのだ。街じゅうで聞いて回ったが行方を知る者もいなかった。
その上、狼のタロウとジロウをいっしょに泊めてくれる宿屋も見つからない。
町外れの古ぼけた宿に頼み込んで、ようやく部屋を確保できたが、あやうく野宿が続くところであった。
カリュの白くてほそい指が、街道沿いにすこし北東に滑った。
「クリストフ殿の領地に隣り合う、こちらの《ヴィツェ》という大領が、西候陣営に寝返ったらしいのです。恐らくは、そのために急遽、領地に戻られたものと推察されます」
「むう……」
戦争中であることを思えば、やむを得ないのかもしれない。
しかし、もともとクリストフの印象はわるい。すっぽかされたことに、アイカはいまいち納得がいかない。
地図を睨んで「○」印と「□」印をひとつひとつ目で追う。
どの街も互いに敵が囲んでいる。
――親兄弟、親類縁者入り乱れて殺し合った……。
クリストフのしんみりとした声が蘇る。
あれほど和平を望んでいたクリストフだ。それでも慌てて戻らなくてはならないほどの緊急事態だった……。と、察するべきなのだろうと、アイカは口をヘの字に曲げた。
「やっぱり、戦争はいけませんね……」
主君のつぶやきに、皆が、首をちいさく縦に何度もふった。
*
クリストフから迎えがくるかもしれないと、アイカはしばらく待ってみることにした。
カリュとアイラは、引き続き市中に出て情報収集にあたる。
夕暮れ時、帰ってくる2人を、宿の窓からアイカがみると、アイラがずっとカリュに質問していた。先輩侍女から学ぶことが多いのだろう。
カリュをみる目にも尊敬の念が色濃く映るようになっていた。
――楽しそうで良かった。
と、アイカの口の端がニマリと上がる。
ただ、アイラの努力が自分への《忠誠》のためと思うと、途端に自分が主君たり得ているのか不安になる。それでも、充実してみえるアイラを眺めるのは嬉しい。
アイカにとって、いまだアイラも愛でる対象である。
夕陽に映える巨乳師弟。存分に堪能した。
ある日、宿の裏でカリトンとジョルジュが剣の手合せを行った。
カリトンの剣さばきは流麗であった。
剣術にはうといアイカをしても目を見張る。体捌きは舞い踊るかのようで、地面に足跡がのこらない。空気を切り裂く刀身の音が、まるで春風のようにさわやかに響く。
一緒に見物していたナーシャが、満足気に言った。
「ヴィアナ騎士団で千騎兵長をつとめるだけのことはあります」
一方、ジョルジュの剣は目を疑うほどに荒々しい。
ほとんど体当たりするように突進して斬りかかる。カリトンは軽々とよけるが、ジョルジュの振り下ろした剣は地面にめりこんでいる。
あまりに対照的な2人の剣術に、ネビも興味深そうに見入っていた。
一汗かいたジョルジュが剣を地面に突き刺し、モジャモジャの髭をしぼった。
「いや、あまりに見事。このように美しい剣技を拝見できるとは、長生きはしてみるものですな。いや、感服いたした」
「ジョルジュ殿こそ、実戦で鍛えられた豪剣。勉強させていただきました」
というカリトンは、汗ひとつかいていない。
――ふぉぉぉぉぉぉ! 美形はこうですよね!? 美形はこうでないといけませんよね!?
と、アイカの心の雄叫びが、久しぶりに男子に向けられたとき、宿にもどってくるチーナの姿が見えた。
ロマナへの土産話にと市中見物がてら、カリュたちと一緒に出かけていたはずである。それが、ひとりで戻ってきた。
ただ、うしろに筋骨隆々の男をしたがえていた。
チーナは周囲に人がいないか窺ってから、男とともにナーシャに片膝を突いた。
「いまだけ、アナスタシア陛下とお呼びすることをお許しください」
「…………いかがした?」
「こちらに控えておりますのは、西南伯公女ロマナ様の近衛兵アーロンと申す者にございます。我らが大君、西南伯ベスニク閣下救出の密命を帯び《聖山の大地》を駆けております」
「……左様か。大役、ご苦労であるの」
「はは――っ!」
と、アーロンは平伏した。
本来、王妃アナスタシアは、陪臣にあたるアーロンが直接声をかけてもらえるような存在ではない。身に余る光栄とは、このことであった。
アーロンは《大渋滞》でチーナと再会したのち、クリストフに連れられてタルタミアに向かった。ベスニクの気配はなかったが、念のため、丹念に情報をあつめていたところ、チーナとふたたびの再会となった。
チーナもアナスタシアに深く頭をさげる。
「我が同輩とはいえ、陛下がこちらにおわすことを打ち明けましたのには訳がございます」
「チーナよ。私はすでにそなたを友と思うておる。そう畏まられては少し寂しいほどじゃ」
「もったいなき、お言葉……」
「遠慮せず申してみよ」
「はっ。……このアーロン。いまはタルタミアを探索しておりますが、おもに王都に潜伏しております」
「……うむ」
「バシリオス殿下の所在をつかんでおるそうにございます」
「なんと…………」
アナスタシアは両手で口を覆い、目を大きく見開いた。
――所在。
その言葉は、バシリオスの生存を意味すると思われた。
消息不明だった長男。
チーナが続けた。
「バシリオス殿下のご様子は、陛下に直接伝えさせるべきと考え、お許しも受けずに急ぎ連れまいった次第にございます」
「…………あ、ありがとう」
アナスタシアが、しぼり出すような声で言った――。
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