第36話 女の勘
「絶対に、あの女狐の差し金です!」
ペトラ姉内親王は、父である第3王子ルカスに激しく詰め寄っていた。
南宮9階に位置するルカス宮殿の一室に差し込んでいた夕陽は、既に落ちた。
「王太子殿下の御役目を解くなど、狡猾なあの女の考えそうなことです」
妹である内親王ファイナも憂いを隠さない表情で、姉に寄り添い父に向き合っている。
自分に食って掛かる美しい娘たちの扱いに困ったルカスは、焦茶色をした豊かな顎鬚を撫でてばかりいる。
ルカスは立派な体格をした者が多い男性王族の中でも、一際大きく見事な体躯をしている。『聖山戦争』の末期に初陣を迎え、猛将として名を馳せた。ただ、強敵を数多く討ち果たした猪突猛進型の性情は、人の思惑や企みに思いを巡らせることを不得手にさせている。
むしろ、いまだ戦乱の猛りと昂りがその巨体を去らない。
壮年期を迎えても尽きぬ精力を持て余し、ともすれば、美しく育った娘2人にさえ劣情を抱きかねない自分を恐れていた。
かと言って、身体に籠り続ける熱情を放つのに、妓館に向かうのも王族の身としては憚られた。
そこで、たまさか交誼を得た西域の大隊商マエルが設けてくれた隠れ宿で、密かに女を抱き、自らを慰めている。
本来であれば戦場に戻りたかったが、王国に戦場はもうない。
同じく戦場を愛した父、国王ファウロスが、その熱情を注げる相手を見付けられたことが羨ましくもある。
ルカスには忘れられない風景がある。
『聖山戦争』で王国に参朝しない最後の一領となったアルナヴィスを、9年に及ぶ死闘の末に屈服させたときのことだ。
アルナヴィス市街の中心に建つ公宮に足を踏み入れた途端、父ファウロスは雷に撃たれたように固まった。その視線の先では、プラチナブロンドの長い髪を震わせ、白く透き通った肌をさらに青白くさせた公女のサフィナが、怯えた表情で跪いていた。
そのまま神殿に進んだファウロスは、アルヴィナスの主祭神『盾神アルニティア』の神像の前で、サフィナを側妃に娶ることを宣した。
王国の者は呆気にとられ、アルナヴィスの者は怨嗟の眼差しを向けた。
神代の時代から大切に祀ってきた神像だけでなく、敬仰してきた公女まで奪われることは、長く抗戦を続けた領民たちに深い恨みを残した。
その上、領民たちの敬仰の想いは、裏切者への呪いに転じ、サフィナは故郷の者たちから良く思われていない。頼れるもののなくなったサフィナは、一途に国王に尽くしているように見える。――少なくとも、ルカスには。
一時、寵愛がルーファから寄越されたエメーウに移ったものの、エメーウが北離宮に退くと、再び熱情はサフィナに注がれ、老いらくの子までもうけた。
そのような国王の振る舞いに眉を顰める者もいたが、ルカスは羨望の思いで仰ぎ見ていた。
――自分には、それほどの情熱を持てるものがなにもない。
父王を虜にするサフィナにさえ、奇妙な尊敬の念を抱いている。
――兄であるバシリオスが王位に就いたら、同腹の王弟として外征を献言しよう。相手など誰でもかまわない。
それだけが、今のルカスの望みになっていた。
深刻な表情で王室の危機を訴える娘たちに、ルカスは、いつもの人懐っこくて困ったような笑みを浮かべ、巨体を丸めて諭すように宥め始めた。
「サフィナ殿が、息子のサヴィアスを王位にと望んだとしても、所詮は第4王子だ」
「それはそうですが!」
と、声を荒げるペトラを、ルカスは手で制した。
「まあ、聞いてくれ。王太子であるバシリオス兄上との間には私もいるし、旧都におわす第2王子のステファノス兄上もおられる。本当に企みがあったとしても、そんなものは無意味だ。気にすることはない」
「でも……」
と、言ったきり、ペトラは唇を噛んで黙り込んだ。
王宮にいると存在を忘れがちな、国王の庶長子である第2王子ステファノスの名前を持ち出され、勢いに水を差されたこともある。
本来、正妃の次男であるルカスが第2王子位を賜っても不思議ではないが、早逝した前妻への国王の愛情の深さが、ステファノスをして第2王子の地位にあらしめた。
ただ、第2王子ステファノスは王太子の立場を憚り、旧都の護り役を願い出て王宮を去った。現在の王都で存在感は薄い。しかし、聖山戦争中最大の激戦となったヴール戦役で名を馳せた名将でもある。改めて持ち出されたその名前には、ペトラの口をつぐませるだけの威がある。
妹のファイナは、口惜しげなペトラの横顔を心配そうに見詰めている。能天気にも見える父に、「女の勘」が伝わらないことが、もどかしくてならない。
まもなくリティアも王都をあける。
まだ若いとはいえ、第六騎士団を率いて『無頼の束ね』も務めるリティアの存在は、側妃サフィナの押さえにもなっている。
煌びやかな威容を誇る王宮。しかし、可憐な内親王姉妹の目には、暗雲が忍び寄っているようにしか見えなかった――。
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