第71話
思わず反射的に「ちょっと待ってください」と口にしようとした直後、そこに被せるようにして修一郎が「今、何と?」と問い返した。
「二度同じことを言うのは好きではないのだがね。君のご息女を預かると言ったのだよ。それに……っ!?」
淡々と言葉を発していた男性が口を噤んだ。それもそのはずだ。先ほどまで比較的穏やかだった修一郎の全身から刺すような威圧感が噴出していたからである。
それまで味わったことのないほどの濃密な怒気に、自分に向けられていないにもかかわらず沖長は全身が無意識に震えていた。まるで蛇に、いや竜にでも睨まれているかのようで、恐怖が周囲を包み込んでいる。
また男性を守ろうとしてか、秘書が彼の前に立って身構えているものの、その額からは汗が零れ落ち表情も強張っていた。
「
「で、ですが?」
「二度も言わせるな」
「っ……はい」
二名井と呼ばれた女性秘書が、おずおずと男性の背後へと控える。
(この空気感で平然としてるなんて、この人……)
これほどの怒りに満ちた修一郎の傍にいるだけで大変なのに、対峙しながら平静を装うっている事実に素直に感嘆した。恐らくこちらが想像できないほどの修羅場を経験しているのだろう。
「……修一郎、これは国家案件だということは理解しているだろう? お前には、いや、お前たちならばこの状況がどういうことなのか誰よりも分かるはず。違うか?」
「国家のために愛する娘を犠牲にしろとでもいうつもりですか?」
「犠牲ではない。国家安寧のための一柱になってもらうということだ」
「ものは言い様ですね。そうやって過去、どれだけの悲劇を生んできたか知らないわけがないでしょう?」
「そのお蔭で今の世がある。お前らが幸せを享受できるのは、過去に散っていった多くの者たちの屍を越えてきたからに他ならない。この期に及んで、その道を否定するつもりか?」
「……ナクルはあなた方に渡すつもりなどありません。もちろん蔦絵さんもです。どうぞ、お引き取りを」
「それで国が傾いても仕方ないと?」
「それをどうにかするのが、あなた方なのではないのですか? 第一、我々はすでに縁を切ったはず。あなた方もそれを承諾した」
「事情が変わっただけのこと」
「……あなたはいつもそうですね。国家のため国家のためと家族さえ顧みない。もっと見るべきものはあなたの近くにあるというのに」
修一郎のその言葉に、蔦絵が悲し気な表情を浮かべる。しかし男性にとってはまったく興味がないような様子で眉一つ動かさない。
「蔦絵さんもナクルもあなた方の玩具ではない。決して彼女たちの人生を踏み躙させはしない」
「日ノ部ナクルが勇者として覚醒したといってもか?」
「二言はありませんよ」
ナクルが小首を傾げなら「勇者?」と呟いているが、誰もそれに応える人はいない。
それからしばらく睨み合いが続いていたが、不意に男性が溜息とともに首を左右に振る。
「……奴らは勇者を野放しはしない。後悔することになるぞ?」
しかしその問いに対して修一郎は黙って男性の目を見返すだけだった。
すると男性は目を閉じて踵を返し車の方へと歩き出す。秘書がドアを開け、奥へと男性は入っていく。どうやらここは諦めて帰るようだ。
ドアが閉まり、そのまま車が発進するかと思われたが、窓がゆっくりと開き男性の視線が蔦絵へと向く。
「お前には義務が存在することを忘れるな」
その言葉に蔦絵は息を呑むが、次に男性は何故か沖長を注視するように見てきた。
(……俺?)
どことなく値踏みされているような視線に疑問が浮かんだが、すぐに向こうは視線を切り窓が閉まっていき、今度こそ車が動き出していった。
「…………ふぅ」
重苦しさを表現するかのように修一郎が溜息を一つ吐くと、そんな場の空気を一掃するつもりか、パンパンと手を叩く人物がいた。
「はいはい、いつまでもこんな場所に立ってないで中に入りましょう」
ナクルの母であるユキナだった。そういえばこの場で誰よりも自然体だったのが彼女だった気がする。
そして不安そうに顔を上げて沖長を見上げてくるナクルの頭を優しく撫でながらその手を取る。
「ほらナクル、そんな顔するなって。蔦絵さんも」
「オキくん……」
「沖長くん……」
沖長はニカッと白い歯を見せて「汗だくなんで風呂に入りたいですね! それにお腹も減ったし!」と声を張ると、ナクルと蔦絵はキョトンとしているが、大人たちが次々と穏やかに頬を緩める。
「そうだな。まずは風呂にでも浸かってゆっくり身体を休めるといい」
修一郎からの提案に沖長が返事をすると、ナクルと蔦絵もまたコクリと頷いた。
そして言われた通りにナクルは蔦絵と一緒に入浴場へと向かって行く。
何だかドッと疲れた沖長も身体と心の疲労を回復させるために入浴場へと向かう。しかしそこへ何故か修一郎と大悟も一緒についてくることになった。
それから三人で湯に身体を沈み込ませているのだが……。
(さっきから会話の一つもない…………気まずいんだけども)
修一郎の雰囲気は変わらないが、大悟はどこか不機嫌そうだ。国家案件やらナクルや蔦絵のことやらで何やら複雑そうだが、こんなふうに沈黙が続くのも居心地が悪い。聞きたいことはあるが、何となく尋ね辛い空気だからだ。
すると先に口火を切ったのは修一郎だった。
「悪かったね、沖長くんまで巻き込んでしまって」
「え?」
「本当ならこれは他所様の、しかも子供に見聞きさせるようなことじゃなかったんだけどな」
「あ、いえ……その……」
咄嗟に何を言ったらいいか迷ってどもってしまった。
「けれど君ももう無関係じゃなさそうだからな。……まいったね、これは」
ボリボリと頭をかきながら困惑している様子の修一郎を見て珍しいなと思っていると……。
「ったく、相も変わらずお偉いさんってのはうぜえな」
それまで黙っていた大悟が愚痴を零し、さらに沖長の方を見て続ける。
「お前もまだガキだってのによぉ。まあ、巻き込まれただけならまだ救いはあるだろうが……」
そして直後、大悟が真剣な眼差しで問い質してきた。
「小僧、お前――――ダンジョンに入ったのか?」
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