第14話 はじめてのあくま
もうすぐ長かった中学一年生が終わろうとしている。今日と明日に行われる期末試験さえ終わってしまえば、後はのんびりと過ごせるだろう。あたしは試験の追い込みの勉強というものをほとんどしない。勉強が嫌いなわけではない。毎日二時間くらいは自分の部屋の机に向かっているのだ。土日も欠かすことはない。だから今さら試験の為の勉強をしようという気にならない。世間から見たら、毎日積み重ねを怠らない真面目な子だと言われるかもしれないが、そうではない。試験というものに不真面目なのだ。
果歩ちゃんと美羽ちゃんも試験勉強が嫌いらしい。さらに、普段机に向かう習慣もないし授業中だってろくに先生の話を聞いていないのだって。まったくの勉強嫌いのようだ。だから、今日も放課後に公園で暗くなるまでお喋りをしてきた。
机に向かっているとどこからかあたしの名を呼ぶ声がした。空耳だろうと気にもしなかった。だってもう夜の十時。ドアも窓もしっかり閉まっている。
「優江。お前だよ、優江。」
やっぱり聞こえた。さっきより鮮明に。狼狽えたし、怖かった。しかし、驚くのはその後だった。周囲を見渡すと信じられないものが目に映った。
(きゃあ。)
声にはならなかった。そこにいるのは見たこともない動物。いや、こんな動物知らない。なんなのだ、これは。生きものなのか。
顔面は人間のようで首から下は猿そっくり。そして、背中には蝙蝠みたいな小さな羽が生えていて、そいつを動かして宙に浮いている。身長は四十センチメートルくらいか。顔付きは日本人のように見えるが瞳は真っ青だった。
まずは大きく息を吸い込んで吐き出しながら目を閉じる。呼吸を整えて自問する。あたしは勉強していたのだっけ。疲れて寝てしまったのだっけ。そういえば瞼が重かった。夢を見ていたのだよね。
ゆっくりと目を開いた視線の先には、気味の悪い笑みをした不気味な生物が浮いていてこっちを覗いている。
「嘘お!」
今度は小さな声が出てしまった。しかし、あたしの心に湧いたのは怖れではなく怒りに近いものだった。
なんなのかあんたは。いったいどこから入ってきたのか。なにをしにやってきたのか。
あたしの言葉を理解しているようだ。
「どうして人間というやつらはみんな同じことを聞いてくるんだろうな。」
そいつは呆れていたようだ。小さなため息をつく。気味の悪い顔色をしているけど、その表情を読み取れた。
「いいか、優江。おまえらが人間という分類ならば、オレはデモンという分類なんだ。おまえらみたいに個々に名前なんて持っていないから、いつも張り付いた人間に名前を付けて貰っているよ。優江もオレにいい名前をつけてくれよ。」
気安く呼び捨てにしないで。勝手なことを願い求めたりしないで。張り付くとは憑依するということなのか。なぜそんな迷惑なことをされなくてはならないのか。あたしとは対照的にソイツは随分と落ち着いている。人間と話をすることに慣れているようだ。
「ごめんな。突然現れて無茶な質問をしてしまったな。まずは優江の問いに答えないといけないな。まずはなにから説明したらいいだろうか。」
あなたは一体何者なのか。なぜあたしに憑依するのか。なによりもそれを納得させて貰えないと話にならない。
「オレはデモンという生き物。人間に張り付くことが存在する理由なんだ。どの生きものに張り付かなくてはならないのかは、そらに指示を受ける。共通して言えることは死期の見える人間に限られるということだ。」
死期が見える?このあたしが。眠る度に見えるあの幻影のことを言っているのか。あれはやはり初めて目にしたときに感じた通り、あたしの命の残量を知らせるものなのか。
「なぜ人間に張り付くのかという問いには答えられない。もったいぶったり、嫌がらせをするつもりではないんだ。オレにも分からないんだ。ただ、そらに命じられたからそうしているとしか答えようがない。」
理由も心得ていないのにそんな不気味な行動をするのか。明確な目当てもないのならやめてくれ。忌々しいのだ。
「ご下命なのだからやむを得ないじゃないか。その理由を知る必要もないだろう。優江はなんの為に、なにをするために生きているのか知っているのかい。」
あたしが生きている理由。何度も探したことがある。幼い頃から考える癖はあったし、あの幻影が見えてからはなおさら意識してきた。行き着く答えは、理由などない、だった。だから、ソイツの言うことが正論だと認めるしかない。
さっきからソイツが口にするそらとはなんなのか。ソイツがそらの言いつけでこの世に現れたのなら、あたしがここにいることもそらが決めたことなのだろうか。
「その通りだと聞いているよ。この世の生きものはすべてそらによって、ある目的を果たす為に生まれてくるのだと。そらがなにかとは回答を示せない。オレを造ってくれたこと。この世界の唯一の意思であることくらいしかオレも知らないからな。」
