第52話

 より正確に言うならば、原作はまだ始まっていないといえる。

 長門の話から、ナクルの物語がスタートするのは家族旅行としてこの【温泉旅館・かごや亭】で世話になっている二日目なのだ。


 冒頭から、ナクルのナレーションが入り、今は家族旅行の真っ最中で、ここは父親の知り合いが経営する旅館でうんたらかんたらという説明がある。

 そして二日目に予定されていたあるイベントにて、本当の原作が産声を上げるというわけだ。


 今はまだ旅行初日ということもあって原作前ということになるが、長門曰くイレギュラーの存在のせいでイベントが前倒しになったりする二次小説などもあるので注意した方が良いという忠告は受けていたので、風呂やトイレ以外ではできるだけナクルの傍にいるようにした。

 しかしそれも杞憂に終わり、初日は何事もなく過ぎていき夜を迎える。


「はぁ~、ご飯、美味しかったッスね、オキくん!」


 先ほど頂いた夕食の話題になり、ナクルは大満足といった様子だ。確かにとても豪華な食事だった。

 それこそ一流の料亭で出てくるような会席料理を堪能することができたので、グルメ好きな沖長としても喜々とした時間を過ごせたと思う。


 ちなみに隙を見て、いろいろ回収しておいたので、また食べたくなったら取り出して口にしようと考えている。出来立てのまま保存できるので、本当に《アイテムボックス》は便利にバグっている。


「ねえねえオキくん、お土産見に行こうッス!」


 この旅館には、玄関近くに小さいながらも土産が売っている区画がある。


「土産を物色するのはまだ早くない? 帰るのは明後日だよ?」


 二日目の午後とか最終日あたりが普通ではないかと思うのだが、それは沖長の先入観なのだろうか。

 とはいっても今は手持ち無沙汰な時間なのも確かで、土産を物色してはいけないという理由もないので、ナクルと一緒に向かった。


 そこではこの土地の特産品であったり、ゆるキャラのキーホルダーなどの定番が置かれている。


「わぁ、このぬいぐるみ可愛いッスよ、オキくん!」


 ナクルが手にしたのは、少し……いや、かなりユニークなぬいぐるみだ。


「それって……何?」

「ええ、知らないんスか! ゾンビーバーくんッスよ!」


 確かに全体が腐食しているような、まるでゾンビ化したビーバーをデフォルメ化した感じだ。目とかポロンと落ちてクラッカーの片方のタマみたいになっていて、ユラユラと動くようになっている。どう見ても可愛いとは思えない造形だ。


「えと……可愛いの?」

「可愛いッスよ! ほら、この垂れた目とかだらしなく開けた口とか、溶けかかったような顔とか!」


 垂れた目って、取れかかっている目だし、口なんてナクルもだらしないって言っているし、溶けかかった顔のどこが良いのかサッパリだ。


「今、ゾンビーバーくんのアニメが大人気で、ボクも毎週楽しみにしてるんスよ!」


 どうやら深夜アニメで、このゾンビーバーが主役らしい。内容はいろんな動物がゾンビ化した世界がモチーフになっており、人間はすでに存在せずに終末世界でゾンビーバーが放浪する話とのこと。


 ギャグアニメらしいが、たまに泣けるような話があって結構なファンも獲得しているようだ。グッズ展開しているくらいだから人気ではあるのだろうが。


「始まったばかりッスけど、もう二期も決まってるんスよ!」

「マジかよ……」


 思った以上に人気コンテンツだったらしい。確かによく見れば、ここにある中でもご当地の品よりも、ゾンビーバー関連のグッズの方が種類が多い。


(こんなのが主役のアニメが大人気だとは……世界が違えば、ツボも違うってことか?)


 もしかしたら自分が知らないだけで、前世の世界でもこういったコアとしか思えないコンテンツが人気を博していたのかもしれないが。


「帰る時にコレ買うッス!」

「そ、そっか。良かったな」


 いつかナクルの自室が、このキャラで溢れることを考えると思わず頬が引き攣ってしまった。

 それから一通り見て回ってから、ナクルも満足したようで部屋に帰る。すでに布団が敷かれており、いつでも寝られる準備は整っていた。


 何故か沖長が真ん中で、左右にナクルと蔦絵に挟まれる形になっているようだが。

 しかも床に就けば……だ。


「ナクル……近いんだけど?」


 左に顔を傾ければ、沖長の腕をギュッと抱えている彼女がいた。最早彼女のために敷いた布団が完全に無駄になってしまっている。


「だ……だめッスか?」


 そんな目を潤ませながら聞いてこないでほしい。これで断れる兄貴分なんてこの世には存在しないではないか。

 ということで仕方なく「いいよ」と言うと、ナクルは満面の笑みでもっと身体を寄せてきた。


 すると――ギュッと、反対側の腕に温もりを感じる。


「…………あのぉ……」

「ふふ、どうしたのかしら、沖長くん?」


 右を見ると、そこには愉快気に微笑む蔦絵が横たわっていた。


「あぁ! だめッスよぉ、蔦絵ちゃん!」

「えぇ、どうしてかしら? ナクルだって抱き着いているでしょう?」

「う、そ、それは……ボ、ボクはいいんス!」

「それは不公平じゃない。私だって沖長くんと仲良くしたいわ。ねぇ、お・き・な・が・く・ん?」


 耳元で必要以上に息を吐き出さないでほしい。背中がゾクゾクとして癖になりそうだから。それに……。


(この軟らかい感触……)


 ナクルとは身体の出来がやはり違う。何が違うといえば、それはご想像にお任せしたい。

 とにかく男子にとって嬉し恥ずかしロマンが詰まったアレで、沖長の右腕が挟まれている。こんなシチュエーション、前世から思い返しても初めてだ。


「むぅぅぅぅ! オキくんのばかっ!」

「な、何で俺が怒られてんの?」


 結果的に三人一緒に密着して寝ることになったのだが、それまでナクルを説得するのに非常に苦労した沖長だった。


 そして翌朝、いよいよ原作が始まる――。




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