第187話 記録更新
王妃アナスタシアは女官の旅支度のような服装に身を包んでいる。
皆、どうしていいか分からず、とりあえずベンチに座らせた。
前に控えようとしたアイカを、アナスタシアが隣に座らせた。強い想いを抱えていることは分かったが、取り乱している訳ではなかった。
「……もう、頭がおかしくなりそうなのよ」
アナスタシアが、ポツリと言った。
アイカは黙ってうなずく。
「……ルカスもバシリオスも王都にいるのに、ステファノス殿下にもカタリナ陛下にも行くのを止められて。……娘のソフィアからも行ったらダメって手紙が届いたわ。もちろん、私だって解ってる。いま行っても、リーヤボルクにいいように使われるだけだって……」
「……はい」
「でも……、孫のペトラは王都で踏ん張ってるし……、たぶん、誰もやりたくないことを、やってくれてる。なのに……、私に出来ることは何もなくて……。今は、我慢の時だ。時期が来るのを待つ時だって解ってる。……解ってるんだけど」
バシリオスはルカスの戴冠式で姿を見せて以来、消息が途絶えた。そのルカスも大神殿で喪に服しているという建前で、享楽にふけっているという噂が流れている。
アナスタシアから見れば、愛する息子が2人ともリーヤボルクの掌中で危うい立場にある。
頼みとしたい娘ソフィアは、遠くヴールの地で公女ロマナを支えている。もちろん、アナスタシアとしても、バシリオスとルカスの引き起こした事態で、西南伯ベスニク公を虜囚の憂き目に遭わせていることは申し訳なくて仕方がない。
ソフィアにはロマナに寄り添ってあげてほしいと思う。
だけど、アナスタシア自身は孤独であった。
しかも、旧宰相家の出身であるアナスタシアには、旧貴族家から《復権の好機》とばかりに無理な要求が次々に届けられる。
すべてステファノスが却下するだけのことであるが、板挟みになり続けることで神経を削られる。
「……だから、アイカちゃん。……連れてってよ」
寂しげな笑顔を浮かべた美貌の王妃からの懇願は、アイカの心をぶち抜いた。
思わず「はい」と即答しそうになったが、グッと飲み込んでカリュ、そしてアイラの顔を見た。
カリュは思案顔をしていたが、アイラの表情は完全に固まっていた。侍女としてのキャリアの差は歴然であった。
アイラの困惑を見てとったカリュが、そっとアイカに近寄った。
「アイカ殿下の御心のままに……」
「えっ? ……いいんですか?」
「はい。……ネビ殿、ジョルジュ殿、チーナ殿。剛の者がそろっております。アイカ殿下ご自身の弓の腕前を考えましても、王妃陛下をお連れして、護りに問題はないかと」
ヒソヒソと話すアイカとカリュであったが、距離の近いアナスタシアの耳にも入る。
「わ、私もね! 臣下の娘だったから、ひと通りの武芸は身に付けてるのよ? 聖山戦争世代だしね! もう68歳になっちゃったけど自分の身くらいは守れるから! ね!? ね!?」
――そ、そんな歳だったか……。
と、皆が思ったが、83歳の廃太子アレクセイがロザリー、ピュリサスとともにレオンを連れた徒歩で、フェトクリシスから旅してきたことを思い起こし、深刻には考えないことにした。
アイカは眼前に控えるカリトンに目を向けた。
「カリトンさん……」
「……はっ」
「王妃陛下のお願いを叶えてあげたいんですけど……、護衛をお願いできませんか?」
「えっ……?」
「私たち、これからザノクリフ王国に行く……」
と、言いかけたアイカは少し考えて、カリトンを近くに手招きした。
それから、アナスタシアにも顔を寄せるように言った。
「笑える話をするんですけどぉ……」
アイカが声を潜めたので、アナスタシアもカリトンも耳を寄せた。
「私……、ザノクリフ王国の、行方不明だったお姫様なんですって」
「え……?」
「ね? 笑えるでしょう? お伽噺みたいな話じゃありません?」
「……ほんとなの?」
アナスタシアがチワワのような可愛い目を、大きく見開いた。
「それがぁ……、ホントらしいんです。カタリナ陛下にも認められちゃってぇ……、こりゃ、私も覚悟決めるしかないなって思って」
「う、うん……」
「とりあえず、テノリア王国の喧嘩は放っておいて、ザノクリフ王国の喧嘩の仲裁に行くんですぅ」
「……ははっ」
カリトンが初めて笑顔を見せた。
「アイカ殿……、アイカ殿下にはいつも驚かされてばかりだ……」
「で……、そんな喧嘩してるところに乗り込まなくちゃいけなくて。……カリトンさんも一緒に来てくれたら心強いなぁって」
「私、行く!」
と、即答したのはアナスタシアだった。
「もう、息子たちの喧嘩を仲裁したくてもしたくても、なんにも出来なくて、……しがらみのないよそ様の喧嘩なら仲裁し放題だわ!」
カリトンが、プッと笑った。
「……分かりました。王妃陛下。私を護衛としてお連れいただけますか?」
アナスタシアの護衛は、アイカが提案した『建前』だったが、カリトンは生真面目に受け止めていた。
「ありがとう。……でも、王妃として旅に出たら問題になるから、アイカちゃんの女官にしてもらおうと思ってるの」
「は?」
今度はアイカが動揺した。
「ナーシャって呼んでね」
と、上目遣いに見てくるアナスタシアは、抜群に可愛かった。カリュの方を見ることなく「はいっ!」と、即答してしまうほどに。
その返事を聞くや、ガバッとアナスタシアが勢いよく立ち上がった。
「さっ! そうと決まったら、さっさと出発しましょう! ……出発いたしましょう、アイカ殿下」
「あ……」
「……私、女官だから。
小さく舌を出したアナスタシアは、自分の頭をコツンと叩いた。
アイカの中で《ロリババアの実在限界》が大幅に引き上げられた。異世界記録、更新である。
公宮の自室に置手紙を残しただけのアナスタシア。捜索が始まる前に、アイカたち一行は慌ただしく出発した。ただ一応、ステファノスへの手紙を門番に託してある。
――アナスタシア陛下は必ず御護りします。
アナスタシア――ナーシャとカリトンを加え、8人と2頭になったアイカたち一行は一路、クリストフと待ち合わせた交易の中継都市タルタミアを目指す。
*
その頃、王都の政庁では、微笑を浮かべた摂政正妃ペトラと西域の大隊商マエルが向き合っていた。
摂政サミュエルを挟んで水面下の主導権争いを演じてきた2人であったが、直接の対面はこれが初めてであった。
表情から緊張を隠せない近侍の者たちを下がらせたペトラは、マエルに茶を勧めた。
「いつも、夫サミュエルが世話になっておるとか。私からも礼を申します」
「なんのなんの。大したことはしておりませぬ」
穏やかなやり取りの中にも、互いに揚げ足を取られまいという緊張の糸がピンッと張っている。
「それで、大隊商殿。私を指名しての、わざわざのお越し。何用でしょうか?」
「ふふっ……、ささやかなことで申し訳ないのですが……」
マエルは静かにティーカップを置いた――。
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