あたしは頭を左右に激しく振ることが精一杯。悪魔の話を否定するわけでもない。そもそも理解が追いつかない。ただ、どこかで似たような話を聞いたことがある気もする。あれは宗教の本だったか。遠い昔の話だけど随分印象に残っている。これ以上、悪魔の存在と、あたしに憑依する理由を深く掘り下げても腑に落ちることはないだろう。それに実はどうでもいいことなのだ。あたしが知らなくてはいけないことはまったく他にある。あたしは本当にあと二年程しか生きられないのか。
悪魔はこれまでより真剣になったような面貌をする。人間と同じ様な顔の造りをしていたが、さらに人間らしい顔色をして頷いた。
あたしは縋るように、乞うように睨み返す。悪魔はあたしの気持ちを汲み取ったように静かに何度か首を縦に振った。
どうしてあたしが選ばれたのだろうか。どうして死ななくてはならないのか。
「別に優江はなにかに捧げる為に死ぬわけではないさ。生贄として選ばれたわけではない。死ぬことに理由なんてない。そらが決めたことだから。優江は生まれたときにはもうすでに死ぬ日も定められていたんだよ。優江だけじゃない。他の人間も、象も白鳥も毛虫もデモンもみんないつ生まれて、いつ死ぬのかを決められてこの世に現れるんだ。そして、大概の生きものは自分の死ぬときというものを知りながら生きているんだ。オレはおよそ六百年後に死ぬんだよ。なぜか、人間は命がいつまで続くのか自覚していないものがほとんどだ。おそらく、その能力をそらに奪われてしまったのだろうな。だから、オレにしてみれば死期を存ずる優江が当たり前で、他の人間が劣っているものだと憶えるけど。」
そんなのおかしい。死ぬ日が分かっていては健やかに生きていけるはずがない。そんなものが見えていては希望が湧かないじゃない。
人間とは行く末が幸せだと信じているから生きていけるのではないのか。明日も、来年もきっと喜ばしいから今日を一日頑張ろうとするのではないの。人間だけではないよ。どんな生きものだって明日死ぬと知っていては今日を生きる活力がなくなっちゃうよ。
どんな生きものだって、とは言ったけど六百年で死ぬと言っているソイツのことは敢えて無視だ。悪魔とその他の生きものを一緒にされては困る。
「オレは優江の言うことは間違っていると思うな。誰だっていつかはみんな死ぬものだと認識しているだろう。明日はいい日かもしれないし、来年も楽しいことがあるかもしれない。だけど、その先には死があると分かった上で生きているじゃないか。明日が晴れ晴れしいから生きていこうという気持ちを持つことと、死を受け容れることは別の問題なんじゃないのか。」
悔しい。ソイツの述べることが正論だと感じてしまった。だけど、ソイツの口述は絶対にナニカがおかしい。受け容れたくない。それに納得してしまえばどこか人間らしくない気がする。嫌だ。あたしは幸せになりたい。
「またそんな分からないことを言う。オレは優江が幸せになれないなんて言っていないじゃないか。そうなれるかどうかは優江次第だろう。それこそ優江が頑張って生きていけばときめくことが出来るだろう。」
また正論だ。あたしだって馬鹿じゃないのだからもう分かっている。生きているうちに幸福になることと、いつかは死ぬことは別問題なんでしょう。なんでも知ったように言うけど、あんたは人間の気持ちというものをまるで汲み取れていない。
「その顔は納得していない様子だな。他の人間もそうだったよ。ただ、これまで付き合ってきた人間と優江には大きな違いがある。優江はこれまで幸せになる努力をしていないじゃないか。なんでもかんでも冷めた気持ちで扱って、懸命になることなどなかったじゃないか。別にそのことを非難するわけではないけど言うことと矛盾はしているだろう。」
そう見えるかもしれない。だけど、自分なりに努力はしているつもりだ。だって幸福に生きたいから。
「そもそも幸せってなんだ。努力して手に入れられるものなのか。金をたくさん持つことか。有名になることか。それとも長生きすることを言っているのか。」
だめだ。もう堪えられない。これ以上あたしを責めないでくれ。
「死ぬのなんて怖いよう。」
本音が出た。あたしはソイツの話を論破したかったわけじゃない。現実から目を逸らしたかっただけなのだ。目頭と鼻の先が熱くて痛い。死ぬのは真に怖い。だけど、死ぬという言葉が飛び交うこんな会話も怖いのだ。
「悪かったな。嫌な思いをさせるつもりじゃなかったのに。」
悪魔も少し喋り過ぎたと感じたようだ。
「これからは優江が望めばいつでもどこにでも現れるから。機嫌を直してくれたら呼んでくれ。」
ソイツはばつが悪そうな顔をして、窓の外の闇の中に溶け込んだ。生まれて初めて出逢った非現実的な存在と、これまでで一番現実的な会話をしてしまった。嗚咽が止まらない。枕に顔を埋めて震えるしかない。
きっとあなただって同じでしょう。
その日は岳人の部屋に戸締りに行くことが出来なかった。
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